2019 年 60 巻 1 号 p. 37-67
本稿は1920年に台北で創設され,おもに東南アジアで展開した日系倉庫会社「南洋倉庫」の経営を考察する。同社は,経済や国際関係の趨勢変化に翻弄されつつも,現地で一貫して倉庫業を営む一方,大正から昭和の南進の潮流と変容を投影した多様な主体が経営に介在し,その影響を受けた。本稿は,こうした背景をもつ南洋倉庫の経営を分析し,時代環境の変化のなかで考察しながら,当時の南洋にかかわった経済・企業活動の態様を明らかにする。
はじめに
Ⅰ創業と低迷:大正期南進の時流と共に(1920~1926)
Ⅱ整理と拡大:蘭印への集中(1926~1929)
Ⅲ新展開と内外摩擦:石原産業海運の傘下で(1929~1945)
おわりに
(2)とくに注記のないかぎり,業績や財務諸表の数値,倉庫棟数や土地面積,業務取扱量,役員人事などは,当該各年度の営業報告書の内容を使用している。
「南洋倉庫」は,1920年に日本統治下の台北で創設され,おもに東南アジアで事業を展開した,日系倉庫会社である。倉庫という業種は目立つものではないが,経済活動におけるモノとカネの動きを円滑化するうえでは,不可欠な役割を果たす。このため,1910年代後半当時,日本が華南から東南アジアにかけての市場圏で貿易を促進するうえでは,現地での日系倉庫会社の設立が重要と考えられていた。この動きは,大正期南進論の盛り上がりと相まって,台湾からの南方展開を目指した台湾総督府と「台湾銀行」によって具体化される。とくに台湾銀行は,第二代頭取であった柳生一義(在任1901~16年)の構想に基づき,域内に商業ネットワークを張り巡らせる華僑と提携した,日系資本の円滑な経済進出を企図していた。この金融版が1919年に開業した「華南銀行」であり,物流版が南洋倉庫であった。
南洋倉庫は,台湾銀行の肝煎りによって充実した資本と役員を擁し,台湾総督府からも補助金交付の支援を受け,アジア各地に相次いで倉庫を展開するなど,順調な発展が期待された。しかし,折からの域内不況や日貨排斥による打撃に加え,台湾銀行や華南銀行の不振から十分な支援を受けられず,創業時から関与していた堤林數衞が建て直しに努力したものの,業績は低迷した。このため,1926年には台湾銀行出身の半田治三郎が経営体制を整理・刷新し,蘭印での事業集中を進めたが,低迷は続いた。こうしたなか,南方事業で名を馳せ,折からジャワ航路参入を企図した石原廣一郎の率いる「石原産業海運」と,支援者を必要とした南洋倉庫の利害が一致し,曲折の末,1930年には台湾銀行の手を離れて石原傘下となる。この後,1930年代前半は蘭印貿易の急拡大もあり業績は一時改善するが,以降は日蘭通商摩擦の悪化,戦時体制下の混乱と制約から低迷するなど,昭和期南進の流れに沿って展開し,1945年の敗戦で終焉を迎える。
従来,1910~30年代の南進について,マクロの視点から国家・旧宗主国・植民地や各業界の経済的反応を考察した研究はあるが,一企業の視点から経済活動を考察した研究は少ない。とくに,南進の潮流が経済や国際関係の趨勢から変容したなかでの,企業の実態や影響は未解明な部分も多く,事例の積み上げによる検証が求められる。この点で,現地で長期一貫して倉庫業を営む一方,大正から昭和の南進の潮流と変容を反映し,台湾銀行,台湾総督府,堤林數衞や半田治三郎など南洋で活動した日本人,台湾人有力者,東南アジアに展開した華僑から,石原廣一郎,さらに国家自体など,多様な主体が経営に介在した南洋倉庫は,ひとつの好事例である。そこで本稿は南洋倉庫の経営を考察し,その軌跡を時代環境の変化のなかで検討することで,わずかであるが研究空白を埋めることを試みる(注1)。
本稿は次の構成となっている。第Ⅰ節では1920年代前半を舞台に,創業背景を探った後,役員・株主の構成,初期の展開と業績の低迷について考察する。第Ⅱ節では1920年代後半,経営体制の刷新を経て,蘭印での事業集中・拡大策について考察し,さらにその経営実態を数値面から検討する。第Ⅲ節では1930~40年代,石原産業海運による買収を経た後,蘭印での国際通商摩擦の時期,さらには戦時体制下から終焉までを考察する。
20世紀初頭以降,本格的に経済面の対外拡張を目指した日本は,第一次世界大戦による欧州系資本のアジアでの一時的退潮を好機に,いわゆる大正期南進の思潮台頭も相まって,華南から東南アジアに拡がる「南支・南洋」とよばれた一体化した市場圏への進出を急展開させる。これを政策的に主導・支持したのが,台湾総督府と台湾銀行である。台湾は,領有以来の島内経済開発が一段落し,その位置を活用した日本の対外拡張,とくに南支・南洋に向けた前進基地の役割を果たす段階を迎えていた。台湾総督府と台湾銀行は,このための政策を具体化させており,南洋倉庫の創設は,この機運のなかで登場した。
1910年代後半,対欧州貿易の退潮による代替産品需要,戦時経済発展による購買力増大で,日本の対アジア輸出は急拡大した。しかし,貿易活動では倉庫が不可欠にもかかわらず,現地の外国系倉庫は融通性に欠けるため,1918年頃から台湾総督府と台湾銀行は共同で,アジアに展開する倉庫会社の設立を研究しており,中小商社を中心に日系倉庫の設立を望む動きも顕在化していた(注2)。このように台湾総督府の発議と台湾銀行の主導で設立された先例には,1916年9月に島内で創設された「台湾倉庫」がある。ただし台湾倉庫と異なるのは,資本と経営に南支・南洋で経済実態を握っていた華僑の参加を企図した点である。これは,台湾銀行第二代頭取であった柳生一義の構想に基づき,華僑との提携による同市場圏への接近によって,アジア間交易の需要を取り込みつつ,日系資本の円滑な経済進出を目論むものであった。同行は1913年から数年越しで,台湾と蘭印を拠点とする富商の郭春秧と,「軒轅銀行」の合弁設立を交渉するなど,具体的な動きを見せていた[久末 2010]。この後継計画である華南銀行の設立準備と合わせて,南洋倉庫の設立計画は急速に具体化した(注3)。
1919年10月3日,台湾名門「板橋林家」当主で,華南銀行の設立発起人兼総経理である林熊徴を筆頭に19名を設立発起人として,南洋倉庫の設立趣意書,目論見書,定款が発表された。この設立趣意書は,次のように記している。
「民國南方ト我臺灣及南洋トノ三者ハ地理上極メテ密接ナル關係ヲ有シ相互間ノ交通モ近時著シク頻繁ヲ來セル(中略)三者ハ鼎足シテ東半球ニ於ケル一大經濟圏ヲ成スモノト云フヘシ殊ニ大戦ノ勃發以來民國及南洋ノ間ノ貿易ノ隆盛ニ趨クヤ臺灣ノ此等地方ニ對スル關係ハ更ニ一層密接ヲ加ヘ來リ(中略)最遺憾ナルハ貿易ノ發達ニ伴ヒ貨物移動ノ頻繁ナルニ拘ラス此等ノ方面ニ於テ一定ノ聯絡ヲ有スル倉庫設備ヲ缼如セルコト之レナリ(中略)大戦ノ終熄ト共ニ相互ノ貿易ハ益進展ヲ促シ曩ニ此方面ニ於ケル有力者ノ提携ニヨリテ華南銀行ノ設立セラルルアリテ已ニ經濟上彼此提携ノ先驅ヲナセリ機ハ正ニ倉庫設立ノ運ニ會セルヲ信ス是敢テ本計畫ヲ為ス所以ニシテ吾人ハ曩ニ華南銀行ノ設立ニ付賛同ヲ得タル此等地方ノ士君子諸君ノ賛同ヲ得テ此際速ニ南洋倉庫會社ノ設立ヲ見ンコト切望ニ堪ヘス」[南洋倉庫 1919a, 1-3.下線は筆者による]
以上からは,南洋倉庫の設立が,台湾と南支・南洋の貿易活動伸張による倉庫業の必要にあり,目論見書の第一項「目的」でも「本會社ハ臺灣中華民國及南洋ニ於テ貨物ノ保管倉庫證券ノ發行其他一般ノ倉庫業ヲ營ミ竝特殊商品ノ賣買及精米業ヲ兼營シ以テ彼此貿易ノ助長ヲ圖ルヲ目的トス」[南洋倉庫 1919a, 5]とある。
また,興味深い点は上記下線部のように,その設立が華南銀行の開設と連動していることである。目論見書の第三項「組織」にも「本會社ハ日華合辨トス即チ中華側ニ於テハ南洋ニ關係アル中華國人及南洋華僑ヲ主タル株主トシ日本側ニ於テハ臺灣及南洋ニ關係ヲ有スル諸會社貿易業者事業家等ヲ主タル株主トスルモノトス」[南洋倉庫 1919a, 5]とあり,華南銀行の設立理念と同様,各地の日系・華人系資本が参加し,市場圏全体に跨る合弁会社を目指していた。さらに同項には「華南銀行關係者ニ對シテハ本會社株式割當ニ際シ特ニ優先ノ取扱ヲナスモノトス」[南洋倉庫 1919a, 5]とあり,ここでも強い連動性がうかがえる。
この他に目論見書では,第四項「資本金」で500万円を5万株分割の1株100円として,第1回払込みは4分の1の125万円とする,第五項「本店及支店」では本店を台湾,支店を広東,ハイフォン,サイゴン,ラングーン,バンコク,シンガポール,スマラン,スラバヤに設置する,第六項「重役」では取締役,監査役,顧問,相談役を日華両国人より選任する,などを明記している[南洋倉庫 1919a, 6-7]。
定款[南洋倉庫 1919b, 1-10]は,第1章「総則」が南洋倉庫(英文名:The Southern Warehouse Company Limited)の事業内容,本支店,30年の存立期間,公告方法を定め,第2章は資本金と株式,第3章は役員,第4章は株主総会を規定している。第5章「計算」は年度を2半期に区切り,利益金は100分の5以上を法定準備,100分の2以上を配当平均準備金,100分の10以下を賞与金,このほか若干を配当金と後期繰越金に充てるとしている。
11月20日には,発起人引受1万9000株分,一般引受3万1000株分の払込みが完了した。同時期,台湾銀行の中川小十郎副頭取は,新聞紙上で次のように語っている。
2. 役員・株主の構成「此の華僑民も握手して親密の關係を結び協同一致して經濟上の活躍を試み,南清から南洋に向つて我が國商工業の發展を企畫し計圖することは,實に我が國運の發展に資する所以の要道であると思ふ。(中略)南洋倉庫會社の創立も,華南銀行と同一の態度を以て彼等をして喜んで我と協同一致せしむる策に出づる積りである。此の倉庫會社にして出来上がる時は,我が對支貿易對南洋貿易に従事する商業家のために多大の利便を與ふることを信じて疑はざる次第である」[大阪新報 1919.11.30]
1920年1月15日,南洋倉庫は台北で創立株主総会を開催し,経営陣を決定した。構成[南洋倉庫 1936, 102]を見ると,取締役総理に台湾名門「霧峰林家」当主の林獻堂(華南銀行相談役)(注4),取締役副総理に台湾名門「基隆顔家」当主の顔雲年(華南銀行監査役)という台湾最有力の名望家を据え,実務を取り仕切る取締役専務に河方靭男(元三菱倉庫大阪支店長)を選出している。また,後述の大株主・顧問である郭春秧の右腕で,自らも蘭印「南洋商会」を経営した堤林數衞(注5)は,設立構想の段階から献策しており,設立後も主導的に関与するため取締役となっている。さらに林熊徴(台湾,華南銀行総理),柳悦耳(台湾銀行),盛重頤(上海,華南銀行相談役),江孔殷(広東,華南銀行相談役),王文達(シンガポール,華南銀行監査役)の5名を取締役,後宮信太郎(在台湾実業家),簡阿牛(台湾),顔鴻儀(台湾)の3名を監査役に選出した。この他,中川小十郎(台湾銀行副頭取,華南銀行顧問),郭春秧(台湾・蘭印,華南銀行顧問)を顧問に,さらに22名の相談役(注6)を選出した。出身を分類すると,経営陣12名は日本人4名,台湾籍5名,華南・南洋の華人3名で,顧問・相談役を加えた36名は日本人19名,台湾籍10名,華人7名となる。華南銀行関係者も19名(内取締役7名,監査役5名,顧問2名,相談役5名)に上り,両社が軌を一にして計画されたことがわかる。さらに,台湾銀行関係者が元在職者を含め12名に上ることも,同行主導の設立を裏づけている。
