本調査により擦文時代に属する2個の竪穴住居址を発掘した。そして両竪穴は形態,構造,出土人工遺物の内容に於て,当時代に属する既知の竪穴例と略等しい事実を示した。しかし同時に下記の如き若干の新事実を含んでいた。
1.竪穴の壁外の表土下に認められた明黄色土層(第2'層)は竪穴内にまでは延長されず切断された状況を示していた。他方明黄色土層下の黒色土層(第3層)は竪穴の掘り込みにそって竪穴内外に連続して堆積しており,竪穴住居廃棄後の堆積であることを示していた(Fig.II, III, VII)。
2.1号竪穴には,炭化物と焼土が多量に遺存し,しかも可成り規則的に分布していた。また室内にプラットフォーム状の遺構が認められた(Fig. II ,IV, V)。以上の事実は両竪穴に構架されていたはずの住居の構築年代,及び構造に関連する貴重な資料であると考えられたので,次に列挙する如き考察を加えて報告した。
1.両住居の構築年代は竪穴の壁外に認められた明黄色土層(第2'層)の堆積後であり,それは竪穴構築時に切断されたと推定される(Fig. II, VII)。
2.黒色土層(第3層)は竪穴住居の屋根の盛り土であったと考えられ,住居崩壊後床上に落下堆積したものと推定される(Fig. II, VII, IX)。
3.1号竪穴床上に遺存した炭化丸太材は屋根の垂木と推定される。その他板状炭化材,草茎炭化物は尾根葺材ないし床の敷物と考えられる(Fig. II, IV,V)。
4.1号竪穴の北東壁沿のプラットフォームは土壇ベンチと推定される(Fig. II)。
5.焼土及び炭化材の遺残分布状況から推して屋根に穴のあいていたことが考えられる。さらにそれは天井から梯子で出入りする入口の様式を推測させる(Fig. II, IX)。6.焼土と炭化物の遺残は住居の焼失に原因すると考えられるが,焼土は住居構築材等の燃焼により屋根の盛り土の一部が変質したものと推定される。
抄録全体を表示