日本地理学会発表要旨集
2019年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 611
会議情報

発表要旨
近代京都における借家の実態と祭礼運営
祇園祭の山鉾町を事例に
*佐藤 弘隆
著者情報
会議録・要旨集 フリー

詳細
抄録

祭礼は⽂化・⽂政期頃に定着し、明治期にかけて発展したとされ、都市における共同性を形成・維持する装置として捉えられてきた。近年でも祭礼はまちづくりや観光の資源として注目を集めている。しかし、発表者は上記のような祭礼の機能を認めながらも、その継承を考える際には、祭礼の持続的運営を支える都市機能を解明する必要があると考える。祭礼を支える諸組織・集団の関係性が重層的な都市構造によって規定されていることは社会学や地理学の既往研究において既に指摘されており、それによって生まれる共同性やアイデンティティが祭礼の存在を精神的に支える原動力とされている。しかし、それを物理的に支える基盤を構築する都市の機能の解明は十分になされていない。
本研究は近代京都における山鉾町を対象地域とし、各町内の土地所有・利用状況と祭礼運営の関係性を明らかにする。とりわけ、ミクロスケールでの時空間的変化に注目しながら、借家の存在が山鉾の運営に与える影響を明らかにする。これにより、祭礼の持続的な運営基盤を構築する都市機能を示し、現代都市における伝統的な地域文化の継承の在り方を考察する。
山鉾町は京都市都心に位置し、京都祇園祭において山鉾を出す35つの町内である。京都市の元学区でいうと、全山鉾町のうち、15つが明倫元学区、10つが成徳元学区に属す。両元学区には、1940(昭和15)年に警防団によって製作された住宅地図形式の大縮尺図が残されている(警防団地図と呼ぶこととする。明倫:京都市学校歴史博物館所蔵、成徳:公益財団法人鶏鉾保存会所蔵)。本研究では、両図のアーカイブ及びGISデータを主な資料とし、立命館大学地理学教室及びアート・リサーチセンターで蓄積されてきた近代京都の歴史GISデータ(統計や地籍図、地誌類など)と組み合わせながら、大正・昭和初期の同地域の社会構成を明らかにする。そして、その状況が祇園祭における山鉾の運営基盤として如何に機能したかを分析する。
1940(昭和15)年の警防団地図の建物ポリゴンと同時期の地籍図の土地ポリゴンを照合させると、土地1筆に複数の建物(主屋)が含まれる場合がみられる。このような場合、路地奥に裏長屋が建てられ、借家として利用されていたと推測される。また、警防団地図に記載された居住者と旧土地台帳の土地所有者とを照合させることで、そこの居住者が借家人(もしくは借地人)かどうか推測できる。これにより、両区の土地所有と借家利用の状況が復元された。さらに、この結果に商工人が記載された地誌類のデータをあわせることで、借家人にも有力な商人が含まれることが判明した。
当時の状況を1911(明治44)年実施の『京都市臨時人口調査要計表』の本所帯数及び『京都地籍図』の町内居住の土地所有世帯数から算出した借家世帯数の推測値と比較すると、大正・昭和初期にかけ、多くの町内で抱屋敷が増加し、借家利用が増加していた。また、1911(明治44)年時点では借家の少ない町内と多い町内の差がはっきりしていたが、1940(昭和15)年には差が目立たなくなっていた。
以上を踏まえ、橋弁慶山(明倫)や船鉾(成徳)など両区に所在する複数の山鉾の運営基盤を構築する人員・資金・場所の確保の基準・論理と各町内の社会構成との関係性を分析した。すると、従来、人員や場所の確保で制限が強かった借家人の関与であるが、大正・昭和初期にかけては人員確保における制限が緩和されていった。また、従来でも借家人に対する制限が比較的に緩い資金確保においても、家持と借家人の均等化がさらに進んだ。
山鉾運営の基準・論理には各町内間で時空間的に若干のズレがみられ、それは各町内の社会構成の差異に規定された。つまり、祭礼の存立を物理的に支える基盤は都市構造の変化に対応して再構築されるものなのである。このように、祭礼の継承は合理的にシステム化されており、一定の枠組を維持しながら、そこに代替の効く要素が適宜に取り込まれることで持続的な運営を可能としている。

著者関連情報
© 2019 公益社団法人 日本地理学会
前の記事 次の記事
feedback
Top