抄録
◆はじめに 日本アルプス各地で報じられてきた最終氷期の氷河地形・堆積物の一部は,実際は氷河と直接関係しない地すべりで形成されたことが最近知られてきた.例えば,薮沢礫層は完新世の地すべり堆積物である.これらの成果は氷河や氷期を強調した従来説の修正にとどまらず,山地地形論や古環境論に波紋を投げかける.最近,鳳凰山東面に分布する厚い礫層が最終氷期極相期の氷河に関係した堆積物とする従来説と異なり,飛鳥平安時代の岩屑なだれ(DA)堆積物であることが判明した.◆地域・方法 ドンドコ沢周辺を踏査し,露頭記載や試料採取を行った.この付近には糸魚川静岡構造線(糸静線)が走り,それを境に砂岩泥岩互層と火成岩類が接する.糸静線沿いに地形の横ずれが認められることから,同線は活断層として挙動している可能性もある.◆地質記載 ドンドコ沢や大棚沢沿いに複数の河成面とそれらの構成層が分布することは以前報告されていた.このうち低位段丘(T2)面とされた地形と構成層は最終氷期極相期に氷塊が崩落してもたらされたと考えられ,地すべりの可能性は否定されていた.T2面を切る活断層も推定された.後に礫層は土石流成とされ,活断層の存在も否定された.また年代観も改められたが,試料が少なく追試が必要だった.演者が得た新事実は次のとおり.【1.礫層の層相】礫層は下部・上部層からなる.下部層は花崗岩を主とする亜角・亜円礫層で,砂優勢の基質に支持される.層厚≧20 m.下部層の上面に埋没土層が発達する.上部層は花崗岩のみからなる基質(主に粗砂)支持の角礫層で,円磨礫はない.巨礫が卓越する.層厚は最大≧70 mに達する.礫の大半は自破砕している.以下,特徴的な層相をもつ上部層を議論の対象とする.【2.上部層の分布】上部層は低位段丘面構成層とされたものに概略一致するが,新たに確認された地点も多い.同層の分布下限は標高1110 m付近である.【3.上部層を覆う細粒堆積物】地点Lで上部層を覆う細砂層と細砂層に没した大型樹幹を発見した.【4.年代】地点Tの上部層に含まれる木片の14C年代測定が以前行われ727-975 cal ADが得られていた.今回,地点Wの下部層上面にみられる埋没土層から木片3点(A,B,C)を,地点Lの大型樹幹1本の樹皮直下1点(D)を採取し,年代測定に供した.較正値は674-986 cal ADで,先行研究を支持した.◆上部層の成因と時代 上部層中の礫には国内外に分布するDA堆積物で確認された破砕構造が発達する.これはDAやそれに先行する岩盤クリープに伴う基盤岩の破砕-移動過程で生じたとみられる.また上部層の礫は水流円磨されたものをほとんど含まない.以上の特徴を考慮すれば,上部層は土石流や融氷水流の堆積物とはいいがたく,DA堆積物とみるべきである.DA推定発生源はドンドコ沢左岸の2216 mピーク直下にある岩壁である.堆積物の平均層厚を20 mとすれば,推定分布域から求められる発生直後の体積は≧1.8×107 m^3である.地形の状況から,地点Lの細砂層はDA堆積物の塞き止めで生じた湖沼堆積物に相違ない.既存研究を含む5点の14C年代較正値は2群に大別できる.うち3点(地点Tの木片,木片B,同D)が群1に,2点(木片 A,同C)が群2に入る.群1は770-990 cal AD頃に,群2は670-890 cal AD頃に集中して後者は約100年古い.木片の堆積過程を考えると,群1の試料は地点WやT,LでDA堆積物の下敷きになった樹木や塞き止め湖沼の漂流木で,群2のそれはDA発生前から地点Wに存在した古い枯死木や大型樹幹の心材だった可能性がある.大型樹幹最外皮直下から得た木片Dが最も信頼できると考えれば,DAの発生時期は群1の年代範囲に含まれる.◆DAの誘因 誘因として次の歴史地震が想定される.1)糸静線活断層系釜無山断層群などの最新活動(AD0以降),2)AD762美濃・飛騨・信濃地震,3)AD841信濃地震,4)AD841伊豆地震,5)AD878関東諸国地震,6)AD887五畿七道地震.1)は掘削調査などで明らかにされたもので, 2)3)が対応する歴史地震に考えられている.4)は丹那断層のpenultimateイベントに対応するとされる.6)は駿河南海トラフを震源域とする巨大地震で,八ヶ岳の大規模DAと塞き止め湖をもたらしたとされる.