株主構成[南洋倉庫 1936, 12-16]を見ると,筆頭株主は台湾銀行(同行櫻井鐵太郎頭取名義)2450株(4.9パーセント)であるが,第2位には郭春秧の「郭河東公司」2000株(4パーセント)が名を連ね,一族の郭博愛の持株1000株を加えると合計3000株(6パーセント)の大株主となる。郭春秧は1910年代前半から日本と華僑の提携を目論み,華南銀行の前身計画であった軒轅銀行の設立構想にも深く関与していたが,南洋倉庫では大株主となったうえで,右腕ともいえる堤林が取締役に就任しており,一定以上の関与を想定した参加と考えられる。この他に特徴ある株主は華南銀行(同行総理林熊徴名義)1000株に加え,三井物産(同社三井源右衛門名義)1000株,山下汽船(同社内藤正太郎名義)1000株など,大手商社・海運会社も確認できる。株主の地域分布は,内地・台湾62パーセント(30950株,株主数44名),蘭印22パーセント(11000株,同27名),シンガポール9パーセント(4550株,31名),広東7パーセント(3500株,同28名)となる。もっとも,民族別持株比率は日本人35.7パーセント(17850株,同35名)に対し華人64.3パーセント(32150株,同95名)となり,資本面でも日華合弁の路線に沿った構成であった。
こうして成立した同社の創立株主総会で,来賓として招かれた台湾総督府の高田元治郎殖産局長は,南洋倉庫の役割について次のように期待を表明している。
「世界ノ貿易市場ト目サレ居ル所ノ南支南洋ニ對シマシテハ勢ヒ地ノ利ヲ有スル臺灣ハ帝國貿易ノ先驅トナリ又中心トナリテ大ニ活動セネバナラヌ使命ヲ有シテ居リマス(中略)倉庫業ハ全ク帝國ノ經濟貿易ノ一大重要機関デアル上カラシテ,總督府ニ於テモ其設立經營ニ對シ及ブ丈ケノ援助ヲスル考デアリマス」[南洋倉庫 1936, 104]
一方,総理に祭り上げられた林獻堂は,「國民ト國民トノ親善ハ却々容易デアリマセン。(中略)日支親善ニ於キマシテモ兩國民ノ利害相一致シテ初メテ其ノ實ヲ見ル次第デ,此ノ點ニ於キマシテモ日支合辨ノ本會社ノ如キハ意味アルモノト云ハネバナリマセン」[南洋倉庫 1936, 106-107.下線は筆者による]と述べたが,これは困難な前途を暗示していた。台湾銀行は,林などの台湾人有力者が,南洋華僑との仲介役になると勝手に期待していたが,これは華人社会の原理原則や利害を無視しており,実際には機能しなかった。同様に,南洋倉庫の日華提携構想も,台湾銀行が描いた画餅にすぎず,後には林の懸念のとおりとなる。
3. 創業初期の展開南洋倉庫は,創立株主総会前の1919年12月に,海外駐在員を出発させて実質的に始動しており,台北と広東は河方が,蘭印とシンガポールは堤林が監督することになった。開業後の1920年3月には蘭印のスマラン,4月にスラバヤで支店を開設して,広東では台湾倉庫の営業所を継承し,5月にはシンガポールで倉庫1棟を購入した[南洋倉庫 1921br, 2]。同年,蘭印では日本の主力輸出品である綿布の流通が滞り,日系商社の多くが危機に瀕した。この際に南洋倉庫は,8月に滞貨のほぼすべてである732万2116円分の貨物を吸収[南洋倉庫 1921br, 2]して倉庫証券を発行し,日系商社はこれを担保に台湾銀行と華南銀行から融通を受けて危機を免れるなど[神戸新聞1921.1.14],設立本旨に沿う活躍をした。
しかし,開業を急いだため,実務を担う取締役間で意思疎通や連絡を欠き,経営方向性は一致していなかった。また,堤林は蘭印で南洋商会を経営して南洋倉庫に専念できず,河方は倉庫業界出身だが海外事情に通じていなかった点も問題であった[南洋倉庫 1936b, 169]。結局,1920年度決算は14万378円26銭の損失を計上した。内容は,各種収入に総督府補助金5万円を加えた総益金25万9874円91銭に対し,各種支出に創業費2万9852円88銭を加えた総損金が40万253円17銭となった。会社側は①日貨排斥,不況,為替変動から貨物吸収が不調[南洋倉庫 1921br, 2],②高値・長期契約したジャワの借庫に入庫がなく約8万円の損失が発生[南洋倉庫 1936b, 165],③海外事情に疎い社員を三菱倉庫から多数採用して現地経費も多額を要した[南洋倉庫 1936b, 166-167],と説明する。
この初年度の赤字決算は,南洋倉庫にはなはだ不都合であった。理由について1921年1月29日,台湾総督府への経営状態説明会で,堤林は次のように述べている。
「日支合辨デソノ親善ノ意味モアル國際的ノモノデアツテ,殊ニ日本人ガソノ營業ヲ擔當シテ居ル以上ハ現在ノ如ク開業シテ來タ一年ニモ足ラナイノニ斯カル缼損ヲ來サシタトシテハ誠ニ相濟マヌ事(後略)」[南洋倉庫 1936b, 168]
すなわち,創業時に「弊社創立ニ當リ支那人株主ヲ募集セルトキ創業翌年ニシテ利益配當ヲナスベシト宣傳」[南洋倉庫 1936e, 205]したにもかかわらず(注7),初年度から欠損を出して無配当となったことで信用を失い,華人側の心象悪化や今後の提携に支障をきたすおそれがあった。このため創業わずか1年で,経営体制の刷新が必要となった。
そこで,1921年1月10日付で顧問の中川台湾銀行頭取が「諭達」を出し,これを大義名分に刷新を断行することになった。「諭達」[南洋倉庫 1936a, 160-162]は「本會社ハ国家的事業ナリ」とし,同社は日本の南方貿易発展の要とされ,南進を円滑化する華僑との連携も強調される。さらに「支那人株主ヲ満足セシメサルヘカラス」とし,その期待を裏切れば創立趣旨が失われ,日本の南進も頓挫するとしている。そのうえで「今次改革ノ止ムヲ得サル理由」として,高保管料と一時的滞貨の入庫増にもかかわらず欠損を出し,多大の経常支出の一方で営業に特色なく,台湾銀行や華南銀行とも協調を欠くとし,「創業匇々ニシテ恕スヘキモノアリトスルモ,斯ノ如クニシテ荏苒推移センカ,遂ニ収拾スヘカラサルニ至ラン」と述べている。最後に「從業者ニ一言ス」として,社員の態度一新も求めている。
具体的な経営刷新を,堤林は1921年1月29日の台湾総督府への説明会で次のように提案し,承諾を得た。①不用借庫を解約,②重役は当分無報酬,③台湾銀行への預金45万円を担保に「ジャワ銀行」(De Javasche Bank)から得た90万ギルダーの低利貸付で倉庫を建設,④22人の高給社員を16人に削減し,手当・事務所も簡素化[南洋倉庫 1936b, 169]。加えて,ギルダー建て資金は有利なときに円転換して約5万円,シンガポール倉庫も売却して約10万円の差益を出し,欠損を補填するとしている[南洋倉庫 1936b, 170-171]。
一方で堤林は,営業改善にも取り組んだ。彼の考えでは,南洋倉庫の保管料は日系各商社の自社倉庫より高く,後述のように台湾銀行や華南銀行からは倉庫証券担保の融通でも優遇を得られず,利率も外国銀行より割高で,利用低迷の悪循環を招いたとする[南洋倉庫 1936b, 171]。そこで台湾銀行が倉庫証券に優遇適用し,日系商社は自社倉庫を廃して南洋倉庫を利用することで,料金を引き下げる構想を描いた[神戸新聞 1921.1.25]。これが実現すれば,従来は日本製雑貨を担保に外国銀行から融資を引き出せなかった華僑も,南洋倉庫と台湾銀行を利用して,好循環が発生するとも見込んだ[南洋倉庫 1936b, 172]。こうして1921年1月,南洋商会,日蘭貿易,東印度貿易,照谷商会に加えて小商店が協同して,自社倉庫廃止と南洋倉庫利用を決定し,台湾銀行は加盟店に極度融通を保証した[神戸新聞 1921.1.25]。
1921年4月,経営責任を問われて河方専務が辞任し,台湾銀行秘書課長のまま取締役を兼任していた柳が専務に,新たな取締役に花野直之が就任して台北本店を担当し,堤林は引き続き南方を監督した。しかし,経済全般の不況と対南方貿易の不振は継続し,1921年度は入出庫1526トン1186万5000円/415トン1296万2000円,期末残高1110トン283万となり,前年度比約7割にとどまった。1921年度決算では,各種収入に総督府補助金5万円を加えた総益金58万4765円26銭に対し,各種支出の総損金43万9075円79銭となり,前期損失14万378円26銭の控除後,かろうじて5311円21銭の最終利益を計上した。もっとも内容を見ると,節減すべき借庫料は前年度比3.36パーセントしか減らず,人件費は横ばい,諸経費は同13.86パーセントも増加した。一方で,保管料・貨物取扱料・貸庫料・諸手数料など本業の収益は19万6895円34銭(前年度比109パーセント増)となったが,より貢献したのは利息18万1859円07銭(前年度比272.62パーセント)と雑収入20万6010円85銭(同76.27パーセント)であった。とくに雑収入中19万2000円は不動産評価益であった[南洋倉庫 1936d, 193]。すなわち,本業は成長しても経費が大きく減らないなか,財務操作の一時収益で黒字決算を出していた。
4. 業績低迷の要因1922年1月,柳と堤林が香港で,さらなる改善策を協議した。席上では,両者が業務拡大や料金改定のため海外で陣頭指揮にあたることに加え,社員の一致協力,台湾銀行や華南銀行との協力,下級職員への現地人採用,駐在員の現地語習得,支店収支の均衡義務を決定した[南洋倉庫 1936c, 176-178]。そのうえで業務展開を加速し,同月にはバタビアに人員を派遣して,5月に支店を開設した[南洋倉庫 1923br, 2]。1923年には花野を台北本店に残して,柳以下の全社員がシンガポールに移駐し,5月に営業本部を開設した[南洋倉庫 1924br, 2](注8)。
この後の数年間,南洋倉庫は設備を拡充させ,貨物の取扱いも拡大した。保有倉庫・借庫の合計は1920年6棟4233坪,1921年17棟4653坪,1922年18棟6214坪,1923年15棟5592坪,1924年15棟5292坪,1925年17棟5690坪と推移している。また,割高な借庫を減らす方針に沿い,1922年からは坪数ベースで,1924年からは棟数ベースでも,保有倉庫の比率が高くなっている。入出庫を金額ベースで見ると,1921年1186万5000円/1296万2000円,1922年2287万2000円/2021万7000円,1923年2550万4000円/2656万4000円,1924年3714万7000円/2933万7000円,1925年3361万1000円/3488万1000円と確実に増加した。1922年からは荷捌と海陸連絡運送も開始し,1921年8万2200個/13万6300個が1925年には121万7900個/152万4300個まで拡大した。
