1846年の晩秋、ボストンのマサチューセッツ総合病院において、医療の歴史を塗り替える重大な発明がなされた。エーテルの鎮痛効果に注目した歯科医の提案により、はじめての無痛の外科手術が実現したのである。この知らせは瞬く間に大西洋を横断した。1847年にはエディンバラ大学で産科を担当していたJ.Y. シンプソン(James Young Simpson)が、出産においてエーテル、のちにクロロフォルムを麻酔として使用し、そのメリットと安全性を主張した。産科麻酔の必要性や安全性については、医師たちの間でその後も長く論争が交わされ、ある意味では現在に至るまで、出産の痛みに対して医師がどう働きかけるべきか議論は続けられていると言えるだろう。しかし、出産の苦しみを逃れようと願う女性の切実な思いに動かされるように、産科麻酔は19 世紀中頃以降、大西洋の両岸で広く用いられ、産婆に代わって産科医が支持されるようになる大きな要因の一つとなった(Wolf, 2009)。
本論文は、産科麻酔が導入された当時の医師の記録を検討し、当時の医師が女性の痛みの問題や、それに対処する自らの役割についてどのように語っていたか分析するものである。具体的には、アメリカ合衆国(以下、アメリカ)において産科麻酔の普及に尽力した産科医、W. チャニング(Walter Channing)1 の記録を中心に、麻酔が導入された当時の医師と女性の関係を読み解いていく。特に、男性産科医が出産における女性の主体性を侵食していくとされる時代において、女性の苦しみに寄り添う共感のジェスチャーが、男性医師にとって重要な意味をもっていたことに注目したい。
チャニングが活躍した19世紀の前半は、アメリカにおいて男性産科医の存在が受け入れられていった時代と重なる。特に都市部の中・上流階級の女性たちが、出産の苦しみや恐怖、リスクから逃れるために、産婆が持たない専門知識や技術を持つとされた男性医師を出産に立ち合わせるようになった。当時の医師はこうした変化を「医療の専門化」の過程として歓迎し、積極的に推し進めたが、実際には当時の産科学は「不確かな学問」(Kass 1995, 203) に過ぎず、出産の安全性を向上させることにはほとんど寄与しなかった。伝統的に、女性たちは出産を自然のプロセスとみなしていたが、当時の医師は出産を病理的プロセスとみなし、道具などを用いて積極的に介入する傾向にあった。当時の記録を精査した歴史家たちは、産婆に比べて介入主義的で経験の乏しい男性医師が、むしろ母子を危険に晒していた実態を明らかにしている(e.g., Ulrich 1989)。
18世紀から19世紀にかけて、それまで女性同士の助け合いの中で行われてきた出産に男性医師 が直接介入するようになったことについては、これまでも多くの歴史家が論じてきた。特に1970年代以降、第二波フェミニズムの薫陶を受けた歴史家たちが、男性医師が産婆から権威を剥奪し、出産における女性の主体性を侵食していった過程を批判的に描き出した(e.g., Wertz 1977; Bogdan はじめに1978; Dye 1980; Ulrich 1990)。これらの歴史家は、女性たちが書き残した資料を丁寧に読み込み、男性医師の台頭によって女性たちが自分自身の身体に関する知識や自己決定権から疎外されていった側面に光を当てた。これらの研究成果を、アメリカにおいて産科医という職業集団が台頭していくより大きな歴史の流れの中に位置付けると、19世紀を通して男性医師が女性の身体や精神を徐々に支配していったプロセスが明らかになる。女性を生来的に弱く繊細な存在として位置付ける19世紀のジェンダー観を裏付けるように、当時の医師は男女の身体的差異を強調し、女性の不安定な心身を正常に保つために、医師が積極的に介入していく必要性を主張した(Haller and Haller 1974; Barker-Benfield 1976; McGregor 1998)。麻酔の使用や殺菌手術法が普及した19 世紀の後半には、女性の心身の不調に対する治療法として、卵巣や子宮の摘出手術など、大胆な外科的介入が行われるようになった(Framton 2018)。一方で、「女性らしい」繊細さの埒外に位置付けられた黒人女性や貧しい移民女性は、しばしば医師による実験的治療の対象となり、産科分野の発展に望まぬ貢献を強いられることとなった(Cooper Owens 2017)。
このように、19世紀を通じて男性医師が女性の心身に対する支配を強化していった側面に光が当てられてきた一方で、当時の産科医が書き残した診療記録や日記を精査した歴史家たちは、彼らが専門家として地位を確立したいと願いながらも、思うように出産のプロセスや結果をコントロールできない現実に苦しめられ、試行錯誤していた実態を明らかにしている(Leavitt 1986; Stowe 1990; Kass 1995)。また、これらの研究は19世紀の出産の多くが、依然女性たちの親密な集まりの 中で行われ、産科医はしばしば産婦や介添えの女性たちと意見を擦り合わせながら仕事をしていたことを指摘している。歴史家のA. キャスは、当時の産科医が実際の臨床においては、歴史家たちが主張してきたようには権威主義的に振る舞うことができず、むしろ女性たちの苦しみを和らげるために真摯に努力していたことを指摘している(Kass 1995)。これらの研究は、少なくとも白人の中・上流階級の女性たちに焦点を絞った場合、産科医と産婦の関係が単純な上下関係ではなく、時に相互の信頼に基づく複雑な協力関係によって成り立っていた可能性を示唆している。
これらの先行研究2 を踏まえ、本論文では19 世紀を通して強化されていく男性医師と女性患者とのジェンダー化された権力関係を前提に、医師が語る女性の痛みに対する共感のジェスチャーの意味や作用を、批判的に読み解いていきたい。後に見るように、チャニングら産科麻酔の普及に尽力した医師たちは、症例報告の中でしばしば直接話法を用いて女性たち自身に痛みや苦しみを語らせ、現場の切迫感を伝えている。同時に、女性たちの苦しみに真摯に寄り添い、それを取り除くために力を尽くそうとする自らの心情や行動を仔細に描写している。彼らが語る内容を無色透明の真実として受け取ることはできないが、同時に彼らの語りの特徴を無視することも適切ではない。近年感情史の分野で指摘されてきたように、個人の感情は、各自の内面で生じる「本質的」反応であると同時に、社会的に「構築」されるものでもあり、その「真実性」を問うことには歴史学的にはほとんど意味がないと言えよう。より重要なのは、特定の歴史的文脈の中で、その人物ないし集団が選んだ感情表現がどのように作用し、権力や秩序を形成していくかという問題である。近年医学史の分野でも、感情史の流れを汲んだ新しい研究が蓄積されつつあり、特に患者の痛みや苦しみについて医師が書き残した内容を、こうした視点から再検討する試みが行われている。例えば、 A.アーノルド= フォスターやM. ブラウンといった歴史家は、19世紀の外科医が書き記した患者の 痛みに対する共感のジェスチャーを、当時の外科医の社会的地位や医学的権威をめぐるポリティクスの中に位置付けて批判的に検討している(e.g. Arnold-Foster 2021; Brown 2022)。本稿は、こうした研究の手法を参照しつつ、チャニングや彼と同時代の医師たちが語る共感のジェスチャーの作用を分析したい。特に、彼らが女性の痛みに寄り添い、その苦しみを取り除こうと力を尽くす自らの心情や行動について語りながら、男性産科医の存在意義や彼らによる介入の正当性を強調するナラティブを構築していることを明らかにしていく。
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