日本地理学会発表要旨集
2023年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 416
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戦時期の高等教育機関による大陸旅行に関する比較研究
奈良女高師の満州旅行を東京女高師のそれと比較して
*内田 忠賢
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抄録

戦時期(日中戦争)に実施された奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学、奈良女高師)の満州への修学旅行の記録を、同時期に実施された東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学、東京女高師)の満州への視察旅行の記録と比較したい。特に、当時の女子教育の最高学府であった両校の生徒たちが、実質的に日本の植民地であった満州国を訪れ、現地で何を見、何を考えたかに注目したい。

彼女たちの所感(感想文)には大きな違いがあった。奈良女高師の生徒たちは、現地の時局・情勢に対し、ほとんど触れることなく、あるいは、触れる場合も、中国人や満州人の生活水準の低さに驚き、日本人の現地での努力を称賛する所感である。それに対し、東京女高師の生徒たちは、部分的ではあるが、中国人や満州人の逞しさを称え、現地日本人の傲慢さ、満州国のあり方への異論を唱えている。

この違いは何故か? 当時、最も優秀な女子生徒を全国から選抜した両校の、校風の違いだろうか? 奈良女高師の満州旅行(満鮮旅行)については唯一、長志珠絵が、東京女高師のそれと比較し、詳細な資料紹介および考察を行っている。長は、両者にまったく違いはなく、いずれも、「兵役のない性であり突出したエリート性を備える」性とたちの、時局に支配された「帝国の視線」の反映にすぎないと断じた。しかし、上記のように、両者に参加した生徒たちの所感には大きな違いがある。

当時の史料を検討すると、この大きな違いが生まれた理由が分かる。奈良女高師の満州旅行は、原則、全員参加が課された正規の修学旅行であり、修学旅行を記録に際しては、当局の検閲などに細心の注意を払うよう、学校側から事前に指示されている。全員参加の修学旅行であるため、満鮮旅行に嫌々参加する生徒たちもいた。また、修学旅行の引率教官は、植民地や中国・朝鮮半島に精通した地理学者、東洋史家などではなく、修学旅行の伺いを立てるべき当局とは関係がない教官だった。

それに対し、東京女高師の満州旅行は、如蘭会(教職員と生徒の親睦団体)旅行部が主催した、参加・不参加ともに自由な視察旅行である。勿論、当局から事前の許可を得、実施された旅行であり、当時の教育機関が実施した満鮮旅行とルートに大きな違いはない。しかし、生徒たちが自主的かつ積極的に訪問地の事前学習を行った。その成果を大部な『歩む』という冊子にまとめている。彼女たちは嬉々として参加したようだ。

そして、東京女高師の生徒たちが、素朴に時局を批判した所感を書くことができた大きな理由は、満州への視察旅行を引率した教員が、地理学者、飯本信之教授(1985~1989)でだったことにある。飯本は当時、日本地政学協会の常務理事、軍部にも顔が利く大物学者だった。飯本のチェックを経たという前提の下、生徒たちは時局への批判を自由に書いた。

地政学の主導者のひとり、飯本が引率したなら、また飯本のチェックが入ったなら、時局への批判などありえない筈だと私は考え、彼女たちが率直な感想をよく書いたものだと驚いた。しかし、東京女高師の当時の参加生徒たちにインタビューをしたところ、「飯(めし)ちゃん(=飯本教授)は、思ったこと、考えたことを自由に書けば良い、責任は自分が取るから」と公言したという。そのため、思い切った意見を彼女たちは書いた。

飯本が後日、「責任を取った」という記録は残っていない。戦後、地政学を推進した京都帝大教授・小牧実繁らが公職追放になった一方、飯本は公職追放の対象になっていない。

主な参考文献

長志珠絵(2007)「『満州』ツーリズムと学校・帝国空間・戦場‐女子高等師範学校の「大陸旅行」記録を中心に‐」、駒込武・橋本伸也編『帝国と学校(叢書・比較教育社会史)』、昭和堂

内田忠賢(2001・02)「東京女高師の地理巡検‐1939年の満州旅行‐(1)・(2)」、『お茶の水地理』42・43

主な史料

奈良女子大学編『奈良女子大学所蔵校史関係資料目録』「昭和十四年 大陸旅行ニ関する書類」「昭和十五年 大陸旅行ニ関する書類」

東京女子高等師範学校内 大陸視察旅行団『大陸視察旅行所感集 昭和十四年』

那須生代・横尾清香・丸山英子・志村貞子編『歩む』私家版、1939年

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