もっとも,業績は大きく改善しなかった。1922年度決算は,総益金56万6044円53円に対し総損金51万259円93銭となり,差引純益金5万5784円60銭に前期繰越金5311円21銭を加えた6万1095円81銭の最終利益を計上した。しかし,この黒字も不動産評価益1万5000円と総督府補助金5万円で実現していた。以降,1923年度は4941円40銭の最終損失,1924年度決算は5560円83銭の最終利益,1925年度決算は5279円19銭の最終利益となり,低迷は続いた。支出面では,保有倉庫の拡大で借庫料・借地料が減少または安定する一方で,借入金の利払いが増加している。見直し対象の人件費は横ばいで,その他営業費も20万円台にのせた後,1925年度には33万8585円15銭となった。収入面では,保管料・貨物取扱料・貸庫料・諸手数料など本業は1923年度35万8815円32銭,1924年度31万7561円14銭,1925年度52万467円93銭と軌道に乗り始めたが,利息収入と雑収入はほぼ横ばいであった。総じていえば,1921年度や1922年度の財務操作による特別利益計上という変則的経営は改善されたが,一方では高額の利払い,人件費,その他営業費などのコストを,本業利益の伸びが十分にカバーできていない。さらに,総督府補助金がなければ,毎年とも確実な赤字決算であり,脆弱な経営体質は継続していた。
この背景には,経営を取り巻く厳しい外部環境も影響した。1922~25年の営業報告書には「南支・南洋ハ引續ク財界ノ不況」[南洋倉庫 1923br, 2],「広東ニ於ケル政争ハ當期ヲ通シテ常ニ絶ユルコトナク」[南洋倉庫 1924br, 2],「四月勃發セル華人ノ排日運動」[南洋倉庫 1924br, 2],「新嘉坡ニ於テハ護謨價ハ生産原價ヲ割ラントシ市場沈衰目先暗澹」[南洋倉庫 1925br, 2],「為替相場ノ異常的變動ハ同地ノ輸出ヲ殆ド不可能ナラシメタリ」[南洋倉庫 1925br, 2],「爪哇ニ於ケル砂糖ノ不味ニヨル市場ノ沈滞ト旱魃ニヨル農作物ノ全滅ハ著シク市況ヲ鈍状不活発ナラシメタル」[南洋倉庫 1926br, 2]との表現が並ぶ。南洋倉庫の業務は,こうした景況や各種変動の外的要因に左右され,能動的な営業努力にも限界があった。
しかし,先述のように1925年度には入出庫と付帯業務が伸びを示し,財務的にも累積損失を一掃したことから,営業報告書には次の楽観的記述が見られる。
「要是本期ハ種々ノ不振原因アリタルニ不拘相當ナル成績ヲ擧ケ創業以來蒙レル不測ノ損害其他約三萬圓ヲ當期利益ヲ以テ一掃整理シ尚別表ニ示ス如ク若干ノ純益ヲ後期ニ繰越スコトトナリタルハ一面會社ノ傷痍ヲ除去シテソノ内容ヲ堅實ニシ將來ノ經營ヲ容易ナラシメシモノニシテ深ク欣幸トスル處ナリ」[南洋倉庫 1926br, 3]
だが,背後では別の問題が顕在化しており,南洋倉庫は再び整理案を進行させていた。
1926年2月25日,堤林は「當社整理ノ件」と題する一通の書簡を,台湾銀行の役員会宛に私案として送付している。冒頭には,以下のように記されている。
「今日ニ於テ,猶未ダ一回ノ配當ヲスラ為スニ至ラズ,外國株主ハ其ノ値段ノ如何ニ拘ハラズ一齊ニ賣却ヲ欲シ,臺北ニ於ケル株價ハ一株二圓ヲ唱フルニ至リ,會社ノ信用ハ全然失墜シ,今ヤ本社ノ存在ハ支那側關係者ノ無視シ去ラントスルノ實情ニ在リ,遺憾ニ堪ヘズ。(中略)支那側資本家ニ相應大ナル損失ヲ與ヘ居ル事實ハ,將來我國ガ南方ニ進展スル上ニ一ノ妨害トナリ居ルモノト云ハザルベカラズ。本會社ノ整理ヲ緊要トナス所以ハ又實ニ茲ニ在リトス。」[南洋倉庫 1936d, 192-193]
もっとも,1926年4月30日の株主名簿では,株主数133名(創業時130名)と分散しておらず,日本人42.76パーセント(21380株/46名,創業時35.7パーセント/17850株/35名),華人57.24パーセント(28620株/87名,創業時64.3パーセント/32150株/95名)となり,華人株主の減少比率は約7パーセントにすぎない。一方で当時,台湾銀行(4550株,創業当初より2100株増加)を抑え,「南洋鉱業」理事・総支配人の武藤貞雄(4700株)が筆頭株主に出現する(注9)。「南洋鉱業」は,南洋の鉄山王と称された新興実業家の石原廣一郎の旗艦企業であり,その関係者である武藤の株式買い占めと思しき動き,対抗するような台湾銀行の株式買い増しは,なんらかの緊張関係を生み出していたと同時に,後述のように数年後,石原が南洋倉庫を買収する伏線になったと思われる。したがって堤林の上記認識の裏には,創業趣旨である日系資本と華人系資本の提携による南進振興を維持しながらも,買い占めと思しき動きに対抗するためには,経営を立て直しつつ,早期の配当実施で華人株主の離反を防ぐ思惑があったとも考えられる。
現実問題として当時の南洋倉庫は,アジア各地での保有不動産の価格下落で含み損が発生し,再び財務に問題が生じていた。先述のように,南洋倉庫は1920年度の欠損を埋めるため,当時の保有不動産評価益を1921年度・1922年度に計上して欠損を解消しつつ,借庫から保有倉庫に切り替えてきた。このため1920~26年度の「地所建物及什器」推移を見ると,1920年度91万6611円42銭,1921年度106万9268円84銭,1922年度140万2299円38銭,1923年度141万3789円77銭,1924年度151万771円85銭,1925年度156万85円50銭と,増加の一途をたどっている。しかし期間中,景況悪化から各地の不動産価格は下落し,簿価と時価の乖離から大きな含み損が生じた。堤林は次のように記す。
「當時好況時代ノ餘勢未ダ衰ヘズ其實際價格ニ於テ多少ノ値上リアリテ若干評價益ヲ見ルベキ餘地幾分カ存セシコトハ事實ナルモ爾來數年連續セル不況ノ為ニ所有不動産ノ價格ハ急轉直下シテ(後略)」[南洋倉庫 1936d,195]
堤林と台湾銀行の調査では,土地は簿価57万3600円に対し時価42万5570円と約26パーセントの減価,建物は簿価85万8900円に対し時価60万1230円と約30パーセントの減価と見積もられ,含み損は40万5700円に上った[南洋倉庫 1936d, 200-201]。このため堤林は財務改善が必要と考え,さらに華人側を満足させる早期配当実現のため,整理案の実施を主張した。
この整理案は,①資本金500万円(払込済125万円)を資本金300万(払込済75万円)に減資,②経費の2割削減,③役員は常務1名のみで支店事務所は倉庫内に統合,④仏印ハイフォンの土地売却,⑤台湾銀行からの借入を返済,の5項目であった[南洋倉庫 1936d, 196-197]。堤林の目算では,減資分50万円で不動産評価損・什器・仮払金を償却し,そのうえで営業収益と総督府補助金の合計収入37万6800円に対し,経費と固定借入利息の合計支出28万1950円との差引余剰9万4850円が生じるため,これを配当(年5分)3万7500円,積立金7000円,損失補填準備金5000円,賞与金5000円,固定借入償還費4万350円に回すとしている[南洋倉庫 1936d, 197-8]。この結果,固定資産の含み損一掃,利払い負担減少と5年以内の負債償還,配当実施が可能とする。
この堤林私案に対し,台北本店の花野取締役は,1925年3月に辞任した柳専務に代わってシンガポール駐在となった染谷成章取締役(元外交官,初代駐バタビア領事),林獻堂総理,林熊徴取締役,顔國年取締役の意見を聴取した報告を,2月27日付で台湾銀行に送付した。この結論として,「弊社現在ノ實状ニ鑑ミ暫ク業態ノ推移ヲ見テ實行ノ可否ヲ決スル事トシ一時延期ヲ希望シタル次第ニ御座候」[南洋倉庫 1936e, 203]とする。理由として,堤林私案の意義は認めつつも,経費削減や業務伸長で3分配当は可能で,固定資産の減価償却による含み損解消も,将来の不動産価格上昇の可能性があり,他の方法も考えるべきとする[南洋倉庫 1936e, 206-207]。減資については,無配で損失を受けている株主にさらなる犠牲を強いて信頼関係が壊れ,将来の経営の障害になると指摘し[南洋倉庫 1936e, 205],台湾人役員も消極的であった[南洋倉庫 1936e, 207]。一方で染谷取締役は,具体案を承知しておらず意見を定めがたいと前置きしたうえ,定時株主総会も4月上旬に迫っており,一般的に減資は臨時株主総会に提案すべきとして,単純に延期を主張した[南洋倉庫 1936e, 205-206]。
結局,堤林私案は1926年4月の株主総会に提案されなかった。一方で同株主総会では,新たな専務取締役に台湾銀行バタビア支店長であった半田治三郎(注10)が選出され,5月に就任している。半田は現地事情を熟知した台湾銀行出身者であったが,1925年にはバタビア訪問中の石原に南洋倉庫再建を話題にしており(注11),これが石原の関心を引いた可能性,ひいては気脈を通じていた可能性も考えられ,中間的立場で経営を掌れる適任者であった。いずれにしても,半田の専務就任は既存路線の変化を意味し,同月に花野,7月に染谷が取締役を辞任して,経営陣が刷新されている。
2. 倉庫証券のジャワ銀行による公認半田は就任早々の1926年5月,堤林が担当してきた蘭印の業務を引き継ぐ[南洋倉庫 1936, 115](注12)。さらにシンガポール,ハイフォン,広東,台北を視察し,7月に中川顧問との「根本的打合せ」のため上京後,8月にバタビアに戻る[南洋倉庫 1936, 116]。以降も「出張」で台北本店に赴き,南洋倉庫の経営力点は明らかに蘭印にシフトしている。こうしたなか,まず半田が注力したのは,数年来の懸念事項である自社倉庫証券の通用拡大であった。
創業以来,南洋倉庫の倉庫証券は,おもな荷主である中小日系商社が金融逼迫のたびに「投賣ヲ行テ市價ヲ崩シ為メニ邦品ハ一般ニ危険視セラレ其取引ヲ嫌」[中央爪哇日本人貿易業組合 1924]われて外国銀行から相手にされず,親密なはずの台湾銀行や華南銀行からも優遇を得られなかった。1921年には台湾銀行が極度融通を保証したが,実際には同行自体が反動恐慌による資金繰り悪化に日々年々悩まされ,南方で積極展開ができない状態であった。また,本来は共通する人脈・資本をもって連動して創業され,現地金融を担当するべき華南銀行は,1921年に大蔵省特別検査を受けて「不良貸ノ整理ヲ為スト共ニ消極的営業方針ヲ採ルノ止ムヲ得サル」[華南銀行 1930, 9]という状態に陥っており,倉庫証券担保の融通は拡大しないうえ,他になんらの実効的提携も実現しなかった。この状況は,台湾銀行の経営悪化と南進姿勢の変化から,1924年になっても同様で,同年9月の中央爪哇日本人貿易業組合から駐バタビア井田守三総領事への陳情書には,次のように記されている。
