日本地理学会発表要旨集
2024年日本地理学会春季学術大会
セッションID: P080
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角海浜村毒消し行商人の足跡
毒消しの通った道
*茗荷 傑
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抄録

日本大震災以降原子力発電に対する風当たりが強くなって久しい。しかしながら昨今はウクライナにおける戦争の影響で、燃料価格の高騰から逼迫する電力需要を背景にして政府は2022年7月には原発再稼働を本格化する方針を表明し、2023年10月現在では12基が稼働することとなる等、原発をめぐる事情は世相を如実に反映している。2024年元旦の石川県を中心とする大地震発生にもかかわらず、今回の大規模地震災害を契機とした原発運用に関わる議論が、東日本大震災の時のようにヒステリックに発生する気配がないのも当時とは光熱費事情が一変した表れであろうと考えると実に興味深い現象であると指摘せざるを得ない。このように原子力発電所というものは時代の状況に振り回されやすい存在であるといえるが、かつて原発設置の是非をめぐって一大騒動を巻き起こし、消滅した村が新潟市の片隅に存在した。

角海浜村である。

新潟市の海沿い、日本海と佐渡島の島影を望む国道402 号線、通称日本海夕日ラインを南下すると越後平野と海岸線を隔てるような角田山の山体が正面に迫ってくる。その角田山を左に見て通過したあたりから道路は内陸に向かって進路を変え、長いトンネルを二つ通り抜けて再び海岸線に沿って走るコースに戻るという不自然な区間が存在する。この国道が避けて通る地区、ここにはかつて角海浜村と呼ばれた集落が存在していた。三方を山に囲まれ正面は海という周囲から隔絶したこの村は特異な立地もさることながら、その成立から廃絶まで波乱万丈のドラマに満ちた歴史をたどったのであった 。

角海浜の名は 知らなくとも 越後の 毒消しの名を知る人は多いであろう。1953年宮城まり子が歌った「毒消しゃいらんかね」で一世を風靡した。この毒消しが角海浜で製造され、村の女たちの行商によって全国へ広められたのであった 。

最盛期には角海浜村だけではなく周辺の村々にも製造が広がり、行商の季節となると数千人の売り子が西蒲原から全国へと散っていく光景が見られたという。角海浜村以外の村からどのように 売り子たちが出ていったのかは残された証言からほぼ明らかであり、その道は現存しているが 廃絶した角海浜の売り子がどこを通って行ったのかは証言も少なく、また村へ通ずる道が使われなくなって久しいために判然としない。

角海浜村の毒消しがどこを通って運ばれたのか、その道筋を明らかにし、「塩の道」や「熊野古道」のようにその道自体を復興する活動を報告する 。

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