日本中東学会年報
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立憲君主制後期(1943年-1952年)エジプトにおける国民教育議論
池田 美佐子
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2001 年 16 巻 p. 265-307

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抄録

1922年にイギリスより名目上の独立を与えられたエジプトは、23年に憲法を制定し、52年の自由将校団による革命に至るまで立憲君主制が続いた。イギリスの内政への関与は多方面にわたって引き続いたが、国民教育制度については、エジプト政府の手に委ねられた。立憲君主制期に先立つイギリス占領期(1882-1914年、1914-22年は英保護領)は、国民教育制度の整備が著しく停滞した時期で、立憲君主制期に入ってこの分野の改善が急がれた。これまで多方面の教育機関に委ねていた国民の教育を統制下において制度化することは、政府にとって国民国家建設の上できわめて重要な意味あいがあった。また国民も、教育を生活と社会的地位の向上の有効な手段として捉え、国による拡充を強く望んだ。初等教育に関しては、深刻な識字率の問題や23年憲法に義務化と無料化が明記されているにもかかわらず、中等・高等教育に比べ整備は遅れがちであった。しかし、初等教育には制度上に大きな問題があり、その改善に向けて次第に議論がさかんになっていった。初等教育の制度上の問題は、その二重構造にあった。公立小学校は、中等・高等教育へとつながっていく小数の「エリート小学校」(al-madrasa al-ibtidaiyya)と、進級の道を閉ざされた大衆のための「一般小学校」(al-madrasa al-awwaliyya)の2種類に区分された。1940年代から本格化してくる初等教育の整備とそれをめぐる政治家や専門家の議論は、この二重構造の問題と、それにまつわるエリート小学校の無料化の問題を中心として展開した。教育への国民の強い期待もあって、民主主義の思想、そして特に「機会均等」の原則は、制度改善にあたって有力な理論的基盤となった。この間題と平行して浮上したもう一つの議論は、小学校・中等学校も含めた公立学校の整備と拡大の方法をめぐる問題である。この間題については、機会均等の即時実現を求める「量」(kamm)派と、教育の質や環境の維持を優先する「質」(kayf)派が鋭く対立した。これらの教育制度の整備の過程と議論の検討を通して、いくつかの考察が可能となった。まずは、立憲君主制の政治体制の問題に直接かかわるもので、頻繁な内閣交代や専門家間の意見の対立により、教育政策に一貫性が欠如していたことである。しかし、このような障害のなかで、民主主義を原理とした教育の機会均等の実現という大きな流れが、進行していたことも指摘できる。また、国民教育制度の急速な拡充により、質と量のどちらを優先するかという問題が、教育専門家間の大きな論点であった。さらに、革命政権下の教育制度は、立憲君主制期に序々に形成されていった議論や政策を踏襲し発展させたものであり、ここに革命前の時代から革命後の時代へかけての連続性が認められる。最後に、国民教育の議論は当時のさまざまな社会問題の議論や思想状況と密接に関連しており、教育議論における民主化の趨勢もこの文脈で解釈する重要性が指摘できる。

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