アジア経済
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書評論文
民主化後のインドネシアにおけるイスラームの「保守転回」――Michael Buehler, The Politics of Shari'a Law: Islamist Activists and theState in Democratizing Indonesia. (Cambridge University Press, 2015)/Ian Wilson, The Politics of Protection Rackets in Post-New Order Indonesia: Coercive Capital, Authority and Street Politics. (Routledge, 2015)/Jeremy Menchik, Islam and Democracy in Indonesia: Tolerance without Liberalism. (Cambridge University Press, 2016)――
茅根 由佳
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2019 年 60 巻 1 号 p. 68-78

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Ⅰ はじめに

インドネシアは世界最大のムスリム人口を誇る民主主義国家であり,その広大な国土には大小さまざまなイスラーム組織が存在する。同国のムスリムのなかで圧倒的多数派を誇るのはスンナ派である。そしてスンナ派の主要イスラーム組織は政治勢力としても一定の位置を占めてきた。独立後,初めて行われた1955年総選挙では,イスラーム組織を基盤とするマシュミ党とナフダトゥル・ウラマー(Nahdlatul Ulama: NU)がそれぞれ20.9パーセント,18.4パーセントの支持を獲得し,世俗のインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia: PNI),インドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia: PKI)と四大政党を形成した(注1)。その後,スカルノ,スハルトの権威主義体制はイスラームに基づく政治活動を抑圧する一方で,事実上の世俗主義国家を是認する指導者の台頭を歓迎した。1970年代になると,NUからはアブドゥルラフマン・ワヒド,そしてマシュミ党の人脈を後継する知識人としてヌルホリス・マジッドが頭角をあらわした(注2)。彼らはスハルト体制が全政治・社会組織に強制したパンチャシラ原則(注3)に同意し,多宗教の共存を説いた。本稿ではこうした姿勢をとるアクターを穏健派とよぶ。両者は1990年代半ばから民主化の旗手として脚光を浴びる存在になった。その結果,インドネシアのイスラーム組織に関する研究では穏健派への関心が集中してきた[Barton 1996; 2005; Ramage 1996; Hefner 2000; Bush 2009; Mujani and Liddle2009]。

しかし1998年のスハルト体制崩壊とその後に続く民主化は,多様なイスラーム組織や運動の台頭を促した。2000年代半ばからは,多くの地方でイスラーム法に基づく法令(シャリーア)制定とともに,宗教的少数派(キリスト教徒やアフマディヤ,シーア派など)の排斥を訴えるイスラーム主義(注4)運動があらわれた。こうした動きに並行して2005年には,政府の諮問機関であるインドネシア・ウラマー評議会(Majelis Ulama Indonesia)が「世俗主義,多文化主義,そして宗教的自由主義(リベラリズム)はイスラームと相容れない」とするファトワ(法的見解)を出して論争をよんだ(注5)。さらに,2004年と2005年に開催された二大イスラーム組織NUとムハマディヤの全国大会では,多宗教の共存を説く穏健派が指導部を追われ,イスラーム主義にしばしば共鳴を示すハシム・ムザディとディン・シャムスディンがそれぞれの組織の議長職についた[Bruinessen 2013, 3-4;7-10]。また,2008年には多くのイスラーム主義運動の支持を受け,表現の自由への規制も危惧される反ポルノ法が国会で成立した。さらに同年6月には,アフマディヤの活動を制限する3閣僚決定が出された。2016年末から2017年初頭には,華人系キリスト教徒のジャカルタ特別州知事バスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)が「宗教冒涜」発言を行ったとして,「イスラーム防衛行動」を名乗る大規模な抗議デモが起こった。デモを主催したのは,宗教的少数派の排斥を訴えるイスラーム主義運動の指導者たちであった。デモ主催者たちは多数の一般ムスリムの参加を促し,数十万規模に膨れ上がった。多宗教の共存はもはや自明の前提ではなくなった。民主化によって宗教指導者間の競争は加速し,穏健派が劣勢に立たされる局面すらみられるようになったのである。

