本稿は、旧金沢市域に位置する神社を事例として、
神仏分離
以降の郷土史家の言説において藩政期の神社と社僧別当がどのように描かれたか、考察するものである。事例としての金沢は、藩政期に社人が奉仕した神社がむしろ稀少で、幕末までに存在していた多くの社僧や修験が明治以降に復飾し、神職として新たに神社に奉仕するようになった地域というのが通説である。この対象に関して本稿では、幕末・明治期の郷土史家・森田平次(一八二三-一九〇八)による言説を事例としてとりあげた。この事例研究から導かれた結論は、次の二点である。第一に、森田の言説から、当事例における
神仏分離
の中心に排仏が位置していないと考えられることである。第二に、森田が復飾した僧や修験を藩政期に神社に従属していた社僧別当として語ったことにより、史実上は神社か寺院か明確にしがたい二〇以上の宗教施設に関して、正規の社人が奉仕していなかった神社であったと見なす偏見が生成したと考えられることである。
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