日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S401
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ベトナム・メコンデルタのハマグリ生産からみたアジアの干潟
*池口 明子
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抄録

1.はじめに
河川と潮汐によって形成される干潟・河口域など内湾の浅海は,高い生物生産力をもち,沿岸漁業を支えてきた.また,干潮時の干潟は採貝の場として,沿岸集落の人々に日常的に利用されてきた漁場でもある.しかしながら,日本をはじめとするアジア各地の沿岸開発によって干潟は大きく減少してきた.本稿ではハマグリを「追いかける」ことによって,ベトナム・メコンデルタの干潟利用と,沖縄を含む日本列島の「ハマグリ文化」との関わりを考えてみたい.

2.アジアにおけるハマグリ文化
アジアに分布するハマグリ類には,日本在来の3種(ハマグリ,チョウセンハマグリ,トドマリハマグリ)のほか6種がある.日本では蛤(ハマグリ)は,列島の多くの地域で約8000年前から食用とされ,その殻は工芸品の材料として用いられてきた.また,ハマグリをはじめ干潟の貝類の採集や食用は,旧暦三月節句の前後,女性の健康や貞操を願う浜降り行事の主な祭事でもあった.沖縄島でもハマグリ類は,金武湾周辺の貝塚群に出土し,1940年代ごろまでは佐敷干潟や与那原干潟に多く生息した.干潟の貝類の多様性が高い沖縄の干潟では,ハマグリ以外にも多くの二枚貝が採集されており,詳細な民俗分類がみられる.ところが,赤土流出や埋め立て,護岸などの沿岸改変により急速に採集の場が減少し,多様な貝類利用は忘れられようとしている.一方,スーパーなどでは,ひな祭り前後になると「伝統的文化」としてハマグリが並ぶのは,本州と同様である.日本各地の内湾干潟にみられたハマグリ産地は現在では熊本・大分・三重などに残り,これらのハマグリはブランド化され,資源管理がなされるようになった.しかしながら,大量消費される安価なハマグリは依然として中国やベトナムからの輸入に依存している.近年では,韓国での大規模な干潟埋め立て,中国の経済成長のなかで,他の水産物同様にハマグリも「奪い合い」の様相を呈している.

3.ベトナム・メコンデルタのハマグリ生産と漁場利用変化
メコンデルタの南シナ海に面した干潟では,ハマグリの一種ハンボリハマグリ(Meretrix lyrata)が蓄養されている.いくつかの河口干潟で多く発生する稚貝を移植して放置するという簡単な方法で,労働が必要とされるのは稚貝採集,監視,成貝採集,加工である.これらは地域間で分業がなされており,ホーチミン市に近い産地では監視,成貝採集と加工がなされ,より遠い沿岸域では専ら稚貝採集のみが行われている.ブラックタイガー生産とは異なり,これらは環境破壊的ではなく,むしろある地域では環境保全的行動もみられる.例えば,あるハマグリ生産組合では,稲作への塩害を防止するための堰の開閉による河口への土砂流出を問題化し,省政府へ環境モニタリングを依頼したり,ハマグリ母貝を保護したりするなどの行動もみられる.一方,稚貝採集をおこなう集団にはメコンデルタの先住民クメール・クロムの人々も含まれる.資本が少なくエビ養殖に参入できない人や農地が零細な人々にとって,干潟での採集は重要な生計手段であるが,乱獲への危惧から省政府によりたびたび干渉がなされ,クメール・クロムの人々による抗議も起こっており,こうした地域間,社会集団間の分業や干潟漁場の領域化こそは,ハマグリのグローバル化の過程として注目されるべきであろう.

4.文化の単純化と漁場の領域化
貝塚の大量の殻が物語るように,ハマグリ類は河口や内湾でかつて普通に生息した資源である.このような資源が希少となり,海外からの輸入が急増し,干潟漁場が領域化されるようになった状況の背景は,単にグローバル化の政治経済的側面に求めるのではなく,干潟とヒトの関係の変化のさまざまな側面から理解する必要がある.本報告ではそうした側面の一つとして,貝類利用文化の単純化を考えてみたい.ハマグリのように広く列島にみられる生物利用はその文化が記述されてきたが,沿岸集落の人々がそれぞれの海域で日常的におこなってきた資源利用は「文化」とされてこなかったのではないか.内湾や河口干潟の生物相の多様性とその利用を明らかにし,地域で共有することは,自然・人文問わず重要な地理学的課題と考えている.

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