ブライネッセンは民主化後に生じた一連の現象にいち早く注目し,イスラームの「保守転回」(conservative turn)を指摘した[Bruinessen 2013(注6)。ブライネッセン自身は「保守転回」の明確な定義を行っていないが,それは国民国家における多宗教の共存よりも,イスラーム共同体の一体性を優先し,イスラーム法の施行を含めた宗教的規範のより厳格な適用を求める人々の増加を指す現象といえるだろう。それでは,今日のインドネシアにおいてイスラームの「保守転回」を促している要因とはなんだろうか。

本稿はその手がかりとして近年出版された3冊の著作を検討する。これらの著作は,それぞれ社会運動による影響力行使,国家・社会関係,そして歴史的経路に着目するアプローチを使いながら,今日のインドネシアにおける「保守転回」現象の要因を説明している。本稿は3冊の方法論とその分析の妥当性を検討したうえで,代替的なアプローチの可能性を模索したい。

Ⅱ 西ジャワ州と南スラウェシ州におけるシャリーア法令をめぐる政治

ビューラーはその著書,『シャリーア法令をめぐる政治――民主化期のイスラーム主義活動家と国家――』(The Politics of Shari'a Law: Islamist Activists and the State in Democratizing Indonesia)で,インドネシアの地方自治体においてシャリーア法令が増加している理由として,直接選挙制の導入によって社会運動の影響力が強まったことを指摘している。同書が取り上げる社会運動とはイスラーム主義運動(注7)である。その規模は数のうえでは大きくないものの,メンバーの凝集性が高く,選挙での競争にさらされる地方首長に動員を通じて効果的に影響力を行使することができる。そのためシャリーア法令が増加している,というのが同書の主張である。

ビューラーによれば,1998年から2013年に全国の地方自治体で制定された443本のシャリーア法令のうち67.7パーセント(300本)が6州(西ジャワ〔103本〕,南スラウェシ〔47本〕,西スマトラ〔54本〕,東ジャワ〔32本〕,アチェ特別州〔25本〕,南カリマンタン州〔38本〕)に集中している。そのうえで,地方議会の構成および地方首長の出身政党との相関関係を検討している。すなわちシャリーア法令が制定されている自治体では,世俗政党が地方議会での多数派を占めており,地方首長(州知事・県知事・市長)がほとんどの法令制定を主導している。しかしシャリーア法令を制定している地方首長は多くの場合,イスラーム主義政党(注8)の党員ではない(pp.112-115, p.131)。シャリーア法令の制定はイスラーム主義政党ではなくイスラーム主義運動の首長への働きかけを通じて実現しているのである。それでは,そもそもなぜイスラーム主義運動が他の運動に比べてとりわけ強い影響力を行使できるのだろうか。

ビューラーは民主化後の地方首長直接選挙制の導入(2005年以降)に注目し,シャリーア法令が集中する西ジャワ州と南スラウェシ州の事例分析を行っている。同2州では,地方首長選で再選を目指すエリート(注9)が大多数の有権者であるムスリム票をまとめ上げるため,有能な同盟相手としてイスラーム主義政党ではなくイスラーム主義運動を選択する(pp.23-24)。イスラーム主義運動のネットワークは,イスラーム主義政党よりも比較的緊密で,集票能力も高いと想定されるためである(p.27)。実際に東ジャワ州を除いて,シャリーア法令が集中する同2州を含む地域はすべて,1940年代後半から50年代にかけて各地で反乱を起こしたダルル・イスラーム運動(イスラーム国家樹立運動)(注10)のネットワークが現在でも根強く残る地域である(pp.174-175)。

