本論文では、実相寺プロダクションとATGが共同制作した、石堂淑朗脚本、実相寺昭雄監督の3本の映画について論じ、作家と監督の葛藤について詳しく論じる。 その際、彼らがこだわった「無明」という言葉に着目し、3本の映画を分析した。 ハーマン・メルヴィルの短編小説「BARTLEBY, The Scrivener」をめぐる石堂と実相寺の対立も詳しく分析した。
石堂淑朗と実相寺昭雄の「知っていても止められない心」が、彼らにとっての「無明」の在り方であることを分析して明らかにした。 また「無明」という言葉が、バートルビーの「私はしたくない」という言葉につながる過程を詳しく分析した。 その過程で、石堂と実相寺の問題の本質を指摘した。その本質を巡って、石堂は「古来より続いてきた民俗の血統が未だ解明されていない」という問題を主張し、実相寺は「引揚者であることの汚名」を主張している、と指摘することができた。 彼らの最後の作品である「歌」では、両方の問題が融合し、昇華されたことを明らかにした。
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