本稿では本誌前号掲載の拙稿に引き続き 1960 年代にどのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのか、その発端について、とりわけ 2 回目の国会議論を明らかにしていくことを目的とする。自閉症が 2 回目に国会に登場したのは、1 回目の「1967 年 5 月 25 日 55 回衆議院会議録文教委員会 36 号」から 13 日後、「1967 年 6 月 7 日 55 回衆議院会議録社会労働委員会 17 号」のことである。6 月 7 日の国会では、当時野党だった社会党議員島本虎三が、厚生大臣及び厚生官僚に対して、日本の自閉症問題とその対処を巡る質疑応答を、三重県立高茶屋病院内の三重県あすなろ学園や親の会設立の紹介なども交えて具体的に展開する。島本の地元・北海道と三重県には、親の会、施設要職、政治家などのつながりがあったことから、島本があすなろ学園の職員や入所児童の親たちからの陳情を受けた可能性はあり、国会答弁に先立って、国に自閉症への対処を急ぐよう働きかけていたという推測もできる。国政の場で自閉症児とその家族の問題が具体的に取り上げられたこと――全国から自閉症児とその家族が集まって来たあすなろ学園の親の会と職員、支援者たちが抱える問題を知らせた――をきっかけとして、その後、自閉症問題は地方の一公立病院が抱える患者の院内処遇問題ではなく全国規模の社会問題として捉えられはじめる。つまりこの質疑応答は、それまで制度の狭間にあった自閉症とその周辺の障害を支援対象とする制度の具体化、施策実現に向けてのきっかけをつくったものとして大きな意義があるといえる。
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