抄録
1.はじめに
第47次日本南極地域観測隊(2005-2007)の野外調査で,ラングホブデ・やつで沢上流にある氷河ダムの下流側の氷壁に,円形の穴が開いているのが確認された.JARE47越冬中にこの氷洞内に入り,内部を観察する事ができた.
氷河ダムの氷壁の中腹に洞口が開き,その内部に空間が広がっているという事実は,過去および将来において,氷河ダムから排水が発生したりダム自体が決壊したりする可能性を強く示唆するものであり,下流域の谷の地形発達や,上流の湖の盛衰を考える上で重要な鍵となる.本発表では,その概要を報告し,地形学的意義について考察する.
2. 氷河ダムと氷洞の概要
やつで沢の上流には,谷を横断するように東側から伸びる氷河があって,その上流側には,この氷河によってせき止湖が形成されている.湖の上流には大陸氷床から溢流する氷舌が流入しており,湖はそこからの融解水によって涵養されている.氷河ダムにより,上流の湖の湖面と下流の河床との間には約100mの比高がある.
今回確認した氷洞の洞口は,この氷河ダムの氷壁の中央部に開いており,ダム直下の河床から比高10mの高さにある.洞口の直径はおよそ6mで,その下部にはちょうど人が通ることができるくらいの,深さ3 mほどの切れ込みがあり,氷壁を登ることなく氷洞の内部へ侵入できた.この切れ込みは,おそらく融解水が流れ出して下刻した跡であろうと思われる.
氷洞内部には,さらに大きな空間が広がり,目視による推計では,幅約10m,奥行き50m前後の空洞になっている.側壁は垂直な基盤岩で,その上を氷河氷が蓋をするように覆っている.洞内の底面は氷塊や吹き込んだ新雪に覆われており,その表面から天井までの高さはおよそ15-20mである.
氷洞の奥には崩れた氷のブロックが積み重なり,せき止められている湖へ通じているかどうかは確認できなかった.しかし,融解期には湖からの溢流があった可能性も考えられ,最悪の場合,鉄砲水が出る恐れもある.
3.地形発達学的意義
氷河ダムより下流のやつで沢の側壁はほぼ垂直に切れたっており,U字谷底がさらに函谷状に掘りこまれた二段構造をなす.垂直の基盤岩からなる氷洞内の側壁は,この二段構造の下部函谷地形に連続していると考えられる.
河口付近では谷幅が広がって平坦な河原が形成され,比較的円摩度の良い礫に覆われており,レビーや比高数メートル程度の河岸段丘状の地形も認められる.さらに河口には,海抜高度11mと18m付近に平坦面を持つ段丘状をなす礫質堆積物も認められ,その最上位を浅海底堆積物が覆っており,そこから産出する貝化石から5-6.8kyBPの炭素年代が得られている.
これらのやつで沢の河床地形や堆積物は,かつて,河床礫を運搬・堆積させるような相当量の流水がやつで沢を流下していた事を意味するが,現在のやつで沢河床には,年間を通じてほとんど流水は認められない.河床や河口付近に部分的な水たまりが存在することから,融解水が流れていることは間違いないが,通常は河床を覆う礫の下を伏流していると考えられる程度である.
もし相当量の水量が流れた時期があったとしても,降水量が少なく,雪氷の融解水にしても,季節的にも量的にも限られる当地において定常的な水流が長期にわたって継続していたとは考え難い.むしろ,氷河ダム背後にある貯水域から,短期的に大量の水が放出されたと考えたほうが妥当であろう.この仮定にもとづけば,氷洞内の側壁が示す函状の基盤地形は,氷河ダムから貯水を放出する洪水吐をなしているものと解釈できる. 現状のように,上部の氷体を残したまま,せき止め湖からの排水経路が氷河ダム内に形成された可能性もあり,氷河底洪水吐と考えることもできる.
氷床が現在の位置付近まで後退した後に,このようなダム内の洪水吐を経路として突発的な排水現象が発生していた可能性が大きいが,少なくとも6.8kyBP以前あるいは5-6.8kyBP間には,海岸まで土砂を運搬するような水流が発生していた可能性がある.さらに,氷床が拡大して海岸付近にまで達していた時期に,すでに氷底で排水路が形成され,やつで沢全体を氷河底洪水吐として下刻していた可能性も否定できない.たとえば, おなじラングホブデ南部には,別の谷でも直線的な函谷地形が発達しており,同様の洪水吐である可能性は非常に高い.これらの形成時期がやつで沢と同期していれば,ラングホブデ全体を覆う氷床の底面あるいは末端付近からの氷底水の排水経路となっていた可能性も考えられるのである.
いずれにしても,やつで沢全体の二段構造は,氷床拡大期に形成されたU字谷が,氷床後退後(あるいは氷河ダム形成後)に突発した水流によってさらに下刻されたものと解釈できる.
図 やつで沢の氷河ダムに空いた洞口.
