抄録
1.窯山の暮らし
李氏(70歳)は請負っている27畝(1.8ha)の農地のほかに3haほどの自ら開墾した農地を、子供たちと経営している。農地面積からは大規模経営にみえるが、農業による収入は限定的かつ不安定で、息子たちの出稼ぎが暮らしを支えている。食事は“黄米飯”と呼ばれるキビにイモを加えた主食をニラなどの漬け物で食べる質素なもので、肉料理は月に2回程度に限られる。
同心県の中央、なだらかな山地に窯山郷は位置している。13の行政村に1.8万人が暮らしており、ほとんどが回族である。半農半牧の暮らしは、年間雨量が4年連続で100mmに達しない乾燥と、過放牧による植生破壊への対策である放牧禁止により、生活というよりも生存を維持することさえ難しい状況にある。政府は同心県の最貧地区である窯山に住む人びとの半分を、郷の外へ移住させる計画を進めている。
この農耕限界を越えた場所で展開される同心県の回族の暮らしは如何に形成され、そして、如何なる方向へ向かいつつあるのだろうか。「移動」というダイナミクスに焦点を合わせて、この疑問に答えることが、本報告の目的である。
2.“回民起義”
《同心県志》に載る同心県の人口変遷は、まったく驚くべき経過を呈する。同心県の総人口は1949年の2.8万人から1990年の27.9万人まで、40年間でほぼ10倍となっている。中国の他の地域においては同一期間で倍増が一般的であるのに比して、飛び抜けて高い人口増加率が達成されているのである。これは人民共和国建国時の人口が過小であったことの反映でもあり、そこからさらに100年遡る地域の歴史と深く結びついている。
陝西から寧夏・甘粛にかけての回族の分布は、19世紀後半の“回民起義”と呼ばれる民族反乱の影響を強く受けている(侯春燕2005)。清朝期における漢族の流入により多民族の混住が進んだ中で発生した、回族の反乱とその失敗は、寧夏における回族人口の激減と、陝西から寧夏・甘粛・新疆への回族の移住をもたらした(陸文学1999)。同心県の回族が暮らす場所の農耕限界を越えた周縁性は、この民族的な移動と切り離せないものとみなされる。
3.“吊荘”
人民共和国期の定住政策は、人口増加を背景として、この周縁性を際だたせることになった。絶対的な貧困として現れる地域問題への解決策として、寧夏では1980年代から移住政策が採用され、その移住を“吊荘”と呼んできた(王朝良2005)。もともとは農民の荒れ地開発の様式を指した地域呼称を用いることで、農民の理解を目指したとされる。
この地域においては乾燥が農業生産を規定することから、吊荘は既存の居住地域から灌漑が整備された地域への移動として実現された。同心県では黄河の揚水灌漑地区である河西鎮がその目的地であり、荒漠とした大地に20年をかけて、窯山など同心県内および県外の人びとを受け入れ、20の行政村、3万人の人口が暮らす農業生産力の豊かな回族居住地域が造り出された。
近年では、西部大開発の発動により国家投資が増加したことを背景として、“生態移民”と呼ばれる、農地開発と集落移転をセットとする一括式の移住が行われるようになっている。その空間スケールは窯山と恵安村といった山上と山麓の地域内のほか、より広域の県レベル、省レベルなど多様なものが計画されている。
4.“民工”
農民の出稼ぎは、二元構造と市場経済化の交差の中に、現在の中国でひろく観察される事象である。寧夏の回族農村からも多くの出稼ぎ者が送り出されている。
同心県(2006)においては、農村労働力14.9万人に対して、“労務輸出人数”として把握されているのは、6.8万人にのぼる。じつに労働力の半数近くが、期間の長短と重複は考えられるものの、なんらかの出稼ぎに従事していることを示す。
その移出先は寧夏回族自治区内が41%であり、続いて内蒙古(26%)、新疆(17%)、山西(4%)、浙江(3%)、甘粛(2%)、河北(2%)となっている。ここに現れているのは、空間的には西北中国における労働市場の存在であるが、それをより明瞭なものとして現出させている要素として回族のエスニシティが指摘される。同心県のような回族集住地域からの出稼ぎ労働者は、ムスリムとして扱われることが必要であり、宗教者が同行する場合もあることや、“清真菜”とよばれるイスラム料理の提供が出稼ぎ先において必須であるとされる。
本報告は、平成17-19年度科学研究費基盤研究(A)(課題番号17251010)による成果の一部である。