人類学的な知の生産・流通・消費の中心にある欧米が日本人を含めたネイティヴの言説を周縁化し続ける「知の世界システム」や、そこに作動する東洋の認識・表象装置としての「オリエンタリズム」に対する批判が、日本の人類学者や民俗学者によって様々な形で行われてきた。本稿では、アメリカの大学に勤務して日本を語り演じ続けるというある意味で特殊な立ち位置から、知の世界システムの<外部>で起きている生の形式の大きな変化とそれが人類学的調査の現場に及ぼしている広範で深い影響を可視化することで、先行する<オリエンタリズム/知の世界システム>批判を展開させつつこれを批判的に乗り越えたい。具体的には、本稿は次の二点を目標とする。一つは、定型化された日本像が、今日のより進化したオリエンタリズムを通じて巧妙に再生産される一方、このような日本像を解体し、書き換え、変容していく動きが大学の日常生活の中で顕在化している様子を、フィールドワークを通じて明らかにすること。もう一つは、こうして生まれる新たな「日本」の意義をアジール及びミメーシスの概念を使って説明し、帝国という大きな歴史的文脈の中に位置づけながら、大学ならびに人類学の可能性を考察することである。
抄録全体を表示