Ⅰ. はじめに 流域治水と河川空間オープン化が同時に推進されている現代日本では,河川の脅威と恩恵という両義性を理解し,河川と人間との適切な距離を再考していかねばならない.そのためには,近代河川改修以前の伝統的河川観を再評価するのみならず,河川空間を生活の場として利用しなくなった現代のライフスタイルを前提に,河川と共存する方策を探る必要がある.本研究では,近代以降河川景観が評価されて土地利用が変容した堤外地集落を事例に,河川が生業の場から眺望の対象へと移行した戦後期における,水害リスクと妥協した水防システムの形成経緯を明らかにする.分析には,岐阜県・岐阜市議会録,郷土史・水害史等に含まれる回顧録,地元紙の岐阜日日新聞(現:岐阜新聞)記事,聞き取り調査から収集した行政・住民のオーラルヒストリーを使用する.
Ⅱ. 対象地域の概要と近代期の変容 本研究では,岐阜県岐阜市の金華山麓に位置し,長良川を挟んで向き合う川原町地区(左岸)・鵜飼屋地区(右岸)を対象とする.前者は川湊を起源とする伝統的町並みとして,後者は鵜飼の拠点として知られ,長良川に育まれた岐阜の歴史を象徴する堤外地集落である.現在の両地区には旅館・戸建住宅・マンションも多く立地し,伝統的な街並みと現代の建築物が同居した独特な景観をみせている.明治20年代以降,物流が水運から陸運へ移行するにつれ,川原町・鵜飼屋地区での伝統的河川生業は衰退した.その一方で,鵜飼観覧を嚆矢として長良川畔の美しい景観が見出され,両地区は別荘地・観光地・住宅地としての地位を高めていった.1921年から開始された木曽川上流改修工事は,大規模な内容であったにも関わらず,堤外地である両地区の水害リスクをほとんど低減しなかった.工事による遊水地減少や背後の本堤防増強は,そのリスクをかえって高めたとも考えられる.
Ⅲ. 3年連続水害を踏まえた水防システムの形成 川原町・鵜飼屋地区では,1959年9月(伊勢湾台風),1960年8月(11号・12号台風),1961年6月(梅雨前線豪雨)の3年連続で浸水被害を受けた際,両地区の背後にある本堤防開口部の締め切りが問題となった.両地区の人々は,自らの浸水被害が増す代わりに堤内市街地が守られるというジレンマに向き合わざるを得なくなったのである.とりわけ,右岸側のみ締め切りに失敗した1960年には,行政・堤外住民・堤内住民の間で締め切りをめぐる議論が急速に進展した.その結果堤外住民は,自らの避難時間を確保し,家屋被害を軽減させるための第一次水防活動(堤外地の川側における土のう積み,本堤締め切りの段階化)を条件として,本堤締め切りを了承した.以上の締め切り制度を機能させるべく,河畔の防水壁・特殊堤・自動式陸閘といった治水インフラが次々と整備された.とりわけ,堤外地の浸水を直接軽減する防水壁に対して,堤外住民・旅館関係者は景観上の懸念を示しつつ,その治水効果に大きな期待を寄せていた.ただし,防水壁は全ての洪水を防御しうる規模ではなく、1960年の洪水位に合わせて設計された.
Ⅳ. 水防システムの現状と課題 川原町・鵜飼屋地区では,防水壁・角落しに加えて後年には堤外陸閘も整備され,一定規模の洪水被害を防止できるようになった(図1).しかし,さらに水位が上昇すると本堤防の陸閘が閉鎖され,両地区は長良川の中に取り残される.こうした堤外・堤内の複層的な水防システムは,近年の水害でも有効に機能してきた.ただし,堤外住民が堤内へ避難することはほとんどなく,水位変化に関する在来知とリアルタイム水位情報・雨雲レーダーとを併用して,必要と判断すれば家屋内での垂直避難を行っている.景観と治水との妥協策として構築された川原町・鵜飼屋地区の水防システムは,これまで場当たり的だった水害対応を制度化・インフラ化したといえる.21世紀に入ると,この水防システムは河川と人間との共生を示すものとして評価され,両地区における堤外居住には文化的価値が見出されるようになった.その一方で,陸閘・角落しの閉鎖を担う水防団では,団員の人手不足が課題となっている.とりわけ,多くの人口を抱えるマンションと水防団との関わりは全くないという.地区全体の少子高齢化や,気候変動による水害激甚化といった諸課題を踏まえ,ハード・ソフトが一体となった持続可能な水防システムの再考が,将来的に必要となってくるだろう.