「南洋ノ事情ニ精通スル台銀ガ元ヨリ無下ニ方針ヲ変更シテ自己ノ産ミタル國家的最愛ノ●(筆者注:判読不明)子ヲ放棄スルガ如キ不明ハ万々ナキヲ信スルノミナラズ現ニ従來ノ機能ヲシテ関係アル華南銀行ニ代行セシメントノ意圖アリ華南銀行モ其点既ニ考慮シツ丶アリト雖何分仝行ハ設立ノ年處浅ク資金甚タ不十分ニシテ店舗モスマラン一ヶ所ニ止リ未タ其代用ヲ完フスル克ハザルヲ以テ此際仝行ヲシテ代行セシムルニ足ル資金ヲ充実セシムルカ又ハ他ニ適當ノ方法ヲ得ル迄臺銀方針変更ノ延期ヲ求ムルノ外ナク(後略)」[中央爪哇日本人貿易業組合 1924]
したがって問題解決には,倉庫証券が蘭印の中央銀行であるジャワ銀行の公認を得て,他の外国銀行から受け入れられる必要があった。実際,創業間もない1920年には,南洋倉庫スマラン支店がジャワ銀行に倉庫証券公認を求めたが,券面記載事項に不備があるとして却下された[南洋倉庫 1923a]。このため,南洋倉庫はオランダ系倉庫会社の券面を研究して改善し,1921年2月に再び公認を要請したが,回答を引き延ばされた[南洋倉庫 1923a]。1922年8・9月にも,原糖保管・荷捌に関連して顧客から倉庫証券による融通要請を受けた台湾銀行が,ジャワ銀行に公認を求めたが却下されている[南洋倉庫 1923]。この背景について,南洋倉庫は「和蘭系統倉庫會社地盤ガ外國倉社ニ蚕食セラルヽ杞憂セシ和蘭系統會社ガ當社ヲ嫉視シテ壓迫セントスル運動ノ結果ニアラスヤト思ハル」[南洋倉庫 1923a]としている。そこで1923年1月16日,堤林は日本銀行の井上準之助総裁に以下の請願をおこなった。
「倉庫ハ殊ニ必要機關ニテ邦人ノ貿易實情ニ於テ必須ノ要求ニ出テタルモノニ候然リト雖モ現在ノ如ク金融ノ伴ハサルニ於テハ此等折角ノ施設モ何等ノ効用ヲ發揮スルコトヲ得サル次第ナレハ此際之レカ事情ノ了解ヲ爪哇銀行ニ求メ同時ニ其倉庫證券ノ公認ヲ得テ従來彼地一般ノ倉庫業者ト同様ノ便宜ヲ受ケ各自ノ關係銀行ヲ通シテ再割引ノ途ヲ開キ低利ノ資金ヲ得以テ現在ノ缺陥ヲ補フ事最大急務ト存候
然ラサレハ現在ノ如ク島内金融ノ機關ヲ缺如セル日本人トシテハ到底圓満有利ナル取引ノ發達ヲ期シ難ク此ノ點甚タ遺憾トスル所ナルヲ以テ今後日爪貿易ノ發達ノ為メ這邊ノ事情十分爪哇銀行ノ了解ヲ求メラレル様特ニ有力ナル總裁閣下ノ御助力ヲ仰キ度存候」[南洋倉庫 1923b]
この請願には外務省通商局も調整に動き,バタビアでは松本幹之亮総領事,鷲尾横浜正金銀行バタビア支店長,そして当時の台湾銀行バタビア支店長であった半田が尽力した。この結果,1923年6月にはジャワ銀行のゼーリンガ総裁(Ede Abraham Zeilinga)から,台湾銀行あるいは横浜正金銀行を経由した倉庫証券は500万ギルダーを上限に公認する内諾を得たが,この後に同総裁が更迭されて白紙に戻る[南洋倉庫 1936f, 211]。
1924年には,スラバヤとスマランで新倉庫が完成し,顧客が倉庫証券を担保にジャワ銀行から資金融通を試みたが,同行スラバヤ支店は本店指示で受け入れを拒絶した[南洋倉庫 1936f, 211-212]。同年8月,ジャワ銀行のトリップ新総裁(Leonardus Jacobus Anthonius Trip)との交渉では①本店が台北で最高幹部がジャワにおらず,オランダ法準拠の現地法人設置の必要がある,②前総裁との合意は引き継いでおらず,台湾銀行と横浜正金銀行が同時保証すれば,倉庫証券ではなく両行の二重保証案件として融通する,との返答を得た[南洋倉庫 1936f, 212]。しかし,当時の南洋倉庫には受け入れ難く,交渉は頓挫した。
以上の経緯を経て,1926年5月に就任早々の半田が旧知のトリップ総裁に挨拶に赴いた際,公認化に便宜を計るとの発言があった[南洋倉庫 1936f, 212-213]。当時の南洋倉庫は,後述のスラバヤでの大倉庫建設を計画しており,事業拡大にも倉庫証券公認化は必須であった。このため交渉は加速し,半田は1927年1月4日に井田総領事にも支援を要請する。このなかで半田は「仝氏(筆者注:トリップ)ハ好意ヲ有セラルヽトモ和蘭倉庫ヨリ相當中傷モ可有之重役會ノ容易ナラザルコトモ想像ニ難カラズ」[南洋倉庫 1936f, 213]と記しつつ,券面や定款の修正,蘭印3支店を統合した現地法人化を検討している。
こうして1月27日,半田とジャワ銀行の合意が成立し,翌28日にジャワ銀行が「貴社が当行要求を満たした場合,原則として貴社発行の倉庫証券を承認する意向」[南洋倉庫 1936g, 215]と正式返答した。この要求とは①蘭印法準拠の株式会社を設置する,②保管貨物を担保に自己貸出せず,新会社資産には抵当権を設定しないと定款に明記する,③財務諸表を提出して必要に応じて説明する,の3項であった[南洋倉庫 1936g, 216]。これを受け,南洋倉庫は現地法人設立を4月の株主総会で提案するため調整し,3月8日には台湾銀行の久宗董理事に最終説明と了解を求める書簡を送付した[南洋倉庫 1936i, 221-223]。
この結果,4月16日の株主総会で(イ)當會社ノ東印度ニ於ケル業務ハ東印度法律ニヨル株式會社南洋倉庫ヲシテ行ハシムルコトヲ得,(ロ)當社爪哇店其他ヲ以テ東印度法律ニヨル資本金五十萬盾ノ會社設立ノ件,が承認され[南洋倉庫 1928br, 1],5月1日に最終回答をジャワ銀行に送付した。これを受けて6月3日にジャワ銀行は,南洋倉庫の倉庫証券を公認する声明を発表した。並行して,南洋倉庫は8月23日に全額出資の現地法人「南洋フェーム」の設立許可を蘭印総督に提出し,12月15日に設立,1928年1月1日から営業を開始した[南洋倉庫 1936, 117-118]。南洋フェームは,専務に半田が就任し,監査役には台湾銀行バタビア支店長の名倉喜作,ジャワ銀行監督課長のミケルセン(K.W.J.Michielsen)が就任した[南洋倉庫 1936, 118]。これを受けて,1927年度の営業報告は次のように記す。
「當社年來ノ宿望タル爪銀ノ當社證券公認問題ハ専意折衝ノ結果遂ニ同行公認ノ條件タル東印度會社新設ノ解決ニヨリ七月ニ至リ愈々公認實現ノ事トナリ當社ノ前途ニ一大光明ヲ得タルノ感アリ續イテ當地屈指ノエスコムプト銀行其他主要外國銀行ニ於テモ亦當社證券ヲ受諾スルニ至リ爪哇ニ於ケル當社砂糖取扱範囲ハ著シク擴張サレ従來ニ例ヲ見ザル支那商ニ迄及ブニ至リ取扱高果然激増ヲ來セリ(中略)證券公認實現ヲ畫シ本邦銀行ハ勿論三井物産,三菱商事等ノ如キ爪哇銀行ト直接關係アル向ノ砂糖保管ニ付當社利用ノ事トナリ貨物輻輳ニ伴ヒ新規借庫ヲ以テ之ニ充テタルモ尚ホ不足ヲ告グルノ盛況ヲ呈シ前年ニ倍加ノ入庫高ヲミタリ。」[南洋倉庫 1928br, 3-4]
以上からは,倉庫証券の通用開始によって,営業が拡大しはじめた様子がうかがえる。
3. スラバヤ岸壁倉庫の建設半田専務が就任以降,もうひとつ注力した件が,ジャワ島東部に位置する蘭印最大の貿易港スラバヤでの新しい大倉庫,通称「岸壁倉庫」の建設であった。
スラバヤは砂糖輸出の主要集積港かつ日本製品の重要輸入窓口でもあり,大阪商船が月2回,南洋郵船が3週1回,山下汽船や三井汽船の不定期船も寄港していた[南洋倉庫 1926]。従来,スラバヤでは外港に貨物船が停泊し,貨物は艀で運ばれ,市街から港に伸びるカリマス運河の河岸倉庫に収納された。1920年には河口を浚渫し,巨大な岸壁,突堤,鉄道線を備えた新港が完成したが,貨物船の横付け可能な岸壁倉庫の収容力は約30万トンと低かった。このため,多くは不便なうえに艀代のかかる河岸倉庫を利用せざるをえなかった。
南洋倉庫も河岸倉庫を有したが,面積は約3000平米にすぎなかった[南洋倉庫 1926]。このため拡大策として,貿易増大が見込めるスラバヤで,利便性の優れた新港内ゼノア岸壁の敷地約1万4000平米を蘭印政府から25年契約で賃借し,鉄筋コンクリート造1万2800平米の大倉庫を建設する計画が出た。これは,直近1925年12月末時点の保有倉庫・借庫合計が約1万8800平米(5690坪)であったことを考えれば,収容能力を約7割増加させる野心的内容であった。具体案は1926年5月に完成し,その意義は次のように記されている。
「今後益々本邦貿易ノ發展ヲ期スルニ於テハ此際新港内岸壁ニ残サレタル唯一ノ餘地ヲ東印度政府ヨリ借受ケ岸壁ニ倉庫ヲ建設シ此優先條件ヲ以テ本邦商社取扱商品ノ保管積卸ハ勿論本邦船會社代理店又ハ荷捌ヲ引受クルコトハ即本邦自身ノ門戸ヲ開設スル次第ニテ本邦商權擴張上甚タ緊要ト信スル」[南洋倉庫 1926]
半田は同計画に公的支援を得るべく,駐バタビアの井田総領事とも連携し,井田は5月に本省と台湾総督府に説明文と賛成意見書を提出し,8月には齋藤良衞通商局長の回覧を経て,実業界に意見聴取がおこなわれた[南洋倉庫 1936, 116](注13)。ただし,最大の問題は建設資金であった。蘭印政府への借地料は年間7万3500ギルダー,建設費は30万ギルダーと見積もられ,収益予測は1926年度5万5140ギルダーの赤字,1927年度1万3020ギルダーの赤字,1928年度は最低2万8420ギルダーから最高12万6980ギルダーの利益とされたが[南洋倉庫 1926],実際は景況次第で不確実であった。このため半田は7月に,台湾総督府殖産局商工課の横光課長に私信で計画を説明し,以下のように資金援助を要請した。
「何分廿五萬圓ノ建築資金捻出ノ大難事ト二十年間東印度政府ニ對スル毎年七万三千五百盾(約六万圓)ノ借地料ノ確定支出取極メハ一大負擔ニ有之假令建設後ノ成績良好ナル事明確ナカラ弊社ノ現状トシテ躊躇セサルヲ得サル次第ニ御座候
サレハトテ斯ル好機會ヲ外サハ永久ニ本邦對南貿易發展上ノ恨事ト相成ル●(筆者注:判読不明)ニテ弊社ノ使命上此際決行ノ任ニ當リ度ク」[南洋倉庫 1926]
一方で,南洋倉庫は別の難題に直面する。オランダ系倉庫が日系商社・海運会社に有利な条件を提示し,完成後の顧客に期待した三菱商事は契約を見送ったうえ,三井物産は自社倉庫の経営を考え始めていた[南洋倉庫 1936h, 219]。加えて,当時はジャワ銀行の倉庫証券公認を得ておらず,台湾銀行や横浜正金銀行も繁忙期は融通を確約できないと通告したため[南洋倉庫 1936h, 219],倉庫証券の公認交渉が優先され,岸壁倉庫建設は遅延した。1927年2月9日付の林総理から台湾総督府殖産局片山三郎局長宛書簡は,次のように記す。
「此上ハ臺灣銀行始メ大株主ノ内意ヲ確メ東印度會社設立ノ方針ニ向フ外無之次第ニ有之愈々爪銀ニ對シ同行希望條件實行聲明ノ事ト相成候ハヾ臺灣銀行,正金銀行其他本邦銀行ノ援助モ撤底可致其上邦商側ノ利用契約ニ努メ大體確實ト相成候ハヾ豫定通リ直ニ岸壁倉庫ノ借入ニ進ムコトヽシ(後略)」[南洋倉庫 1936h, 220]。
