本稿は,東海屈指の後期古墳である賤機山古墳出土須恵器を基軸に駿河西部域古墳出土須恵器の分析を通じて,須恵器流通の側面から古墳相互の連関構造を明らかとする。そして,当該地域からも多く出土している東海有数の湖西窯産須恵器が,7世紀から8世紀前半にかけて東日本太平洋沿岸諸国に広域流通する過程を6世紀代より追尾し,その担った役割の位置付けを行う。
これまで駿河西部域の6世紀代窯跡は,天神山窯と秋葉山窯のみが確認されているにすぎなかったが,賤機山古墳出土の百点あまりの須恵器胎土を観察すると,既存の窯の他に複数の須恵器胎土が検出された。これらの須恵器胎土は駿河西部域の古墳からも数多く認められ,個々に特徴ある器種も抽出できることから,複数の地域窯の存在が確実視されたのである。これら諸窯は,湖西窯産須恵器との共伴より6世紀前半に開窯し,6世紀末から7世紀初頭にかけて廃絶することが判明した。開窯後の地域諸窯は,古墳の増加とともに流通圏も拡大し,6世紀後半には飛び石状の流通形態や複数産地から構成される重層的な古墳供献須恵器群,特産品による遠隔地流通など,古墳相互の関連が緊密に強まって地域流通は成熟期を迎えるのである。
その一方で,緊迫した朝鮮半島情勢を背景に,出自の異なる首長を横断した地域の一元化掌握を目指す賤機山古墳被葬者が,6世紀中頃に倭政権(欽明朝)より派遣される。しかし,強固な古墳被葬者らの相関関係に阻まれるとともに,成熟した地域流通とはいえ脆弱な共同体を生産基盤とするため,手工業生産物の確保は著しく安定を欠いたものであった。このため賤機山古墳被葬者にみる6世紀代の地域一元化の政治手法は,ごく限られた領域で貫徹されるに過ぎず限界を露とするが,7世紀以降の湖西窯に見られる流通手法によって克服される。すなわち,6世紀末から7世紀初頭に駿河西部域諸窯が一斉に営窯を停止すると同時に,当地域を含めた東海東部域の古墳出土須恵器は,湖西窯産須恵器によって一元化されてしまう。このような広域にわたる一連の現象は,後の律令体制へ繋がる倭政権(推古朝)の新たな政治施策の結果と見做すことができるのである。
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