Journal rchive Stories

数物学会誌の紹介


2006/03/27 第2回 数物学会誌と長岡半太郎

長岡半太郎(1865-1950)は,日本で最初の,世界に通用する物理学者であった, といってよいでしょう。若いときには,日本人にも科学はできるのだろうかと 悩みましたが,1893年から1896年までヨーロッパに留学し,統計力学の父 L. ボルツマン, 量子力学の創始者であるマックス・プランクなど,当時の一流の学者に学びました。 帰国後は(東京)帝国大学理科大学教授となり,多くの優れた学者を育てました。 晩年は1931年に新設された大阪大学の初代総長になり,湯川秀樹のノーベル賞など, 優れた成果と人材を生み出す基盤を作りました。長岡はノーベル賞推薦委員の一人でしたが, 彼が初めて推薦した日本人候補が湯川でした。

長岡は,ヨーロッパで進行中の新しい物理学の動きにも熟知しており, それに刺激されて,1903年12月5日の東京数学物学会の会合で,有名な,土星型原子模型に ついての講演を行い,翌1904年2月2日発行の数物学会誌 『 Tokyo Sugaku-Butsurigakukwai kiji-gaiyo 』巻2,92ページに, 「 すぺくとる線ト放射能做ヲ表示スベキ原子内分子ノ運動 」という題名で論文を発表しました。 (「做」という字は「サ」と読み,「しぐさ」のことですが,ここでは,放射能の 「作用」の意味でしょう。) ほぼ同じ内容の論文をヨーロッパの雑誌にも発表しています。 時代が早すぎたために,定量的な解析が十分でなく,後にラザフォードやボーアの原子模型に 取って代わられることとなりましたが,長岡の模型は,当時ヨーロッパでも大きな反響を 巻き起こしました。この巻2には,長岡の原子模型に関する複数の論文や,本多光太郎の 磁歪や間欠泉に関する論文,寺田寅彦の音響学に関する論文などの興味深い論文が多数載っています。

(佐宗哲郎: 埼玉大学理工学研究科教授)

*2006/03/30 写真を追加しました。

長岡半太郎
1865(慶応元)-1950(昭和25)
(提供: 独立行政法人
理化学研究所)
feedback
Top