詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "荒野の用心棒"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 西村 安弘
    映像学
    1995年 55 巻 76-85,126
    発行日: 1995/11/25
    公開日: 2023/03/31
    ジャーナル フリー

    Following George MELIES’ “Le Manoir du diable” (1896), many horror films were produced in Germany in the late 1910s and in the 1920s, under the strong influence of German romanticism. In Hollywood, Universal and RKO contributed many films to the genre, which was inspired by the English Gothic novels. In the late 1950s and in the 1960s, the horror film, now in color, began to flourish in other countries. The Italian horror film genre started with “I vampiri” (1957) by Riccardo FREDA, with Mario BAVA as cameraman. BAVA’s debut as director “Black Sunday” (1960) was based on the Russian Gothic novel “Vij” by Nikolaj GOGOL. BAVA worked also as cameraman for this film, and his outstanding visual technique and excellent special effects created an atmosphere which dominates the genre. Like this film by BAVA, Italian horror films are often considered as “faceless”, without any Italian characteristics, and accused of being mere imitations of - mainly - American films. However, this “international” character in the setting and language is required by commercial reasons and can be considered as uniqueness of the Italian horror film genre.

  • 嶋瀬 拓也
    木材保存
    2021年 47 巻 3 号 129-132
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/08/01
    ジャーナル オープンアクセス
  • 二〇〇〇―二〇一〇年の日本映画をめぐって
    及川 茜
    地域研究
    2013年 13 巻 2 号 108-125
    発行日: 2013年
    公開日: 2020/10/28
    ジャーナル フリー
  • 森 年恵
    映像学
    2022年 108 巻 206-225
    発行日: 2022/08/25
    公開日: 2022/09/25
    ジャーナル フリー

    本論は、溝口健二作品の中でまだ十分に考察されていない『噂の女』(1954年、大映)を、『ジェニイの家』(マルセル・カルネ監督、1936年)のリメイク作品として検討する。本映画は、舞台をパリのナイトクラブから京都島原の廓、井筒屋に移し、母娘と男性の三角関係などの基本プロットを受け継ぐ。ただし、三角関係に娘も恋人も気づかないまま母の元を去る原作と異なり、『噂の女』はそれに気づいた上での三者の激しい衝突を経て、男性による女性の搾取を認識することで被害者として母娘が連帯するに至る。リメイク過程の詳細な検討から、川口松太郎による小説へのアダプテーションが甘い「母もの」であったことが、製作過程に困難をもたらしたことが見える。女性の搾取という溝口の一貫した主題が導入されたものの、廓の経営者の母娘の和解が搾取への批判を弱くしたことが同時代の低評価となった。しかし、群像を描くカルネの世界を受け継ぎながら、時代を超えた搾取構造の全体を井筒屋の内部に集約したところに本映画の成果を見ることができる。原作の制約の中で新たな表現を生むリメイク映画の創造性の一例と考えられる。

  • 雑賀 広海
    映像学
    2021年 105 巻 67-87
    発行日: 2021/01/25
    公開日: 2021/02/25
    ジャーナル フリー

    新藝城は1980年に設立されると、またたく間に香港の映画市場を席捲した。新藝城の作品が劇場を支配し、新人監督がデビューする場であった独立プロダクションの作品を公開する機会はきわめて限定されてしまう。したがって、新藝城は1970年代末に期待された多様な映画製作の種を摘み取った会社として、否定的な評価を与えられることがしばしばある。また、作品の内容についても、物語やギャグが形式的で画一的であると批判される。その一方で、それまでの興行収入の記録を大幅に更新し、1980年代の香港映画産業を牽引した存在であることは確かである。本論文は、新藝城の功罪について、新浪潮を代表する監督の一人であり、新藝城の中心メンバーでもあった徐克を中心に再考する。とくに注目するのが、集団創作という新藝城の製作体制であり、この体制においては監督個人の判断で撮影することは厳しく禁じられていた。そのために、徐克は数年で脱退することになるものの、集団創作の経験は有益だったとも述べている。本論文が注目するのは、新藝城の集団創作が香港映画産業を席捲することで、俳優や監督など、映画製作におけるそれぞれの専業が入り乱れ、無制度的状態と化したことである。そして、作家主義とは相反するような新藝城の集団創作が、徐克や1980年代の香港映画産業に与えた影響を明らかにする。

feedback
Top