倉庫証券の公認化に目途がつき始めると,南洋倉庫は4月18日に台湾総督府に対して既存補助金に加え岸壁倉庫への補助金を申請し,資金調達にも目途をつけた。11月2日には蘭印当局に借地願書を提出し,12月1日に借地仮契約を締結のうえ,17日に建築契約をしている[南洋倉庫 1928, 11]。22日には台湾総督府から1927年度補助金5万5000円が交付され,内2万円は岸壁倉庫の経費とする用途指定があった[南洋倉庫 1936, 118]。しかし,オランダ系資本の妨害は続き,1928年2月には「ジャワ・チャイナ・ジャパン・ライン」(JCJL)が用地の借地優先権を主張した[南洋倉庫 1928, 12]。南洋倉庫は外交ルートでの抗議などで巻き返しを図り,3月初旬には蘭印総督が「スラバヤ港は列國の為めに開放せるものなり」[南洋倉庫 1928, 13]と声明し,借地契約の有効確認を受けて3月19日に着工した。
こうして苦難の末,スラバヤ岸壁倉庫は1928年7月14日に落成し,盛大な披露宴を開催した。完成した岸壁倉庫の様相を,当時の新聞報道は次のように伝えている。
「この擧は東印度の經濟界に一大センセイシヨンを惹起し近來長足の進境にある(中略)同倉庫の地位の絶佳であるのと設備の完備収容量の絶大なる内容に對しては内外人の驚嘆しつゝある所で建築全く成らざるに早くも砂糖取引が殺到するの盛況を呈したものである(中略)スラバヤの商業地玄關を日本の手に入れた感があつて將來に向つて最も力強い事である」[台湾日日新報 1929.4.23]
南洋倉庫の営業報告書も,1928年度の岸壁倉庫について次のように記している。
「建築中ノ岸壁倉庫ハ完成ヲ見愈々本年糖ヨリ取扱ヲ開始シタル等新規企畫何レモ實現シタルヲ以テ面目一新正ニ飛躍ノ機運ニ立到レリ(中略)岸壁倉庫利用ニ全力ヲ注ギ邦商ハ勿論,歐商,印度商ノ砂糖ヲモ勧誘シ創業匇々而モ商況不振ノ中ニモ拘ハラズ取扱量激増ヲ示セリ」[南洋倉庫 1929br, 3]
しかし,上記内容とは裏腹に,スラバヤ岸壁倉庫は早くも困難に直面した。1928年11月,南洋倉庫が駐スラバヤの姉齒準平領事宛に作成した報告書は,次のように記す。
「全社擧ツテ此レガ活用ニ全力ヲ傾注シ現在創業匇々ナルニモ拘ハラズ砂糖雑物産ノ取扱盛況ヲ極メ居レルハ欣快ニ堪ヘズ然レ共仝倉庫ノ完全ナル利用ニハ尚未ダ満足スベカラザルモノアリ」[南洋倉庫 1928, 47]
姉齒領事は,1929年2月2日付の外務大臣と台湾総督府総務長官に宛てた報告書で,「岸壁倉庫維持カ豫期ニ反シ経營困難ヲ感ジ居ル趣申出ノ次第ナリタル」[外務省1929]と記している。南洋倉庫は打開策として,「大阪商船」と「南洋郵船」の代理店となって集荷・付帯業務を拡大することを目指したが[南洋倉庫 1928b, 45],交渉は不成功に終わる[外務省1929]。1929年度は「岸壁倉庫ハ創業後一箇年ノ準備ト經驗トヲ積ミ周到ノ注意ヲ以テ収貨ニ力メ確實ナル進展振リヲ見セ砂糖時期中満庫ノ盛況ヲ續ケ」[南洋倉庫 1930br, 3]とあるが,実際は「一般市場不況ノ為荷動キ停滞シ特ニ砂糖ニモ多大ノ滞貨ヲ生ジ當社モ殆ンド満庫ノ在庫ヲ擁シ乍ラ翌年ニ持越スモノ多キ有様ニテ貨物取扱業務ニ於テハ豫期ノ成績ヲ擧グルヲ得ザリキ」[南洋倉庫 1930br, 3]という状態で,積極的な拡大ではなかった。
4. 1920年代後半の経営実態南洋倉庫は,創業以来の懸念である蘭印の倉庫証券公認問題,さらには積極策としてのスラバヤ岸壁倉庫建設を成し遂げた。しかし,同時期の外部環境は,1929年の営業報告書に「數年來引續ク各地商況ノ萎微不振ハ依然展開ヲ見ルニ至ラズ當社營業線各地ニ亘ル日貨抵制ハ日支問題漸次解決ニ伴ヒ表面終熄シタルガ如キモ裏面ニハ未ダ暗流アリ」[南洋倉庫 1930br, 2]と記されているように不安定であり,経営も順調とは言い難かった。
地域別に見ると,広東は政治情勢が安定せず,頻発する日貨排斥もあり,商況は不振をきわめた。こうしたなか,1927年には華商との寄託品をめぐる紛争を解決し,不利な条件の租界外借庫を解約するなど,経営改善に努めている[南洋倉庫 1928br, 3]。シンガポールでは,主力輸出品であるゴムの価格が好転せず,購買力低下や日貨排斥もあって不況が継続し,経費削減と華商への営業を積極化している[南洋倉庫 1928br, 3-4]。蘭印では,砂糖やゴムなど一次産品価格の下落と輸出不振があり,一般消費も振わないうえに,日貨排斥から雑貨輸入が停滞した[南洋倉庫 1929br, 2]。このため経営資源を集中し,1927年からは倉庫証券公認で信用も強化され,砂糖,ゴム,タピオカなど輸出産品の取扱いが増加したものの,実際は滞貨分も含まれるなど,積極的拡大ばかりではなかった。
以上の業況と経営のなか,保有倉庫・借庫の合計推移は,1926年21棟9626坪,1927年21棟8183坪,1928年26棟1万578坪,1929年27棟1万1735坪と拡大する。入出庫取扱は個数ベースでは一貫して増加したが,金額ベースでは1926年2700万円/1750万円,1927年2085万円/2026万円,1928年2175万5000円/2363万4000円となり,1929年は4275万2000円/3783万7000円を記録したが,基本的には低迷した。一方で,荷捌・海陸連絡運送は,1926年191万1000個/257万2000個,1927年156万3000個/159万5000個,1928年212万7000個/199万2000個と曲折を経て増加したが,1929年は63万4000個/133万6000個に低迷した。1926年に開始した通関業務も,1926年15万1000個,1927年25万6000個,1928年26万個,1929年22万9000個と伸びが止まっている。
財務的には1926年度決算で3410円35銭,1927年度決算で6324円,1928年度決算で2283円4銭とわずかな利益を計上したが,1929年度決算は1万9287円68銭を損失計上した。支出は1928年からスラバヤ岸壁倉庫の借地料が固定的かつ急激に増加し,人件費やその他営業費も1925年33万8585円15銭のピークからは低下したが,23~26万円台で固定的に推移した。一方で収入は,保管料・貨物取扱料・貸庫料・諸手数料など本業が1926年60万1169円80銭,1927年53万650円88銭,1928年59万5596円54銭,1929年63万471円76銭と増加傾向で推移した。ただし,台湾総督府補助金は継続し,1926年3万5000円,1927年5万5000円,1928年3万1800円が雑収入に繰入れられた。しかし,1929年分交付が翌年にずれて同年度決算が大幅赤字となったように(注14),実質は赤字であった。
貸借対照表を見ると,貸方は1927年度20万円と1929年度5万円の未済資本金の繰入れがある。1927年度は1万6株の未払込失権株の一部を充当した減資であった[台湾銀行 1928]。半田が台湾銀行に示した目論見では,減資で実質累積損失や仮払金・立替金を償却し,配当を促進するとあるが,実際はスラバヤ岸壁倉庫関連の支出に備えたバランスシート調整と思われる。一方で借方は,借入金が1926年48万8348円,1927年51万2639円72銭,1928年59万6871円57銭と増え,1929年も57万9235円88銭と高水準である。
総じていえば,外部環境の困難継続のなか,倉庫証券公認化やスラバヤ岸壁倉庫建設など蘭印での経営注力で再建を目指したが,岸壁倉庫は不首尾に推移し,固定経費や借入金も増大した。また,台湾総督府の補助金に依存し,かろうじて最終利益を出す脆弱な収益体質も継続していた。
こうしたなかで,華僑と提携して台湾から南支・南洋の市場圏を目指すという創業時の経営方向性は,実効的・具体的に実ることのないまま変容し,台湾銀行,台湾総督府,華僑にとって,南洋倉庫の意義は薄れていったと考えられる。たとえば,創業時大株主の郭河東公司と郭博愛は,1928年1月に堤林數衞に全株売却を委託し[郭博愛 1928],同年3月には堤林が取締役を辞任している。一方で半田は,1929年に次の展開に動いた。それは南洋倉庫を,石原産業海運の直接傘下に入れるという,経営体制の抜本的転換であった。
1929年5~10月,半田専務は日本に帰国した。目的は南洋倉庫の整理と新展開を,石原産業海運と協議するためであった。創業者の石原廣一郎は,立命館の前身である京都法政大学に学んだ。その創設者で後に台湾銀行頭取となる中川小十郎の後援で,マラヤの鉄鉱山を拓いて成功した当時39歳の新興実業家であった。すでに石原は,1925年辺りから南洋倉庫になんらかの関心を抱いて行動していたと考えられるが,動きがより具体化した契機は,鉄鉱石の自社輸送から始まった海運事業の本格拡大であった。石原は次のように記す。
「この自家用船と南洋倉庫を結びつけたらどうかと考えた。南方の鉄鉱石を日本に運ぶときは原料品であるから船腹を要するが,商品を日本から南方に輸出するときは,加工品だけに大きな船腹はいらない。往航の船は空船の場合が多いのだから,この船腹を利用すれば,南方貿易増進の道が開け,南洋倉庫の活路も開かれるのではないかと考えたのである。」[石原 1970, 107]
1929年には既存3隻に加えて4隻を一挙に購入しており,この拡大と結びつけて南洋倉庫の状況を打開するという点で,両社の利害は一致した。加えて,石原には恩人の中川への想いもあったとする。石原は次のように記す。
「この事業は,中川先生に関係のある事業であり,先生がかねてから理想とされている“金融と倉庫の活用による日本と南方の貿易の発展”構想の一環をなす立派な事業で,常に日本人と華僑の親善に立脚して推進されてきたものである。その会社が行き詰ることはいろいろの意味で損失が大きいから,この更生にはぜひ協力しなければならないと考え,責任をもって同社を再建する決意を固めたのであった。」[石原 1970, 106]
しかし,これに対して大株主で最大債権者の台湾銀行は,融資返済問題を理由に反対姿勢を取り,1930年1月5日には常任検査員をバタビアに派遣するなど[南洋倉庫 1936, 121],牽制を強めた(注15)。そして「整理並に經營問題に付き當社の經營當事者と臺灣銀行との間に意見の相違甚だし」[南洋倉庫 1936, 121-122]となり,3月22日に南洋倉庫はバタビアでの幹部会議の結果,台湾総督府官房調査課長の原口竹次郎に台湾銀行との仲介を依頼した[南洋倉庫 1936, 121122]。もはや台湾総督府では,約10年も官費補助金を投入しても業績の改善しない南洋倉庫に苦慮しており[井東 1939, 167],原口は半田と石原の提案に賛成した。
半田は3~5月に台北と神戸で石原と折衝を重ね(注16),その間に原口は井上準之助大蔵大臣を動かした結果(注17),8月15日には石原産業海運が台湾銀行に,南洋倉庫の大部分の債務を保証する案が成立し(注18),8月26日には台北で正式合意が交わされた[南洋倉庫 1936, 124]。石原は台湾で総理の林獻堂に挨拶し[南洋倉庫 1936, 125],一方で,南洋倉庫は9月上旬に役員会を開き,債務返済の方法,資本金500万円の50万円への減資,額面100円・払込済30円の株式5株を額面50円・満額払込済の株式1株とする株式合併,減資後の優先株(5分配当)30万円分6000株の発行,石原の顧問就任を決議した[南洋倉庫 1936, 125-126]。