加えて,地方首長当選および再選を目指すエリートは,イスラーム主義運動の活動家と同盟を組んでシャリーア法令を制定すれば経済的利益も得られる。たとえばシャリーア法令制定により,首長が宗教税の配分やバーなど娯楽産業の運営に関する裁量権,アルコール飲料の規制・専売権を創出できる。これらのビジネスに加えて,アフマディヤなどの宗教的少数派を規制する法令を出すことで,彼らからみかじめ料を徴収することも可能である(pp.24-26, 191-192)。また,宗教的正統性をまとうことで汚職や不祥事で失墜したイメージの改善もねらえるという(pp.25-26)。エリートはこれらの効果を期待して,イスラーム主義運動と同盟を組むようになった,というのがビューラーの主張である(p.23)。なかでも再選を目指す地方首長が存在する地域では,シャリーア法令の制定数が増えている(p.178)(注11)

ビューラーは西ジャワ州と南スラウェシ州のイスラーム主義運動の政治的影響力に関して,地域の歴史的文脈をふまえた手堅い質的分析を行い,地方首長によるシャリーア法令施行が増える要因を明らかにした。しかし,同書の分析には以下のような問題がある。第1に,ビューラーはシャリーア法令を制定することのエリートのインセンティブについては説明しているものの,個別の法令が制定に至るまでの具体的な政策決定のプロセスをほとんど考察していない。つまり,イスラーム主義運動を率いるアクターたちと地方首長のあいだにどのような交渉や駆け引きの経緯があり,あるいはどういった形態で前者による圧力行使が行なわれたのか,明示していない。第2に,西ジャワ州と南スラウェシ州以外の地域に関する具体的な分析を行わず,同2州で検証した主張を他地域にも当てはめ,その汎用性を主張する手法は少々乱暴といわざるをえないだろう。第3に,イスラーム主義政党がシャリーア法令制定自治体で多数派を占めていないという理由で,イスラーム主義政党の役割を分析から排除したことが妥当な判断だったのか,疑問が残る。たとえば,イスラーム主義政党としてもっとも安定した支持基盤をもつ福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera: PKS)には同書が対象としたダルル・イスラーム運動を出自とする党員が数多く参加している。PKSの創設者の一人ヒルミ・アミヌディン(Hilmi Aminuddin)の父親は,西ジャワのダルル・イスラーム指導者であったことも知られている。イスラーム主義運動の活動家として同書に登場する南スラウェシ州のタムシル・リンルン(Tamsil Linrung)もPKSの幹部であるが,その事実は記述されていない。つまりシャリーア法令制定に関しても,イスラーム主義運動から政党の役割を切り離せるほど両者の関係は明確に分かれているわけではない。シャリーア法令施行からイスラーム主義運動の影響力を明らかにするには,多様なアクターが関与する具体的な政治過程を検討するという骨の折れる作業を行う必要があるだろう。

Ⅲ 首都ジャカルタの「路上の政治」にみる国家・社会関係

ウィルソンは,その著作『ポスト新秩序体制のインドネシアにおけるゆすりの政治――支配的資本,権力と路上の政治――』(The Politics of Protection Rackets in Post-New Order Indonesia: Coercive Capital, Authority and Street Politics)で民主化後のエリート(注12)とプレマン(ギャング,やくざ)の役割に着目し,現代インドネシアの国家・社会関係の特徴を明らかにしようとしている。インドネシアでは歴史的に,国家が社会統制のための暴力装置としてプレマンたちに役割を与え,また市民を脅して金銭を徴収する「ゆすり業」に従事させることで,政治経済的秩序を維持してきた。こうした国家と社会の権力関係は民主化後も形を変えながら維持されている,というのが同書の主張である。

ウィルソンによれば,民主化以前のスハルト体制においては国家と犯罪組織,私的暴力と公的暴力の境界がきわめて曖昧であった(p.xix)。国家は暴力装置としてのプレマンを通じて意図的に脅威や危機を作り出すことで,権力を維持するための暴力的な社会統制を正当化してきた(p.xx, 69)。代わりにプレマンたちは,国家から庇護や法の抜け道を与えられ,暴力や威圧に従事してきた。こうした国家とプレマンの相互関係が形成した独自の国家・社会関係は,民主化という政治環境の変化に見事に適応しながら維持されている。たとえば一部のプレマンたちは飲酒や売春から社会を守るといった道徳に訴えるやくざ(morality racketeering)へ変質した。また時には,地方分権や選挙における競争で勝利するための,宗教やエスニシティなどのアイデンティティ・ポリティクスのなかに新たな役割をみつけて生き残っている(p.24, 29, 31)。

