関東大震災後の震災復興事業は, 山本権兵衛内閣の内務大臣後藤新平の構想の下に行われた。復興の主務機関として当初後藤の考えた復興省は他の各省等の反対でつぶれ, 内閣総理大臣の管理下に帝都復興院を置くことで妥協が成立した。帝都復興院には, 協議機関としての参与会, 諮問機関としての帝都復興院評議会があった。復興の最高決定機関としては, 内閣総理大臣の諮問機関である帝都復興審議会が置かれていた。後藤の構想では, 復興計画の決定主体と執行主体, また費用負担の主体は分離されるべきではなかった。また帝都復興院評議会は単なる諮問機関であり, 計画の具体的内容は帝都復興院総裁が決めるなど, 当時の都市計画法制を修正した形をとっていた
。帝都復興院ではまた積極的な人材登用をはかり, 行政のセクショナリズムを排するなどの試みもなされていた。議会における予算審議で, 関係の経費が全面削除されたため, 存続期間は約半年と短命であったが, 復興に関する基本方針はほぼこの時期に決められた。大災害であったとはいえ, 全面的な都市改造を計った事業が, 都市計画法制によらずに企図されたのは皮肉であったが, 都市計画法制定に深くかかわった池田宏は, 「都市計画法制として全国大小の都市にも普及するに至らむ」ことを切望するとこの制度を評した。
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