日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S503
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明治政府の国内石油資源に関する地質調査
*品田 光春
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抄録


1.問題の所在
 本報告では、明治前期における鉱業政策の前提となる政府による各種鉱業資源に関する空間認識について、国内の石油資源を事例に検討する。近世以前からの長い伝統を有する金属鉱業や、近世末期から燃料として注目されていた石炭鉱業に比して、石油業は灯油輸入の増加を背景に、近代になってはじめて産業としての重要性が認識された。そのため、中央政府にとっては未知の鉱業であったといっても過言ではない。この未知の鉱業資源である石油産地としての油田に関する地質・地理的な国土情報を、いかに公権力たる政府が認識したかを、複数の公的な油田調査・視察報告書の記載内容から読み解いていく。
2.資料と分析方法
 今回の報告は明治30年代の地質調査所による継続的な油田調査事業以前の、明治前期における主要な国内油田調査として、大鳥圭介、ライマン、地質調査所(中島謙造)の3者の報告書の内容を相互に比較し検討する。主として用いた資料は、大鳥圭介については『信越羽巡歴報告』(1875年)を、ライマンについては『日本油田地質測量書』(1877年)、『日本油田調査第二年報』(1878年)、『北海道地質総論』(1878年)を、地質調査所(中島謙造)については『本邦石油産地調査報文』(1896年)である。
3.大鳥圭介の油田視察
 旧幕臣の大鳥圭介は、欧米視察で得た知見から石炭・鉄と並んで石油業の重要性を認識しており、新潟・長野の「くそうず」の将来の開発を期待し、内務省勧業寮出仕中に、新潟・長野・山形の石油・石炭産地を視察し、地質学の視点を踏まえた科学的視点から、当時の石油産地の地質・地形・生産状況について大久保利通に報告した。大鳥は「鑿井の業も越後を先にして次に信濃に及を順とす」として、新潟県を主力産地として優先的に開発すべきと認識していた。これら大鳥の知見が後の官営石油事業やライマンの地質調査事業の方向性を空間的に規定した可能性が高い。
4.ライマンの油田調査
 大鳥とも密接な関係にあったライマンは「お雇い外国人」として開拓使での北海道地質調査を経て、1876年から内務省勧業寮(1877年廃止、以後工部省工作局)へ所属し、新潟県を中心に日本初の本格的な広域地質調査を実施した。ライマンにより日本のおおまかな油田地帯の地理的分布(北海道・東北日本海側・新潟・長野・静岡)と含油層(第三期)が提示され、民間鉱業者にとっても借区設定など後の油田開発の大きな指針となった。また地質図作成や地質調査の人材育成にも大きく貢献した。特に地質図の作成は国土空間情報の可視化という点で、大きな意義がある。結局ライマンの油田調査は諸般の事情で未完に終わるが、得られた知見は大久保利通・伊藤博文・大隈重信などの政治家に伝達され、政府の国内石油資源に関する空間認識に影響を与えたと思われる。なお、ライマンは結果的に国内油田開発をあまり有望視しなかったが、政府としては1882年に設立された地質調査所において油田調査を行っていることからわかるように、国内油田開発の可能性を積極的に模索していたと思われる。
5.地質調査所(中島謙造)の油田調査
 1893年に地質調査所の地質課長に就任した中島謙造は、日本人による初の本格的な石油地質調査を行い、地質図整備事業に関連して得られた全国(新潟を中心に、北海道・東北・静岡・長野・和歌山・山陰)の産油地の情報を集大成した。これはライマンの調査を補完し、民間石油鉱業者の開発の指針としての情報提供を意図したものである。
6.まとめ
 大鳥やライマンらが指摘したように、実際に明治期の石油業の鉱業空間は新潟県を中心に形成されていき、短期間に原油生産も大幅に増加していった。大鳥・ライマン・地質調査所らの地質調査事業は、地理・地質情報の提示という点で、初期の国内石油業界の発展に貢献した。そして、政府の国土空間に対する認識の中でも、国内石油資源への関心はしだいに高まっていくのである。

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