1. はじめに
洪水防止や工業用水の安定供給等を目的としたダム建設を巡っては、水没地域のコミュニティ崩壊や環境破壊への懸念等からしばしば反対運動が生じてきた。そのような反対運動は、元来、ダム建設予定地の住民によって、計画の妥当性や補償への充実等を争点として行われてきた。しかし1990年代以降は、立地点の住民のみならず、都市部や下流域の他地域のアクターと連携を行い、治水・利水の代替案作成や、公共事業に頼らない村づくりなどを目指した環境運動が行われるようになった(帯谷、2004)。その中で、細川内ダム(徳島県)が2000年に事業中止になったことを契機として、ダム事業の再評価手続きが広がり、休止あるいは中止となる事業が増えた(浜本2015)。
しかしダム建設が中止になった地域では、数十年という長期にわたってダム建設計画を巡る地域コンフリクトが存在する。また、社会基盤整備の遅れや行政機関に振り回されたことへの憤りなど、ダム建設予定地の住民には不信感が従来以上に渦巻く(浜本、2015)。そのため、ダム建設計画を通して住民間の対立を解消し、住民間の関係をどう再構築することかが最大の地域課題となる。
本研究では、ダム建設計画中止後における建設予定地の地域社会の変化を中長期的に分析することで、ダム問題の地域社会への影響を明らかにするとともに、住民間の不信感や対立の解消を促した要因を考察する。 調査対象地は、徳島県那賀町木頭地区(旧木頭村)である。木頭地区は那賀川の最上流に位置し、人口は940人(2020年現在)である。木頭地区では1971~2000年に建設省主導の細川内ダム建設予定地となっていたが、2000年に事業中止となった。
2. 結果と分析
まず、ダム問題の影響の現状について木頭地区の住民(16名)へ尋ねた結果、建設業に従事する1名を除いて、「ダム問題の影響やこれに起因するしがらみはほとんど残っていない」といった回答が主であった。さらに、那賀町へ合併して以降、木頭地区を中心とした農業加工業の同業者団体が新たに設立されたが、経営赤字が問題となっていた食品会社もこれに参加している。さらに、少子高齢化の対応を目的として、木頭地区の小学校区ごとに協議会が設立されるなど、地域内での分断は確認できなかった。つまり、木頭地区では現在、ダム問題に起因する住民間の対立の存在は認識されておらず、地域の経済・社会活動への影響は表面化していないといえる。
このような結果に至った原因は2点考えられる。それは「町村合併」と「ダム問題と地域の生活の切り分け」である。
まず1点目は町村合併についてである。合併前の木頭村議会の定員は10名で、ダム運動終結後も内発的発展を目標とした第3セクターの食品会社の経営問題など、ダム運動をめぐる村政のあり方が議論されていた。しかし、合併後の那賀町議会では、木頭地区選出議員数はわずか2名となり、ダム問題に関連する議論を行う機会が減少した。
続いて2点目の「ダム問題と地域の生活の切り分け」についてである。木頭地区には大字ごとに総代がおり、年に2回の総代会で、役場と大字との行政連絡を行っている。総代会では、ダム建設計画が進んでいた当時からダム問題についての議論は取り上げられておらず、その理由は「行政連絡とダム問題を総代会内で行うと業務が進まなくなる」と考えられていたためであった。同様に、ゆず生産者の同業者団体でも「ゆず産業とダム問題を結び付けて考えることは無かった」との回答が得られており、ダム問題は団体の会議、ひいてはゆず産業に持ち込まれていなかった。ここから、ダム問題による影響が地域にほぼ表面化していない要因として、ダム反対運動が行われていた時期でも、ダム問題と自治組織や産業は区別するべきとの住民間の暗黙の了解があったのではないかと考えられる。
3. 結果
先行研究では、ダム建設計画中止後に地域の混乱に対して「いかなるアクターが関与できるかという問題に加えて、そこで生活を営む住民間に生じた対立を解消し、その関係をどう再構築するかが最大の課題」(帯谷、2004、p.264)であると指摘されていた。本研究の結果より、現在の木頭地区ではダム問題の影響は少なくとも表面化していないことが分かった。その背景として、関係再構築のための政策の策定や特定のアクターの関与等よりは、地方行政の構造変化により、ダム問題が潜在化したことの影響が大きいと考えられた。さらに、ダム反対運動中であっても、住民の間でダム問題と地域運営が区別されていたために、ダム建設計画中止後の地域づくりに支障は及んでいなかった。このような住民の知恵によって地域コンフリクトは徐々に収束していったと考えられる。