11月29日,台北で臨時株主総会が開催され,半田は一連の再建策を「當會社財産ヲ實質的價値ニ引下ゲ尚債務ニ對スル巨額ノ金利問題ヲ解決シテ經費加重ノ禍根ヲ一掃シ更ニ収益ノ根源ヲナス新規施設ヲナシ業務発展ニ資スル(後略)」[南洋倉庫 1936j, 234]と説明した。そして,上記事項や定款変更を承認した後,新役員を選出した。総理は引き続き林獻堂(台北在住)が務めるが,副総理には石原末弟の高田儀三郎(神戸在住)が就任し,半田(ジャワ在住)は筆頭常務に,その補佐に石原産業海運から梅垣長二(ジャワ在住)と仁田利助(台北在住)が就任した。取締役には林熊徴,顔國年,竹藤峰治に加えて石原次弟の石原新三郎が就任し,監査役には後宮信太郎,玉置仁知,有馬彦吉に加えて鹽山恭夫と許丙(板橋林家大番頭)が就任し,新たな経営体制が整った。
1931年4月15日,優先株6000株30万円の払込みが完了し,発行済株式総数1万6000株,株主数135名となる。1932年4月9日付の株主名簿では,筆頭株主は石原合名8554株(53.46パーセント),第2位は華南銀行1400株(8.75パーセント),第3位は板橋林家資産管理会社の大永興業400株(2.5パーセント),第4位はジャワ在住の大槻壽美夫なる人物で260株(1.63パーセント)となる。また,創業時の株主である三井物産と山下合名も各200株(各1.25パーセント)を保有し続けている。しかし,日本人株主と華人株主の持株比率は86.24パーセント(1万3798株/96名,創業時35.7パーセント/35名)対13.76パーセント(2202株/39名,創業時64.3パーセント/95名)となり,日系資本と華人系資本の合弁・提携を目指した姿は,もはや失われている。
2. 石原によるジャワ航路参入の摩擦と余波石原傘下に入った南洋倉庫は,同社のジャワ航路参入に沿った提携を実施するが,それによって以降数年間,ジャワ航路をめぐる国際経済摩擦の渦中におかれ,その余波を被る。
1931年2月10日,南洋倉庫と石原産業海運は船舶代理店契約を結び,3月10日にスラバヤ岸壁倉庫の増築開始,同月20日にマカッサル出張所の開設など[南洋倉庫 1936, 130],就航を迎える準備が進んだ。そして,3月末から4月には最初の船であるビクトリア丸が蘭印各地に寄港した[南洋倉庫 1936, 131]。しかし,石原産業海運の新規参入は,同航路に既得権益をもつJCJL,大阪商船,南洋郵船,日本郵船の運賃同盟には大問題となった。この同盟は1921年から継続しており,各社月2便に抑えたうえ,JCJL50パーセント・大阪商船30パーセント・南洋郵船20パーセント(郵船は休航中)の比率で市場を分け合っていた[石原 1970, 111]。これに対し,9000トン級6隻に加えて新造船2隻を投入し,運賃を2割引き下げる石原の構想は脅威であった。このため,同盟側は南洋倉庫の一部利用などを提示して石原側を懐柔した[大阪毎日新聞 1931.2.17]が失敗し(注19),熾烈な競争が始まった。双方は相次ぐ運賃値下げに加え,集貨の妨害,高速船の投入などを繰り広げたが,競争の影響は南洋倉庫にも波及した。
早くも3月後半,同盟側は南洋倉庫の圧迫を目的に,蘭印での荷捌・海陸連絡運送の費用を大幅に引き下げると[大阪毎日新聞 1931.3.27],南洋倉庫もほぼ無料に引き下げ,さらに同盟側が保管料を無料化して[大阪毎日新聞 1931.5.12],激しい競争を展開した。この一連の値下げから荷動きは活発化し,1931年度の年間総入庫量/出庫量は222万9000個/241万9000個と,前年度の同219万3000個/235万3000個から増加したが,保管料・貨物取扱料・諸手数料の合計は11万5340円92銭と,前年度の70万1729円78銭から大幅減となる。この影響で同年度の総益金は16万9683円86銭(前期78万5031円25銭)と急減する。1931年度の営業報告書は「爪哇物産就中砂糖ノ不況深刻ナリシ為メ例年此レガ大量取扱ニヨリ利益計上ヲ見ツ丶アリシ,スマラン,スラバヤノ如キ業績不振ヲ來シタル」[南洋倉庫 1932br,7]と説明するが,石原対同盟の競争に巻き込まれたのが実情と考えられる。
しかし,この対立を日本側3社間で収束させた後,JCJLとの交渉で安定化を図ろうとする逓信省の思惑で,1932年7月には調停が具体化し,8月26日に3社間合意,9月26日にJCJLを含めた新運賃協定(翌年1月発効)が成立した。これに伴い,南洋倉庫は10月に大阪商船の代理店となる余沢を受けた[南洋倉庫 1933br, 17]。さらに,日本の金輸出解禁による円為替急落で,日本の対蘭印輸出は1931年6350万円から1932年1億30万円,1933年1億5750万円と急増した。このため1932年度下半期には「荷扱ハ急ニ多忙ヲ極メ遂ニ拾四萬壹千餘盾ノ利益ヲ擧ゲ業績上ノ一大轉機ヲ招來」[南洋倉庫 1933br, 16]したことを受け,1933年にスマランで新倉庫を建設し,プロボリンゴとバツスルアンに出張所を開設した[南洋倉庫 1934br, 2]。外部環境の改善,輸入増,競争緩和もあって保管料・貨物取扱料・諸手数料の合計は上昇し,1932年度は南洋倉庫9万8703円48銭/南洋フェーム104万6140ギルダー95セント,1933年度は同28万242円80銭/133万519ギルダー31セントとなる。
好転に水を差したのが,1933年後半から始まった蘭印政府の対日輸入制限や邦商営業制限と,通商摩擦の外交問題化であった。同年6月のセメント輸入制限を皮切りに,9月には56種目の緊急輸入制限が発動され,物流でも自国貨自国船主義が強まった。このため運賃協定も不安定化し,拘束性の高い運賃プール制導入も議論されたが,蘭印政府はジャワ沿岸航路への接続問題と絡めて,海運問題を通商交渉の焦点のひとつにしようとした。こうして政治的思惑も絡み,日本側海運4社とJCJLの対立が鮮明化するなか,1934年には日蘭会商の具体化と共に海運問題交渉も活発化し,同年12月には政府間の日蘭会商が決裂する一方で,翌年に両国海運業者間の民間海運会商が開催されることとなった。環境激変を受け,南洋倉庫は「収益ノ根幹ヲナス貨物ノ陸揚,通關,荷捌,保管何レモ減退シ特ニ輸出品荷扱ニ付キテハ他同業者トノ競走上極度ニ料率引下ノ已ムナキニ至リ全般的ニ収益ノ低下ヲ來シタリ」[南洋倉庫 1935br, 17]となった。1934年度の南洋フェームの年間総入庫量/出庫量は84万1396個/75万6986個で,前年度138万6185個/122万9003個から大幅減少し,保管料・貨物取扱料・諸手数料の合計も99万8418ギルダー83セントまで低下した。
1935年1月,蘭印政府が輸入制限を再発動して圧力をかけるなか,神戸で民間海運会商が始まるが,3月に決裂して運賃協定は瓦解する。これを受けて4月,日本側が共同受注を開始してJCJLとの競争が激化し,運賃は協定率から3割下落した[神戸又新日報 1932.5.2]。5月には廣田外相とハルト蘭印経済長官の会談で会商再開の機運が高まるが,海運問題の解決が前提条件となる。このため6月,日本側は4社のジャワ航路を統合した「南洋海運」設立で官民一致の対応を図り,7月6日に正式発表した。これを受け,南洋倉庫は蘭印主要6港で代理店業務を受託したが,「日蘭會商不成立ニ伴ヒ邦商ノ取引邦船ノ積荷ハ激減シ従テ南洋フェームハ之レガ影響ヲ受ケ業績ノ低下ヲ見ルニ至リタル」[南洋倉庫 1936br, 4]との状況は変化せず,南洋フェームの1935年度における保管料・貨物取扱料・諸手数料の合計は81万4357ギルダー6セントと低迷する。さらに12月19日,政府と南洋海運の対蘭妥協姿勢に不満をもつ石原が南洋海運から脱退を表明し,1936年3月25日には中川小十郎を代表に据えた新会社「南洋航路」の設立を発表した。このため南洋倉庫は,オランダ側に加えて南洋海運を敵に回し,南洋フェームの業績は不振に陥る[南洋倉庫 1937br, 3]。
しかし,政府の「航路統制法」制定(5月)で石原の南洋航路は中断に追い込まれたうえ,6月8日に南洋海運とJCJLの海運協定が成立して,数年にわたるジャワ航路の摩擦は終息に向った。加えて,9月にはオランダの金輸出禁止による為替変動が蘭印の輸出を促進し,再開した日蘭会商も1937年4月9日の石沢・ハルト協定(日蘭通商仮協定)で妥結した。これにより日本の対蘭印輸出/輸入は,1935年1億4300万円/7820万円から1936年1億3950万円/1億1350万円,1937年2億10万円/1億5350万円と大きく伸びた。同時に,南洋フェームの業績も上向きに転じ,保管料・貨物取扱料・諸手数料の合計は1936年100万4725ギルダー10セント,1937年140万6261ギルダー89セントと順調に推移した。もっとも,1937年度下半期の南洋倉庫の営業報告書には,次の一文が記されている。
「本期業績ハ前期ニ引續キ好調ヲ豫想シタルモ期初北支事變勃發シテ支那事變擴大シ,此間在南華僑ノ邦品不買運動ハ時局ノ進展ニ隨ヒ愈々熾烈トナリ我對南輸出貿易ハ漸次衰退ノ趨勢ヲ辿レリ,又我戦時体制強化ニ依ル為替管理,輸入品抑制ノ為メ南方重要物産ノ本邦輸入量ハ頓ニ縮少セリ」[南洋倉庫 1938br, 3]
時代の趨勢は戦時に向かいつつあり,それは否が応でも南洋倉庫を呑み込んでいった。
3. 1932~37年度までの経営変化と財務・業績石原産業海運の傘下となり,ジャワ航路問題の動揺を受けた時期,南洋倉庫の全体的な財務・業績や経営には,どのような変化があったであろうか。
最大の変化は経営陣の構成である。1935年4月,名目上とはいえ創業以来の総理(1934年に社長と改称)を務めてきた林獻堂,取締役の林熊徴と顔國年,監査役の許丙など台湾系役員が退任して華人が皆無となる一方,高田が社長となった。また,1926年から経営を担ってきた半田も,1937年7月に辞職した。これは,もはや石原産業海運の傘下で,その方針に沿った経営のなか,旧体制の名残が自然消滅したものであった(注20)。ちなみに1938年9月22日付の株主名簿(合計株数1万6000株,株主数110名)を見ると,日本人株主と華人株主の持株比率は90.63パーセント(1万4500株/76名,創業時35.7パーセント/35名)対9.37パーセント(1500株/34名,創業時64.3パーセント/95名)で,引き続き華人株主の比率が低下している。筆頭株主は石原産業海運8941株(55.88パーセント),第2位は華南銀行1500株(9.37パーセント),第3位は岡野繁蔵なる人物で430株(2.69パーセント),第4位は板橋林家の大永興業400株(2.5パーセント)と続いている。
