日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 118
会議情報

川崎市の医薬品供給体制におけるICTの受容過程
アクターネットワーク理論の視点から
*中村 努
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録


I.はじめに
 従来の情報通信技術(ICT)に関する研究では、ICTを利用して顧客を囲い込む企業の論理が議論された。地理学では、大企業が先行してICTを利用したことを背景として、ICTの導入による企業行動の変化を通じた空間的影響が検証されてきた。特に、企業間の情報ネットワーク化が進展するにしたがって、持続的な競争優位を獲得するためのICTの有効性と空間的インパクトの関係が論じられてきた。
 しかし、情報システムのもつ技術的特徴やその優位性を理解すると同時に、企業が顧客との取引を拡大するうえで、ICTを利用する顧客の行動論理や、その背景となる制度的変化を踏まえた考察が必要である。そこで本発表では、事例分析の際の理論的枠組みとして、社会と技術を等価に取り扱い、関係論的な見方を提供するアクターネットワーク理論(ANT)を適用することによって、ICTと社会関係との相互作用とネットワークの空間スケールが定義される方法を明らかにしたい。
 本研究では、医薬品卸がICTを活用して、病院から保険薬局に医薬品の販売先を移行した取組みのメカニズムを、病院、地域薬剤師会、医薬品卸の行動論理に注目して検証する。

II.医薬分業体制の構築過程
 国は医薬分業を推進することによって、医薬品の過剰投与や医療費の高騰を抑制しようとしている。一方、医薬分業を開始するにあたって、特定の地域における取組みが求められるのは、大規模な病院が処方せんを発行した場合である。規模の大きい病院は、多数の患者に多種類の医薬品を記載した処方せんを発行するため、院外の保険薬局は、従来扱わなかった医薬品を扱う必要が生じる。しかし、個々の保険薬局は経営規模が小さいため、新たに処方される特殊な医薬品を在庫するためのコストが経営の重荷になった。
 川崎市では、1997年に聖マリアンナ医科大学病院が全診療科において医薬分業を実施した。川崎市では、保険薬局に共通した課題を解決するため、北部の4区薬剤師会が医薬品卸と利害調整する役割を担った。地域薬剤師会は、医薬品卸から保険薬局にとって有利な配送条件を引き出して、保険薬局への医薬品の販売体制を保障した。一方、医薬品卸A社は、医薬分業を薬局との取引拡大の機会と捉えて、薬剤師会の要望に応えるため、自社開発の携帯型発注端末を組み込んだ小分け医薬品の配送体制を構築した。こうしたA社の取組みによって、保険薬局は当日服用する医薬品を即座に発注できるようになった。

III.各主体の行動論理
 病院は医薬品供給体制の再構築のきっかけとなる意思決定を行っているが、医薬分業を円滑に進めるため、勉強会を開催する場を提供するとともに、自らも処方内容を保険薬局に伝達する役割を果たした。
 地域薬剤師会は会員薬局の利害団体として活動し、会員薬局も自らが所属する薬剤師会に利害を代表する役割を求めた。外来患者の受療圏が川崎市北部で完結すると想定した4区薬剤師会の役員は、A社との交渉を通じて、同地域の小分け配送体制を確約させることで、保険薬局に有利な配送条件を保険薬局に提供した。
 一方、医薬分業のビジネスモデルを構築したかったA社は、同事業を医薬分業における情報システムの有効性を検証する機会と捉えて、コストがかかっても支援する意義を見出していた。
 このように、医薬分業を実現しようとした病院の方針をきっかけとして、短期的な環境激変が予想される場合、薬局間の競争は回避され、医薬品の安定供給に向けて、特定の地域における協調行動が展開される。
 ICTが受容される地域スケールは、ICTを利用する薬局の利害を代表する地域薬剤師会の意思によるところが大きい。地域薬剤師会は複数の医薬品卸を競わせることで有利な配送条件を引き出そうとした。一方、医薬品卸は他社との競争に勝つため、地域薬剤師会の管轄範囲における配送体制を遵守する必要があった。このことから、ICTが受容される地域のスケールは、より大きなパワーを有する地域薬剤師会の意思によって定義されている。ANTを適用した結果、ICTの受容過程の背後には、空間スケールの定義をめぐる複雑な権力関係が影響する一方、ICTは新たな供給体制の安定性を獲得するためのアクターとなっていた。

著者関連情報
© 2008 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top