大和綿作は古い起源をもつが,近世中期以降他地域に圧倒されて衰退してゆく.明治初期には,大和全般に最盛期の作付率の1/2~1/3にまで下降しているが,部分的にはなお高い作付率のところもあった.
金剛・葛城山麓の南葛城地方でも,近世中期にかなり高い作付率を示した.しかも,それは単に用水不足解消の手段としてのみ栽培されたのではなく,高度な商品生産の農村への浸透であった.しかし,田方綿作であったため,自由な発展は望みえず,天明~化政期頃から衰弱する.
それでも,近世後期にはこの地域でも,白木綿や菜種油の生産などの農村工業や在郷商人の活躍が活発であった.
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