先述した蘭印以外の事業状況を見ると(注21),広東支店は石原産業海運の傘下に入った直後に閉鎖の方向で動いている。1931年7月19日には台湾総督府殖産局長宛に事情説明文を提出し,1924年度を除き開設から1935年度までの支店累積損失が14万3867元43亳に達しており,「遺憾乍ラ此處ニ同店ノ閉鎖ヲ實行シ以テ會社全體ノ成績好轉ニ資セントスルモノナリ」[南洋倉庫 1936k, 262]との意向を示している。7月29日には役員会で支店閉鎖を決議し,1932年1月に保有倉庫の一部賃貸,5月に支店閉鎖,6月に借庫解約,8月に日本海軍と広東市都ホテルへの保有倉庫の一部賃貸,10月に台湾銀行広東支店への保有倉庫管理委託をおこない[南洋倉庫 1936, 136-138],以降は賃料収入を得るにとどまっている。
シンガポール支店は,マラヤのゴム価格が世界恐慌で打撃を受けて低迷したが,1933年度からは「著シク好轉」[南洋倉庫 1934br, 3]した。以降は「石原産業海運株式會社ノ定期船増配ニヨル取扱貨物ノ増加ニヨリ豫想以上ノ好成績ヲ擧ゲタリ」(1934年度)[南洋倉庫 1935br, 3],「引續キ良好ナル成績ヲ擧ゲツ丶アルハ欣幸ノ至リナリ」(1935年度)[南洋倉庫 1936br, 3],「前期ニ引續キ良好ノ成績ヲ擧ゲ得タリ」(1936年度)[南洋倉庫 1937br, 3]との報告が続き,収益を下支えしていたと考えられる。しかし,1937年度下半期報告では,北支事変による華僑のボイコットと戦時体制強化による日本の南方産品輸入抑制から「取扱貨物ハ前期ヨリ各段ノ減少ヲ招キ」[南洋倉庫 1938br-1, 3]とあり,悪化に転じている。
地所・倉庫の合計を見ると,保有地所は1932~35年度まで約3000坪で推移したが,1936年度から約3万7000坪に急増した。しかし,保有倉庫は同時期に10~12棟・約7500~8000坪で推移しており,急増分は内地の土地と考えられる。また,1932~37年度までの借地は約7400~8100坪,借庫は13棟1996坪~13棟5319坪で推移している。
財務的に見れば,総資産規模は1932年度142万4334円03銭,1933年度173万9869円29銭,1934年度218万2159円32銭,1935年度241万717円61銭,1936年度255万4874円24銭,1937年度253万4498円14銭と拡大した。一方で,総益金/純益金は1932年度26万1455円93銭/4万4008円63銭,1933年度54万9341円91銭/12万3591円5銭,1934年度61万3222円66銭/17万5894円46銭,1935年度70万3619円49銭/5万6842円59銭,1936年度92万8104円89銭/15万3616円97銭,1937年度103万6281円18銭/20万4302円5銭となり,ジャワ航路問題や通商摩擦で主力の蘭印が不安定にもかかわらず,確実かつ大幅な黒字を出している。1932年度には創業以来初の配当(優先株5分・普通株3分)を出し,以降は1936年度まで5分配当,1937年度には1割配当を出した。もっとも,1932~36年度までは本業の保管料・貨物取扱料・諸手数料・貸庫料の伸び,南洋フェームの配当金に加え,為替差益が相当貢献した。その対総益金比率は1932年度38.26パーセント(10万39円84銭),1933年度26.91パーセント(14万7841円40銭),1934年度23.94パーセント(14万6788円3銭),1935年12.06パーセント(8万4879円54銭),1936年11.90パーセント(11万484円83銭)と,徐々に低下しているが一定の下支えとなっていた。なお,以前は黒字化に貢献した台湾総督府補助金は1930年度を最後に交付されず,1931年度には拓務省から「スラバヤ岸壁倉庫擴張に要する倉庫及び附属事務所建築助成の為」[南洋倉庫 1936, 134]として2万円の補助金が交付されたが,これも以降は交付されていない。しかし,上記業績を見るかぎり補助金は不要となっており,これに対する依存体質からは完全に脱却していた。
総じていえば経済不況,通商摩擦,国際関係の緊張,ジャワ航路問題など外部環境の波乱にもかかわらず業績は好調で,石原による会社再建は一定以上の成功をおさめていた。ただし役員・株主構成が示すように,かつて同社の特色であった華人や台湾との関係性は消滅してゆき,日本と南方を直接的に結んだ石原系事業との一体化が明確に進んでいる。
4. 戦時体制下から終焉へ1938年から1939年,日中間や欧州での戦争拡大は南洋倉庫に影響を与えた。1938年下半期の営業報告は次のように記す。
「支那事變ト國際情勢ノ推移ニ伴フ貿易管理,物資統制等長期戦時經濟体制下ニ於ケル吾カ對南貿易ハ引續キ不振ノ域ヲ脱シ得ス加フルニ當社主要事業地ノ華僑ノ排日貨モ亦未タ終熄ヲ見ルニ至ラス為ニ南洋フェーム及新嘉坡支店營業ノ根幹タル保管,荷捌並ニ運送業務等何レモ前年同期ニ比シテ多大ノ減少ヲ來シ」[南洋倉庫 1939br-1, 2]
業績は悪化し,総益金52万5954円73銭(前年度比約51パーセント減),純益金2万6690円15銭(同約75パーセント減)となり,無配に転落した。もっとも,1939年度下半期は欧州が戦時体制に入って蘭印の対欧州輸入が円滑を欠き,「邦品ノ荷動キハ頓ニ活發トナリ為メニ南洋フェームノ業績ハ其後比較的順調ニ推移シ」[南洋倉庫 1940br-1, 3],不振のシンガポール支店や,1938年10月の日本軍占領後1939年上半期に再開した広東支店を補った。この結果,1939年度は総益金100万4801円11銭,純益金7万6712円16銭,6分配当に回復し,1940年度も総益金104万5479円64銭,純益金12万1670円89銭,6分配当を継続する。
しかし,戦火の兆しは南洋でも見え始め,蘭印では「各種ノ法令ニ依リ荷捌ノ圓滑ヲ防ゲラレ」[南洋倉庫 1941br-1, 5],シンガポールでは「三國同盟ノ發表サル丶ニ及ビ對日感情ノ悪化ニ拍車ヲ加ヘルニ至リ本邦トノ貿易ハ減退ヲ余儀ナクセラレタル」[南洋倉庫 1941br-1, 5]となった。このため1940年には,他地域での事業展開を模索している。1940年度下半期の営業報告書は,「目下盤谷,佛印ノ両地ニ社員ヲ派遣シ調査中」[南洋倉庫 1941br-1, 5]と記すが,すでに1940年5月にはバンコク支店開設の詳細な収支目論見書が完成している[南洋倉庫 1940a]。この拡充実行のため,9月27日に払込済資本金を80万円から1000万円に大規模増資する計画を大蔵省と商工省に申請し[南洋倉庫 1940],12月3日には役員会もバンコク支店開設を決議した[南洋倉庫 1941br-1, 3]。
もっとも,増資計画は金額の大きさに加え,既存の主力事業が英米勢力範囲にあることを当局が懸念し,12月20日に不許可となる[南洋倉庫 1941a]。このため1941年1月29日には,松岡洋右外務大臣宛に陳情書を送り,そのなかで「帝國ノ南進政策ハ確乎不動ノモノト確信致ス處ナレバ何時ニテモ此ノ緊迫セル躍進情勢ニ呼應シテ經濟的展開ノ前衞タル補助機関整備ノ用意ニ遺漏アル可カラズ」[南洋倉庫 1941a]として,国策に沿った事業展開を謳っている。これを受けて外務省は,2月3日付で次官名義の書簡を大蔵・商工各次官に送り,「経験ヲ有スル同社ヲシテ同地域中ノ主要港湾ニ於テ倉庫ヲ建設セシメ更ニ我國策ニ貢献セシムルコトハ極メテ必要ナル一事」[外務省 1941a]として,再考を要請した。
一方で,3月18日に役員会は,新株発行による500万円までの増資を決議し[南洋倉庫 1941br-2, 5],4月1日には借庫でのバンコク支店営業を開始した[南洋倉庫 1941b]。外務省の支援もあり,4月21日には臨時資金調整法に基づく増資内認可を得て,4月25日の臨時株主総会後に新株募集を開始し,6月16日に正式認可を受けた[南洋倉庫 1941br-2, 6-7]。この増資は7月に第1回,1942年6月に第2回,1943年3月に第3回の払込みが完了し,上位大株主は大きく変化した。発行済総数10万株のうち,実質的な筆頭株主は石原産業(第1位1万9741株/19.74パーセント),石原汽船(第3位6038株/6.04パーセント),高田儀三郎(第9位1690株/1.69パーセント)の石原系だが(注22),増資以前は過半数を握っていたのと比べて大きく低下する。一方で,第2位に南洋海運(7100株/7.1パーセント),第4位に日本郵船,東京海上火災保険,大阪商船,住友本社(各5000株/5パーセント),第5位に住友海上火災保険(4000株/4パーセント),第6位に東亜海運(3000株/3パーセント)など,大手の海運・損害保険会社を中心に多様化した。これは南洋倉庫が,もはや単に石原系事業の一部門でなく,当局の意図で,国策としての南進,さらには「大東亜新秩序」における南方での物流担当機関のひとつに位置づけられつつあった結果と考えられる。この動きは,同時期の役員構成にも反映される。1940年9月には元海軍少将の越智孝平を取締役に,1941年1月にはバタビア総領事や駐メキシコ公使を歴任した越田佐一郎を副社長に迎え,他にもすでに迎えていた南洋海運からの取締役に加え,1941年度には大阪商船や日本郵船から4名の取締役を迎えるなど,経営陣の背景も多様化した。
こうして大規模増資は成功したが,時局は急を告げ,1941年上半期の営業報告書は「蘭印及新嘉坡ニ於ケル事業ニ付テハ最少限度ニ縮小整理スルト同時ニ増資計畫ニ基ク泰,佛印ヘノ進出ヲ急速整備」[南洋倉庫 1941br-2, 8]すると記す。これを反映し,増資前後にはバンコクで2800平米の倉庫建設を急いで進め,6月23日には大蔵大臣宛に建築資金9万2365円の送金許可を申請する[南洋倉庫 1941b](注23)。一方で,7月末には対日資産凍結で蘭印とシンガポールの事業は事実上停止し,「國際情勢ノ緊迫ニ伴ヒ一部社員ヲ残シ大部ノ引揚ヲ行フノ止ムナキニ至レリ」[南洋倉庫 1942br-1, 5]となる。これに対し役員会は,9月25日にハイフォンとサイゴンの支店,ハノイ事務所の開設を決議し,11月1日にはサイゴンの倉庫新築を決議するなど[南洋倉庫 1942br-1, 3],仏印でも急速な展開を試みる。
この期間の倉庫規模は,1939年度末に保有倉庫・借庫が10棟8097.2坪・11棟5180.94坪であったが,1940年度末は時局による縮小から,3棟965.51坪・3棟1550.45棟に急減した。1942年度末には保有倉庫が4棟2900坪まで回復したが,借庫は5棟707坪となる。業績も時局の影響を受け,1941年度は総益金92万6769円94銭,純益金17万4484円26銭で6分配当を維持したが,1941年12月の対米英開戦で業務は混乱し,1942年度は総益金80万9514円33銭,総損金82万420円97銭,純損金1万906円64銭で無配転落した。1942年上半期の営業報告書には,蘭印とシンガポールは「營業ハ本期中ヲ通ジ全ク中絶ノ外ナカリシ」[南洋倉庫 1942br-2, 5],タイと仏印は「業務モ亦必然的ニ戦争ノ影響ヲ受ケタル」[南洋倉庫 1942br-2, 5]とあり,広東のみ若干の利益を計上した。
