小論の目的は,古墳時代中期に入り,古墳に副葬・埋納された農工具の一部に武器組成を構成する要素としての農工具が存在したことを示すことによって,移動や駐留を含めた軍事活動に対処できる武装形態を具備した古墳被葬者が生まれていた可能性を指摘することである。具体的には,大阪府桜塚古墳群東群をモデルとし,畿内およびその周辺地域を対象に,卓越した武器の副葬が行われていた古墳での武器と農工具の副葬状況や構成からその可能性を探る。
古墳時代中期半ば,鋲留甲冑の導入が始まるころを境に,組成として整った武器を副葬しながら,鎌・斧・〓・刀子などごく限られた農工具が副葬されるだけの古墳,もしくは,農工具を副葬しない古墳が一部にみられるようになる。また,農工具の出土状況についても,武器に付随するような出土状況や短甲の中に鉾や鉄鏃などとともに入れられている事例が見いだされる。これらの古墳の多くでは,古墳時代前期の主要な古墳でみられた多種多様な農工具の副葬が姿を消し,武器の副葬に特化する古墳被葬者の出現が想定される。このような現象は,農工具が武器組成を構成する要素として存在したことによって顕在化したものと考える。さらに,武器の副葬に特化する古墳被葬者が,すでに提示した常備軍の存在と密接な関係をもって推移することをあわせて明らかにする。
軍事組織の形態は,軍事力の行使によって解決を必要とする課題に基づいて決定されるという視点に立ち,農工具を含む武器組成が,移動や駐留を伴う計画的で,遠距離,長期間の大規模な動員に対応できる体制整備の必要性によって生み出されたものであると考えたい。小論が古墳時代中期の政治主体である百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団が置かれていた状況を明らかにする糸口になれば幸いである。
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