数物学会誌の紹介2006/05/24 第5回 数物学会誌と日本の数学・物理学の発展現在の日本数学会と日本物理学会は,戦前は一緒で,「日本数学物理学会」と なっていました。それが戦後1946年1月にそれぞれ独立して,日本数学会と 日本物理学会となって現在に至っています。その起源をさかのぼると, 1877年(明治10年)9月に,湯島の昌平館に同好の士が集まり,東京数学会社が 設立されたときに至ります。「会社」というのは Society のことです。この 東京数学会社は,現在までつながっていて,雑誌も名称を変えながらも 現在までつながっているものとしては, 日本で最古の学会です。この会社は 和算家が中心だったのと,当時日本ではまだ物理学が未分化でしたので 「数学会社」となっていますが,ケンブリッジ大学で数学と物理学を学んだ 菊池大麓なども参加しており,力学に関する記事も含んでいました。発足当時の 117名の会員については,和算家のほかに軍関係者が意外に多いのですが, 海軍は航海術,陸軍は弾道計算などに関心があったのかもしれません。 その後,1884年5月3日の例会で菊池大麓により,「数学および物理学 (星学を含む)を講究拡張するを以って目的とすべし」との動議が出され, 全会一致で「東京数学物理学会」に改組拡充されました。1918年には 長岡半太郎の提案で「日本数学物理学会」と改称され,1945年12月まで 続きました。 東京数学会社は,発足の年の1877年11月から和文誌『東京数学会社雑誌』を 創刊し,1884年の第67号まで続きます。はじめのうちは,縦書き, 和綴じの小型本で,第1号にはまず6項目の会則が記載され,「集会は 毎月第一土曜日午後一時より湯島昌平館においてす」「本号の諸問題は 入社人(会員)より蒐集して,その解答は必ず次号に記載すべし」などと されています。本文では,「算数雑問」「代数学雑問」「幾何学」 「斜三角百問ノ内」「代微積雑問」「静力学」「動力学」の順に, 各章に数問ずつ問題が出題されており,次号に解答が載るという形式でした。 第1号最後の「動力学」の問題は,菊地大麓が放物運動・弾道学に関して 2問出題しています。 東京数学物理学会と改称した直後の1885年からは, B6版和文縦書きで,『 東京数学物理学会記事 』巻壱,巻弐が 発行されますが,巻3からは『 Tokyo Sugaku Butsurigaku Kwai Kiji 』(以下,Kiji と略します)と なり,本文が日本語ローマ字横書きとなります。そして,Vol.4 (1891)からはB5版になり,一部日本語で,学会記事が混在していますが, 欧文の論文誌となります。 この号には, 長岡半太郎によるNiの磁歪に関する論文 などが載っています。 ところで現在,日本数学会は英文誌 Journal of the Mathematical Society of Japan (JMSJ), 日本物理学会は, Journal of the Physical Society of Japan (JPSJ) と Progress of Theoretical Physics (PTP) を出版していますが, 戦前から, それも,1891年(明治24年)から, 東京数学物理学会として欧文誌を発行していた ことをご存知の方はあまり多くないと思います。これは,1893年創刊の アメリカ物理学会の英文誌 Physical Review 誌より早いのです! さて,このあと,Kiji は1901年のVol.9まで続きますが,なかなか 定期的に出せなかったので,学会の事務連絡記事や,講演会の発表の 概要(講演概要)を毎月会員に配布するために,1901年から『 Tokyo Sugaku-Butsurigakkwai Hokoku 』(Hokoku と略す)が出されるように なります。これは1903年から『 Tokyo Sugaku-Butsurigakkwai Kiji-Gaiyo 』(Kiji-Gaiyo と略す)と 名前が変わり,1907年まで存続します。これらには,その後,英文の論文も 載るようになりました。ここには,長岡半太郎,寺田寅彦,本多光太郎らの 論文が多数掲載されています。 たとえば, Kiji-Gaiyo Vol.2,No.7 (1904) p.92 には, 長岡の原子模型に関する論文 が, p.164 には, 本多と寺田の間欠泉に関する論文 , p.211 には 寺田の音響学に関する論文 などが載っています。 Kiji の方は,1901年以来中断していたのですが,1907年にそれまでの 分の学会記事をまとめて,Vol.9,No.2として出版し, 一区切りをつけます。 1907年に,これら2つの並存していた雑誌が統合されて,Kiji-Gaiyo の Vol.4として『 Tokyo Sugaku-Buturigakkwai Kizi, Dai 2 Ki , 副題 Proceedings of the Tokyo Mathematico-Physical Society (2nd Series)』 となります。すなわち,それ以前のものは,「1st Series」であったと 見なすことにしたようです。Butsuri が Buturi に,Kiji が Kizi になったのは, ローマ字論者だった,田中館愛橘の影響でしょう。Vol.8 (1915-1916)には, Sommerfeld の量子化条件を一般化した石原純(Jun ISHIWARA)の論文や, 高木貞治(Teiji TAKAGI)の類体論の 論文が掲載されています。これらの論文は,ヨーロッパでも高く評価されていました。 1919年からは,『 Nippon Sugaku-Buturigaku kwai Kizi Dai 3 Ki , 副題:Proceedings of the Physico- Mathematical Society of Japan』となり (以下,PPMSJと略す),近代的な英文学術誌といえるものが確立します。 この雑誌の Vol.17 (1935) p.48-57 に Hideki Yukawa の 「 On the Interaction of Elementary Particles. I. 」が掲載されています。 PPMSJは戦争末期の1944年のVol.26まで続きました。 以上述べた英文誌のほかに,日本数学物理学会は,1927年から, いわゆる会員向けの学会情報などを載せる和文の学会誌として, 『 日本数学物理学会誌 』を刊行しました。これは量子力学が完成した 直後ですから,欧米で発行される新しい論文の紹介記事が,毎号のように 多数掲載されています。第1巻第1号にはさっそく,木内政蔵により シュレーディンガーの波動力学が紹介されています。この雑誌は1943年の 第17巻まで続き,敗戦直後の1946年に「終刊号」を発行してその幕を 閉じました。以上述べたすべての雑誌をまとめて,便宜的に『数物学会誌』と 呼んでいます。
1945年の12月15日に,日本数学物理学会は臨時総会で解散を決議し, 翌1946年に新たに「日本数学会」と「日本物理学会」が発足しました。会員数は それぞれ751人と1,253人だったそうです。同年7月に Progress of Theoretical Physics (PTP) が湯川らによって創刊され,つづいて 1947年2月24日に Journal of the Physical Society of Japan (JPSJ), Vol.1(1946年7-12月号分)が発行されました。4月30日には邦文学会誌の 『数学』が,6月5日には『日本物理学会誌』が創刊されました。 1948年には Journal of the Mathematical Society of Japan (JMSJ)が 創刊されました。 朝永振一郎(Shin-ichiro TOMONAGA)のノーベル物理学賞の対象となった 「くりこみ理論」の論文 は, PTP Vol.1,2に掲載されて います。また, JPSJ Vol.12(1957)p.570-586M には, 久保亮五(Ryogo KUBO)による, 有名な「線形応答理論」の論文 が掲載されています。 (佐宗哲郎: 埼玉大学理工学研究科教授) |
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