1942年下半期には,日本の東南アジアでの支配権確立から,シンガポールでは7月末に業務を再開し[大阪朝日新聞 1942.7.21],8~9月にはジャワ,セレベス,ボルネオで倉庫・港湾荷役業務を軍当局から受託した[南洋倉庫 1943br-1, 4-5]。たとえばセレベスのマカッサルでは,9月30日付に南西方面艦隊民政府総監名で,11棟1万8800平米の港湾倉庫建設指令を受ける。これは「建築シタル倉庫ハ海軍ノ管理ニ属スルモノトス但シ之ガ經營ハ其ノ社ニ委託スル」[海軍省 1942]とあるが,「建築及土地ニ關スル権利ノ取得ニ要スル費用ハ其ノ社ニ於テ之ヲ負擔スベシ」[海軍省 1942]と要求されるなど,さまざまな制約があった。
1943年6月には当局命令で「西中部爪哇港湾会社」を設立し,ジャワ西半分の業務を移管した[南洋倉庫 1943br-2, 4]。タイや仏印の業務は「來期以後ハ之ガ成果ニ期待シ得ル状態ニ至レリ」[南洋倉庫 1943br-2, 5]とあり,順調でなかったと推測される。こうしたなかで,9月18日の臨時株主総会では資本金の500万円から1000万円への倍額増資が決議され[南洋倉庫 1944br-1, 3],10月には第1回払込が完了した。上位大株主を見ると,実質的な筆頭株主は石原産業(第1位3万9828株/19.91パーセント),石原汽船(第3位1万1076株/5.54パーセント),高田儀三郎(第12位1835株/0.92パーセント)の石原系,第2位は南洋海運(2万株/10パーセント),第4位は日本郵船,東京海上火災保険,大阪商船(各1万株/5パーセント),第5位は住友海上火災保険(8000株/4パーセント),第6位は東亜海運(6000株/3パーセント),第7位は住友本社,住友倉庫(各5000株/2.5パーセント)などで,以下にも大手の海運・損害保険会社が続いている。
1943年度(1944年3月末まで)と1944年度上半期(1944年4~9月)の業績を見ると,1943年度は上半期の赤字を下半期で補えず,総益金242万6983円29銭,純損金4万6312円7銭となるが,1944年度上半期は半期で総益金277万7664円25銭,純益金3万2486円83銭を記録した。理由は1943年度からの保管料・荷扱料の急激な伸びで,合計は1943年度194万2903円25銭,1944年度上半期246万4133円8銭となっている。背景は不明だが,資源輸送の活発化,あるいは戦局悪化によるコスト転嫁と推測される。しかし,1944年7月末のハノイ支店開設後は積極展開がなく,上半期営業報告書も「前期ニ引續キ施設及人員ノ充實ヲ計リ使命達成ニ邁進シタル處各地店共豫期ノ成果ヲ以テ進捗セリ」[南洋倉庫 1944br-2, 3-4]と記すのみであった。さらに,年末には敵軍攻撃の被害が報告されている。1944年12月30日付の海軍省南方財務部長宛書簡では,「最近マカッサル並ニパレパレ地區ニアリテハ敵ノ空襲苛烈ヲ極メ當社ノ諸設備及用具等殆ンド破壊セラレアル現状ニ有之候」[南洋倉庫 1944]とあり,復旧費用として南方開発金庫への融資斡旋を依頼している。
1945年8月15日の敗戦時,南洋倉庫が海軍南方軍政地区に投下していた資本残高は,セレベス・ボルネオ地区143万9382円16銭,スラバヤ地区60万2265円73銭の合計204万1647円89銭で[南洋倉庫 1945],それらはシンガポール,タイ,仏印の在外資産と合わせて水泡に帰す(注24)。1950年6月20日付の南洋倉庫から南洋海運清算人宛の書簡では,解散を待つばかりの南洋倉庫の企業・株式価値(注25)について,以下の記述が残されている。
「先に御通知申上げました通り特別損失負担の為,未払込株金の全額を徴収の上,資本金の全額を切捨てる予定と相成っておりますので時価は零,従って弊社従業員等に於て譲受の希望者は皆無であります。」[持株会社整理委員会 1950.10.3]
こうして創業以来,一貫して南進と共に展開してきた南洋倉庫は,終焉を迎えた。
以上,1920年の創業から1945年の終焉まで,南洋倉庫の経営実態を明らかにした。その軌跡を,舞台となったアジア市場圏の構造変化,さらには南進という営為の潮流変容のなかに位置づけながらまとめると,以下のようになる。
南洋倉庫の設立が計画された1910年代後半は,19世紀後半に形成されたアジアにおける自由貿易システムが延続しており,加えて,第一次世界大戦による欧州系資本のアジア市場での一時的退潮は,日本に巨大な経済的進出の機会を与えるものと認識されていた。南洋倉庫は,この前提条件の下で,大正期南進と称された日本の新たな市場圏進出の主導を試みた台湾銀行と台湾総督府によって,同様の構想であった華南銀行と連動しながら計画された。それは台湾から南支・南洋という広域での展開を目指して,台湾人有力者を取り込み,また,同市場圏で経済的実力を有した華僑との合弁を強調しながら創設された。
しかし1920年代を通じて,日本は慢性的不況に苦しみ,アジア各地でも一次産品価格の不安定化による不況や華僑の不買運動が絶えず,1910年代に隆盛した南進の勢いも自然と失われた。こうしたなかで南洋倉庫の経営は,堤林數衞や半田治三郎といった南洋現地で活躍した経営者の奮闘にもかかわらず,度重なる整理や拡張,華僑との連携失敗,台湾銀行や華南銀行の不振による不十分な金融支援,官費補助金への依存体質,株主の離反などの問題を抱え,業績も順調ではなかった。もっとも,倉庫数や出入庫数が約10年間で数倍増となったことは,基本的には日本の雑貨輸出や東南アジアの一次産品輸出を軸に,貿易量が拡大していたことを示す。そのなかで南洋倉庫は,日系資本に一定の利便を提供し,経済関係の深化に地道な貢献をしていた。一方で1920年代半ばには,華僑が掌握したアジア間交易需要の取込み困難から主要顧客は日系中心となり,また,華人株主の比率低下の一方で石原系「南洋鉱業」関係者が筆頭株主に登場するなど,日本化が進む。地理的にも,当初は台湾を介して南支・南洋全域を取り込むはずが,同社の主要市場が蘭印に集中し,蘭印と日本の直接貿易が拡大したことで,同社にとって台湾の意味が希薄化した一方,台湾銀行,台湾総督府,華僑などにとっても南洋倉庫の意義は薄れていった。
1930年代に入って南洋倉庫が,大正期南進を主導しようと試みた台湾銀行に代わり,昭和初期南進の推進力の一人であった石原廣一郎の直接傘下に入ったことは象徴的であった。石原は南進主義者であると同時に国家主義者でもあり,彼の内面で2つの思想は合一していた。それは1930年代の不況とブロック経済化への移行,そのなかでの日本と蘭印の経済関係の伸長と通商摩擦という活躍舞台で,戦闘的企業家としての石原の活動を支える原点であった。こうして石原の一部門となった南洋倉庫は,彼が巻き起こす波乱の渦中に投じられる。もっとも,この時期の業績は,石原の手腕と対蘭印貿易の拡大も相まって,飛躍的に改善しており,経営的には確固とした軌道に乗った。言い換えれば,この対蘭印貿易の拡大に物流面で先鞭をつけた石原の一部門として,南洋倉庫は真価を発揮した。
しかし,1930年代後半~40年代前半は,戦時体制下でアジアにおける既存の地域秩序や経済秩序が崩壊に向かった時期であり,同時にかつてと異なる南進の潮流が生み出された。それは大正期から昭和初期の,多少なりの国家意識を背景につつも,基本的には経済的利益を動機とした企業の自由意思による南進ではなく,政治的意志を動機とした明確な国策としての南進であった。この時流のなかでは,石原のような一企業家,南洋倉庫のような一企業は,如何ともする術をもたず,新しい南進における国家の巨大なメカニズムに組み込まれ,受動的な活動しかできなくなる。それは,1941年の大規模増資で株主が大きく変化し,以前は関係のなかった物流・保険・商社の法人大株主が登場したことが象徴している。そして,日本の破壊的膨張は1945年の敗戦に帰結し,南洋倉庫も終焉を迎えた。
このように,南洋倉庫の長期一貫した軌跡を考察すると,業務としては地道に倉庫業という通商インフラを提供して貢献した一方,経営としては大正から昭和にかけての南進や市場圏の変容を投影して,台湾銀行,台湾総督府,堤林や半田など南洋で活動した日本人,台湾人有力者,郭春秧などの華僑から,石原廣一郎,さらには国家自体と,多様な主体が入れ替わりながら介在し,影響を与えてきた事実が浮かび上がる。本稿は,これらの関係性も読み解きながら,当時の南洋にかかわる経済・企業活動の一側面を明らかにすることができたと考える。
もっとも,本稿は南洋倉庫とその視座を軸としたため,これを利用した顧客側やオランダ側の史料から,同社の役割を読み解くことには踏み込めていない。より実態的・立体的に,南進における経済活動と変容を解明する作業は,今後の史料発掘と共に稿を改め進めたい。
貸方 | 借方 | ||
---|---|---|---|
未払込資本金 | 2,500,000.00 | 資本金 | 10,000,000.00 |
有價證券 | 1,298,045.96 | 法定準備金 | 7,800.00 |
貸付金 | 167,615.52 | 特別準備金 | 110,940.15 |
預け金 | 176.84 | 納税引当金 | 1,000.00 |
未収入金 | 32,259.09 | 借入金 | 3,844,800.00 |
仮払金 | 1,055,449.91 | 預り金 | 6,750.08 |
銀行預金 | 392,336.49 | 職員義務貯金 | 4,630.68 |
現金 | 2,906.74 | 未払金 | 1,102,293.53 |
在外財産 | 9,396,208.18 | 仮受金 | 1,982,398.57 |
繰越損失金 | 731,197.61 | 在外負債 | 483,670.37 |
自二一,八,一一 至二五,三,三一損失金 |
2,038,287.04 | ||
合計 | 17,614,483.38 | 合計 | 17,614,483.38 |
備考一,有價證券中新南興業株式會社株式四七,五三五株一株に付二五圓拂込一,一八八,三七五圓は無價値
一,假拂金の大部分は企業再建整備法第二四條及第二五條關係の損失金なり
一,假受金中未拂込資本金徴収額一,六一〇,八八五圓を含む
(アジア経済研究所開発研究センター,2018年4月4日受領,2018年12月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)