日本地理学会発表要旨集
2017年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 307
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発表要旨
山口県美祢地域における近代大理石産業の成立と歴史的建造物への利用
美祢地域の近代大理石産業
*乾 睦子
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抄録
山口県美祢市の秋吉台地域は、近代日本において大理石の代表的な産地であった。近代以前から工芸品や建設材料として地域で大理石を利用して来た歴史を持つが、近代産業として成立したのは機械による加工が始まった明治の後半からである。国内の大理石産業はその後、昭和初期まで各地で盛んとなったが、第二次世界大戦を挟んで昭和40年代頃までには海外製品との価格競争などのために徐々に採掘が減っていった。美祢市は最後まで圧倒的な国内シェアを誇ったが、現在は石材としては採掘されていない。今ではどこにどれほど美祢産大理石が使用されたか把握できなくなっており、正確な採掘場跡が不明な銘柄も数多い。かつて日本の建築物に多く用いられた美祢大理石の多種多様な銘柄の情報がすべて失われつつあるのが現状である。建材の産地や由来は、建築物の正確な評価にもつながる重要な情報である。近代建築物の多くが老朽化し、保存・改修か解体かを判断するための歴史的価値評価にさらされている今、この情報は早急にとりまとめておかねばならないと考えている。本研究は、美祢地域を対象として地域文献調査や現地調査、聞き取り調査を行い、この地域で大理石産業が成立した経緯、産業構造の特徴、昭和中期までの主力製品の推移などを報告する。この地域の大理石資源の特徴や、使用された近代建築物の例も紹介する。  美祢地域で近代産業としての石材産業が始まったのは、明治35年の本間俊平による採掘からとされる。当初は主に配電盤に使う用途で採掘されていた(全国石材工業会、1965)。本間の成功により別の場所でも採掘が行われ、大理石の産地としての開発が進んだ。関東大震災後に耐震耐火の必要から石材の建材としての需要が増加し、「色物」(白大理石以外の、色や柄のある部分)が多く採掘されるようになった。「小桜」「霞」「黄華」「白鷹」「聖火」「オニックス」などが初期に採掘されていた銘柄である(全国石材工業会、1965)。第二次世界大戦後には、新材料の普及により大理石配電盤の需要が減り、代わって土産用の工芸品が加工されるようになった。  産地としての美祢地域の特徴は、ひとつには上述のように秋芳洞などの観光地を持っていることである(山口県商工会連合会、1984)。このため工芸品の需要が産業を支えることができた。ふたつめは、小規模な採掘場が数多く散在したことである。美祢地域には加工業者が少なく、原石を加工地に出荷する形態が主流であり(山口県美祢市ほか、1964)、業態が大規模化する必要がなかったためと考えられる。国定公園に指定されたことによっても、採掘を拡張できなかった可能性が高い。ところが、昭和30年代から建築工事の規模やスピードが大きくなり、短納期・大量納品が求められたため、組織力の弱さがマイナスに働くことになったと考えられる。  主に明治末期から昭和初期までの首都圏の歴史的建造物について石材調査を行ったところ、特に記録がなくても、マントルピースや窓台などに美祢産と推定される色・柄の大理石がいくらか見られた。銘柄は「オニックス」「鶉」「聖火」「白鷹」「薄雲」などである。今後は設計者・施工者や竣工時期のデータを蓄積することで、美祢大理石の首都圏での使われ方を明らかにできる可能性があると考えている。本研究はJSPS科研費 JP15K12438の助成を受けて行った。また首都圏における石材調査に関してはMine秋吉台ジオパーク構想研究チャレンジ助成事業補助金の助成を受けた。
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© 2017 公益社団法人 日本地理学会
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