日本地理学会発表要旨集
2023年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S202
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関東大震災を今に伝える
災害と復興、そして現在の備えは?
*武村 雅之
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キーワード: 関東大震災, 復興, 防災, 伝承
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抄録

1. はじめに

 筆者は30年間、大正12年に発生した関東大震災の研究を続けてきた地震学者である。震源、揺れ、被害について研究し、ここ10年余は神奈川県と東京都23区を中心に、現地調査を行ってきた。その結果によれば、被害は関東・中部の1府9県におよび、死者・行方不明者数は東日本大震災の約5倍で約10万5千人、人口比でみれば約10倍、経済被害(直接被害)についてみても、被害総額は当時のお金で約55億円で、GDP(またはGNP)比でも約10倍となっていた。まさに国家存亡の機を招いた震災であったと言える。

2. 震源直上の神奈川県で何が起きたのか

 神奈川県全体での全潰世帯数は、東京府の3倍近い。震源域の直上にあった神奈川県は強い揺れに見舞われ、多くの市民が犠牲となった。火災も横浜市・横須賀市をはじめ各地で発生した。さらに土砂災害や津波災害なども発生した。特に注目すべきは土砂災害であり、神奈川県内の土砂災害を慰霊碑や遺構に即してまとめると26件にのぼる。小田原市根府川では熱海線(現在の東海道線)の根府川駅裏の崖が崩れ、下り109列車を押し流し131名が犠牲となった。根府川集落では白糸川の上流約4kmから山津波が押し寄せ5分後に集落を埋め尽くし、海岸で遊んでいた児童20名を含む289名が犠牲となった。津波も押し寄せ、遺体の行方すら分からない。土砂災害は、地震後20年以上も住民を苦しめた。丹沢山地などでは土砂が大雨のたびに流出し、川床を上昇させ水害を引き起こした。昭和12年、13年の酒匂川流域での水害の記念碑はその惨状を今に伝えている。

3. 東京はなぜ最大の被災地となったか

 元禄16(1703)年の元禄地震では顕著な延焼火災もなく、死者数も関東大震災の1/100以下の340人。当時は、江東地域は本所のごく限られた地域に街があるだけであった。

 安政2 (1855)年に再び大地震に襲われる。人口は130万人に増え、江東地域にも街は広がっていたが、大半は社寺地と武家地(主に下屋敷)で、火災延焼は町人地に限られた。死者は約7500人で関東大震災の1/10程度であった。

 関東大震災による大火災の原因は、台風崩れの低気圧のために南関東一円で強風が吹いたことがよく指摘されるが、これだけではない。地盤が軟弱な江東地域が明治以降工業地域となり、人口が急増し、木造密集市街地となった。つまり最大の原因は、道路や公園などの基盤整備を行わないまま、木造密集地形成を放置した明治政府の都市政策の誤りにあった。

4. 帝都復興事業のレガシー

 以上の反省に立って行われたのが帝都復興事業であった。耐震・耐火を前提に公共性を重視し、国民的合意形成の下で、首都としてふさわしい品格のある街づくりを目指した。世界でも類を見ない都市大改造で、その成果は東京の都市基盤を支え続けてきた。

 土地区画整理により焼失地域を64に分け、国が13地区、残りを東京市が施工した。同時に街路を整備し、国が幹線街路(幅員22m以上)52線、東京市が補助線街路(幅員22m以下)122線路を施工した。橋梁は修繕補強の194橋を含め576橋が架橋された。「美観」も大切にされた。公園も整備され、国が隅田、浜町、錦糸の三大公園を、東京市が52の復興小公園と旧来の5公園を移設改築した復旧小公園を造った。そのモダンな佇まいは地域のシンボルとなった。

 ところが戦後、隅田公園は堤防の嵩上げで川の眺望を失い、高速道路の通り道となってしまった。浜町、錦糸の各公園にも公共建物が建ち、往時の姿を失った。わずかに当時の品格を伝えるのは復興小学校の校舎である。戦後の校舎とは対照的に耐震補強のブレースは見当たらない。品格ある姿に当時の人々の子供への思いを感じる。

5. なぜ今、首都直下地震の脅威なのか

 現代の東京が抱える防災上の問題は、郊外15区の木造密集地域の火災の危険性、堤防破損で水没するおそれがある海抜ゼロメートル地帯の存在、64年東京五輪時の高速道路建設による水辺破壊、2000年以降急速に進む容積率緩和による高層ビルが引き起こす大量の帰宅困難者問題、今般の五輪に便乗して湾岸埋立地に建設されたタワーマンションの地震時孤立化問題などである。

 東京の戦後復興は、戦後窮乏する都民の居食住の確保を最優先すべきとした知事の反対によりつまずいた。さらに、経済成長し続けなければ維持できないといわれる現代の資本主義に飲み込まれ、効率性と公平性のバランスが崩れた。都市基盤や厳格な土地利用制限などは二の次で、都市文化の基盤をなすべき公的空間や機能は次々と破壊された。

 街は市民に対し平等に利益をもたらすものでなければならない。そのような街にこそ市民の連帯意識が生まれ、共助のこころもはぐくまれ、防災に取りくむ社会が実現するのではないかと私は思う。今こそ、帝都復興事業に学ぶべき時である。

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