ウィルソンの分析の中心となるアクターとは,東チモール出身のヘラクレスを中心とする集団,ジャカルタの地元民ブタウィ人意識を強調するブタウィ同胞フォーラム(Forum Betawi Rempug: FBR)(注13),そしてイスラーム防衛戦線(Front Pembela Islam: FPI)など,大都市ジャカルタを中心に活動するプレマンたちの組織である。彼らは,急激な都市化や経済格差への不満,苛立ちを抱えた都市貧困層や労働者に対して,雇用を提供したり,声高に道徳的解決を主張することで人員を拡大してきた(pp.151-153)。同書によれば,これらのプレマン組織は既存の権力関係を維持するために依然としてエリートから必要とされている。ウィルソンによれば,彼らは国家権力を握るエリートと対等の,時には支配的なパートナーとなったのである(p.29)。

同書が取り上げるプレマン組織のなかでとりわけ本稿が注目したいのは,第7章で登場するFPIである。FPIは民主化後,国軍と警察の支援を受けて設立された「自警団」を前身とする(p.151)。そのため同組織は治安当局から非公式に資金援助を受けてきたとされる。また,FPIは他のプレマン組織と同様に国家機関に代わる暴力装置としても機能する(p.152)。その一方で他組織と異なるのは,FPIがイスラーム主義運動の側面をもち合わせていることである。FPIが組織の使命とするのは,コーラン(3章104, 110節)の「善行を勧め,悪行を諌める」(amar makruf nahi mungkar)である。彼らは経済格差や道徳の荒廃をもたらす「異端」勢力からのイスラーム共同体の「防衛」を訴え,キリスト教徒やアフマディヤなど非スンナ派ムスリムに対する排他的主張を展開しながら,都市下層のムスリムの支持をひきつけてきた(p.151)。ウィルソンによれば,ジャカルタ州知事アホックに対する抗議運動「イスラーム防衛行動」の盛り上がりもまた,同様の文脈で説明できる[Wilson 2017]。つまり,抗議運動の大規模化はFPIなどの勢力が巧みに都市下層ムスリムの経済格差への不満や苛立ちの高まりを利用したことによるという。

同書は,大都市ジャカルタにおいて繰り広げられるプレマンたちの栄枯盛衰を臨場感あふれる表現で描写し,インドネシアの都市政治がもつダイナミズムとその魅力を存分にあらわしている。そしてプレマン組織が民主化後の社会,政治的環境の変化に柔軟に適応しながら,都市部ジャカルタで拡大する理由を提示した。

しかし民主化後の国家・社会関係を提示するにあたっては,同書の分析に以下の補足を加える必要があるだろう。プレマン組織が繰り広げてきた路上の政治がジャカルタを特徴づけるもっとも興味深く刺激的な側面であるとしても,それはあくまで巨大な都市社会の一断片にすぎない。たとえば,ジャカルタにはプレマン組織の動員力をはるかに上回る支持者をもつキアイ(ジャワやマドゥラ島における宗教指導者)やアラブ系指導者など伝統的な宗教権威が多数存在する。選挙での勝利を目指すエリートにとっては,プレマン組織との同盟関係以上に,こうした宗教権威からの支持やお墨つきを得ることが不可欠となる。また,FPIの動員力を分析するにあたっても,都市における経済格差などの構造的要因のみならず,彼らのイスラームの宗教権威とのつながりにも注目する必要がある。同組織の中心的構成員は,インドネシア社会で広く尊敬を集めてきた預言者ムハンマドの子孫を名乗るアラブ系指導者(一般に「ハビブ」とよばれる)である。FPI代表のリジク・シハブもまた,ジャカルタのアラブ系指導者のコミュニティで育ち,サウジ・アラビアで学んだ経験から,動員に際してもインドネシアを越えて中東諸国にまで広がる宗教権威とのネットワークを効果的に活用してきた。現代インドネシアの国家・社会関係を描き出そうとする試みにおいても,「保守転回」が顕在化する今日,イスラームの宗教権威との関係や彼らのネットワーク,そして影響力を無視することはできない。ウィルソンの筆致は巧みであるが,その目的が達せられているのかには疑問が残る。

