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クエリ検索: "第四インターナショナル"
3件中 1-3の結果を表示しています
  • ―ラスキン会議における男女平等賃金要求をめぐって―
    冨永 貴公
    女性学
    2007年 14 巻 56-71
    発行日: 2007/04/09
    公開日: 2021/12/09
    ジャーナル フリー
  • 河内 信幸
    現代史研究
    1976年 28 巻 32-62
    発行日: 1976/05/20
    公開日: 2021/10/23
    ジャーナル フリー
  • ある在日朝鮮人との対位法的記述を通して
    真鍋 祐子
    文化人類学
    2022年 87 巻 2 号 243-263
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    本稿は、我がこととして向き合うべき切実な主題をもたず、半生を振り返っても「語るほどのことがない」、非当事者としての立場から記述するオートエスノグラフィ(以下、AE)である。サイードによる対位法的なテクスト読解法を援用し、私と同郷で同年代かつ、各々の立場と方法で韓国民主化運動という共通の課題に向き合ってきた在日朝鮮人・金利明のライフヒストリーを取り上げる。日本の植民主義が生み出したマイノリティ/マジョリティの関係性において、対位法的にAEを記述する過程を通し、自らの来歴に「帝国主義のプロセス」が埋め込まれていることをあぶり出そうとした。この対位法的なAEが明らかにしたことは、まず、第一次的ニーズの帰属先である「当事者」の物語を通して「私」の取るに足らない日常の記憶が掘り起こされること。次に、その記憶を忘却することで「語るほどのことがない」と沈黙してきたこと自体、実は非当事者=マジョリティの特権であったこと。また「私」における「魂の脱植民化」は、「位置的主体化」を経たマイノリティのそれと差異化され、各々が歩んできたプロセスには動態的/漸進的という相違が明確に示された。意識化への転換点ではともにエピファニーが経験されるが、「私」にあっては調査対象に学びながら、同時に「作品を書く過程自体」の中で自身の植民地性と格闘する中でしか、表象する立場としての自らの特権性を学び捨てることができなかったからである。

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