日本中東学会年報
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ティムール朝シャー・ルフ政権時代のアミール反乱
川口 琢司
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1993 年 8 巻 p. 89-125

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抄録

ティムールは対西アジア・南ロシア5年戦役(1392-96)を終了した直後の1397年3月に末子シャー・ルフ(1377-1447)にホラーサーン,スィースターン,マーザンダラーンの東半部を中心とする所領,彼を補佐する多数のアミール(軍事・行政の高位の指導者)を賜与し,ここにホラーサーン地方のへラートを中心とする地方政権が成立した。1409年にシャー・ルフがマーワラーアンナフル(トランスオタンアナ)を征服し,ハリール・スルターン(1384-1411)に勝利すると,シャー・ルフ政権はティムール帝国の一地方政権から中央政権へと上昇したが,その過程で政権の構成スタッフに大きな変化が生じた。すなわち,政権の要職である筆頭アミール(アミール・アル・ウマラー)職を経験したスライマーン・シャーとサイード・ホージャが1405年7月と翌1406年5月に相次いで反乱を起こし,シャー・ルフ政権から離脱したからである。このうち,サイード・ホージャの反乱は約1年間の長期におよび,しかもシャー・ルフ政権内部から一部のグラーム(奴隷的な起源を有する小姓)勢力,政権外からマーザンダラーンやサブザワールの地方支配者を巻き込み,ヤズドやファールスを支配するウマル・シャイフの息子達を抱き込もうとした点で半世紀におよぶシャー・ルフ政権が直面した最初の大きな危機となった。反乱の末,サイード・ホージャはマーザンダラーン,ヤズド,ファールスと逃走した末に処刑されるに至った。サイード・ホージャの反乱は反乱集団がグラームを中核としていたこと,反乱の指導者がシャー・ルフの政権と宮廷において絶大な権力を有する筆頭アミールであったことにその性格を求めることができる。反乱の原因としては,まずハリール・スルターン政権とサイード・ホージャの内通が挙げられる。ハリール・スルターン政権は当初は国都サマルカンドを守備するアミールと1405年のティムールの東方遠征軍の右翼のアミールを中心に構成されていたが,しだいにハリール・スルターンの側室シャード・ムルタと個人的な結びつきを有するグラーム出身者を中心とする政権へと変貌した。ハリール・スルターンはこれらの勢力の要求と情勢の有利を背景に,サイード・ホージャを筆頭とするシャー・ルフ政権下のグラーム出身勢力をできるだけ政権から離脱させようと画策したものと思われる。次に,ティムールの側近で,その没後の1405年3月にようやくシャー・ルフ政権に参与したシャー・マリクの上昇を挙げることができる。スライマーン・シャーの反乱の主因もまさにこの点にあった。シャー・マリクはシャー・ルフの長子ウルグ・ベグを一貫して後見し,シャー・ルフの寵臣となった。彼はしだいにシャー・ルフ政権の政策決定を左右するまでになった。かくて,シャー・マリクの政権参与はスライマーン・シャーやサイード・ホージャ等,シャー・ルフ配下の他の有力アミール達を刺激し,彼らのシャー・マリクに対する対抗意識,ひいてはシャー・ルフ政権に対する不満を目覚めさせることになったのである。

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© 1993 日本中東学会
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