明治22年の東京市区改正委員会において計画された公園配置計画を対象として, その計画思想を衛生行政の動向と関連させながら分析した。公園配置計画の特色として神田区付近への集中的配置が認められ, これを当時の内務省と東京府などによる神田下水等の衛生環境整備との関連から考察した。委員会での公園計画における衛生論の立場は, 計画全体についてみれば市区改正審査会時に比べて影響力を減じたと思われるが, それは当時の衛生行政が, 明治19年のコレラ大流行を経て, 上下水道の整備や建築規制の実現化という, より基盤的な衛生環境整備に重点を置くようになり, その結果公園の意義に関する認識が審査会時に比べて相対的に低下していたものと考察した。
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