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日本の化学論文誌の誕生


2006/03/27 第1回 数物学会誌と湯川秀樹

2007年1月23日は,日本で初めてノーベル賞(物理学賞)をとった 湯川秀樹博士の,生誕100周年にあたりますが,この有名な湯川の中間子論の 論文が掲載されたのが『数物学会誌』です。『数物学会誌』とは,1877年に 創立された「東京数学会社」から始まった,数学と物理学を一緒にした学会が 出していた学会誌です。しばしば学会の名前と雑誌の名前が変わって行ったので, まとめて『数物学会誌』と呼んでおきます。湯川の論文は,1919年から 『 Proceedings of the Physico-Mathematical Society of Japan 』 という名称になったこの雑誌の,1935年第17巻48-57ページに 「 On the Interaction of Elementary Particles. I. 」 (「素粒子の相互作用について I.」)という題名で掲載されています。

湯川の中間子論の仕事は,阪大講師時代になされたことはよく知られていますが, 彼はそれまでに一本も論文を書いておらず,この論文が最初の論文でした。 (実は湯川は京都大学の無給副手のときに中間子論とは別の論文の原稿を書いていたのですが, 相対論にしか興味のなかった上司の玉城嘉十郎教授が金庫にしまったまま放置していたそうです。) このあと1937年までに立て続けに7本の論文を同じ雑誌に載せています。そして, 1936年のアンダーソンとネッダーマイヤーの中間子の発見によってさらに勢いが増し, 1937-38年には,第一論文と同じタイトルで, II,III,IVとシリーズで同誌に 発表しています。無名の湯川の論文を載せてくれる英語の雑誌が日本に存在して いなければ,国際的に認知されず,ノーベル賞につながらなかったかもしれません。 現に,アンダーソンたちの発見のあと,湯川は有名な雑誌『Nature』に,それが 自分の主張した粒子であるとの論文を投稿して,掲載を拒否されたそうです。 なお,湯川の著作集によれば,湯川は『数物学会誌』に計14編の論文を載せています。 この雑誌には,ほかに,朝永振一郎,坂田昌一,武谷三男らの論文が多数掲載されています。

(佐宗哲郎: 埼玉大学理工学研究科教授)

湯川秀樹
1907(明治40)-1981(昭和56)
(提供: 独立行政法人
理化学研究所)
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