日本地理学会発表要旨集
2023年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: P010
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健康リスク評価のための地理空間情報と疾病地図
衛生制度の変遷と疾病地図の社会的応用に関する検討
*荒堀 智彦
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抄録

1. はじめに

 2019年12月に発生した新型コロナウイルス感染症(以下,COVID-19)のパンデミックは,2023年現在においても,新たな変異株の登場や,後遺症の問題など,様々な健康リスクをもたらしている.

 COVID-19流行前から,公衆衛生の分野では,集団や地域における健康増進や疾病予防に向けた環境や制度の構築および,情報提供に関する議論が行われてきた.世界保健機関(WHO)では,公衆衛生を「共同社会の組織的な努力を通じて,病気の予防,健康長寿,身体的・精神的健康と能率の増進を図る科学と技術」と定義している(Winslow 1920b)これは,個人の疾患治療に主眼を置く臨床医学に対となる考え方であり,環境保健・疾病予防・健康教育・健康管理・衛生行政・医療制度・社会保障が含まれる.そのため,社会制度や法律,政策との関わりが深い分野である.地理学では,環境と人間との関わりを追究する学問であることから,医学・健康地理学の領域において親和性が高い.米国CDCのガイドラインにおいても,記述疫学の中で,地理情報を健康リスク評価へ活用することがまとめられており,疾病地図の有用性が高まっている(Rasmussen and Goodman 2019).そこで本発表では,感染症制御および予防に向けた日本の衛生制度の変遷を概観し,ポスト・コロナ時代における疾病地図の社会的応用に関する検討を行う.

2. 日本の衛生行政の確立と疾病地図の展開

 日本における疾病地図は,明治期において衛生行政と疫学調査が確立され,衛生統計の整備とともに発展した.その大きな契機となったのが,1874(明治7)年に制定された「医制」である.医制は,衛生行政や医学教育を含む76ヵ条からなり,衛生政策を地域社会の実情を考慮して進めることを志向し,患者・死者の届出だけでなく,各地の風土や習俗に至るまで,幅広い情報の把握を目的としていた(荒堀・若林 2022).第45条と第46条に衛生統計の始まりとなる情報収集体制の定めがある.その後,1879(明治12)年に虎列刺病予防仮規則が制定され,1880(明治13)にコレラ以外の疾病にも対象を拡大する形で伝染病予防規則が制定された.これら一連の衛生制度の整備とともに,『虎列刺病流行紀事』をはじめとする各記録に,疾病地図が収録された.全国の伝播経路が確認できる感染分布図や,東京や大阪においては市内の大縮尺地図が作成され,明治期に疾病地図作成の技術が確立したといえる.

 戦後は,米国型の公衆衛生モデルが導入されたこともあり,衛生行政は,戦前の警察行政的な措置(Quarantine:隔離・検疫)から人権を尊重した情報収集(Surveillance:調査監視)へと変わった(日本伝染病学会 1972).1981年に現代に続く感染症サーベイランスが制度化され,感染症定点医療機関による全 国的な情報収集体制が整備された.そして1999(平成11)年の感染症法施行により,報告義務だけでなく,データ解析とリスク管理が明確化された.

3. 地理空間情報の進化と疾病地図の社会的応用

 COVID-19の流行下においては,時間的・空間的な健康リスクを評価し,可視化するための新しい疾病地図が登場した.人流データやイベントベースモデルを用いた小地域におけるリス クの時空間的可視化(Habibi et al 2022など)は代表的な事例である.人々の世界的交流や経済のグローバル化が進む中,感染症の問題は世界規模のリスクとなった.COVID-19のパンデミックを契機として,デジタル化が加速し,目に見えない疾病現象を可視化する多様な疾病地図が作成された.これらの地図は,健康危機管理における意思決定支援のための新しいツールとして,定着していくと考えられるが,健康危機管理に貢献するために科学技術を以て構築したものが,別のリスクを招くことを認識する必要があると考えられる.例えば,個人情報保護,可視化による差別の助長や,個人データをビッグデータとして行政や企業が管理することによる監視社会への懸念などがあげられる.リモートセンシングにおいては,データ所有権や主権,データのオープンアクセス,ステークホルダーとしての一般市民における議論を積極的に促し,多元主義による利用の促進が提言されている(Bennett et al 2022).健康リスクの可視化とはリスクの質は異なるものの,今後の議論の促進が期待される.

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