石田三成は関ヶ原の戦いで敗れたために、その関係史料の残存状況はあまりよくない。そのため軍記物などの編纂物によって語られているのが現状である。しかしこのような方法では真の三成像を描くことは出来ない。そのためまず大事なことは一次史料を博捜することである。本稿では『新修彦根市史』によって近江関係の石田三成関係史料が博捜されたことを受けて石田三成がいつ佐和山に入城したかを考察した。その結果これまで言われていた天正一八年七月説を否定し、新たに天正一九年四月説を提唱することとする。しかし近江から見た場合、その入城時期は領主としてではなく、秀吉蔵入地の代官としてのそれであり、湖北四郡を統治する領主としての佐和山入城は文禄四年七月の秀次事件後のことであった。これまでその入城時期、つまりいつから領主として赴任したかについても定かでなかった。今後も地道な史料発掘を通じて真の三成像を明らかにしていく必要があろう。
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