Ⅳ インドネシアにおけるムスリムのナショナリズムと(不)寛容性

メンチックの『インドネシアにおけるイスラームと民主主義――自由主義なき寛容性――』(Islam and Democracy in Indonesia: Tolerance without Liberalism)は,同国に根づく独自のナショナリズムと主要イスラーム組織がもつ「(不)寛容性」の概念を植民地独立から建国の時代(20世紀初頭から1960年代)に形成された歴史的産物として説明している。同書のタイトルが示すように,インドネシアのムスリムにとってのナショナリズムや「寛容性」とは,個人の信仰や言論の自由を保障する欧米発祥の自由主義や世俗主義の価値観を根拠とするものではない。それは,あくまでインドネシアの歴史における諸組織ないし宗教間の政治的な利害関係に基づいて築かれてきたものである,というのがメンチックの主張である。

同書によれば,インドネシアのナショナリズムとは6つの公認宗教(注14)を信仰する組織によってのみ,排他的に共有される「想像の共同体」である。言い換えれば,公認宗教以外の宗教や信仰をもつ組織や個人は,容赦なく共同体の外に排除される。それゆえに彼らは国家の庇護と市民としての権利を享受することもできない(p.13, 72)。メンチックはこれを世俗ナショナリズムとは区別して,宗教への帰依を前提とした「信心深いナショナリズム」(Godly Nationalism)とよぶ。

非ムスリムに対するムスリムの「寛容性」もまた,欧米的自由主義の産物ではない。それはイスラーム組織間や他の宗教組織との政治的競合と同盟の歴史によってきわめてプラグマティックに構築されたものである(p.4)。逆に,特定の集団に対する排他性にも一種の政治的合理性が存在する。具体的には,主要イスラーム組織であるNU,ムハマディヤ,そしてイスラーム統一協会(Persatuan Islam: Persis)に属するムスリムの多くがキリスト教徒やヒンズー教徒に対しておおむね寛容である一方で,アフマディヤなど特定の宗教の信徒,および共産党員に対してはきわめて不寛容な姿勢を示す(p.19)(注15)

たとえば,主要組織のムスリムがキリスト教徒に比較的高い寛容性を示すのは,オランダとの植民地独立戦争および1950~60年代にかけて共産党が伸張した際に両者の同盟関係が強化されたことに基づく(pp.95-104, 109-121)(注16)。また,ヒンズー教徒への寛容性は,バリ人を母親にもつスカルノ大統領がヒンズー教を宗教省に公認させたことを契機としてその後制度化されたものである(pp.104-108)。他方で,今日まで多くのムスリムがアフマディヤに対する排他的な姿勢を示すのは,イスラームの信仰に反するという解釈にのみ基づくものではない。アフマディヤを排除するという行為自体がその他の国民の「われわれ意識」(we feeling)に基づく一体性を強めさせるという,皮肉にも生産的効果をもったためであるという(pp.73-90)。

同書は,インドネシアの多くのムスリムに共有される価値が欧米起源の思想とはまったく異なる独自の合理性をもつことを,同国の歴史的文脈から説明した労作である。また,なにより民主化後の政治研究において,人々が抱く「価値」の中身を明らかにしようとした研究はほとんどない。地域の歴史的文脈から人々の「価値」の形成過程に迫った先駆的研究として,その学術的貢献は大きい。

しかし同書が展開する議論を吟味する際には,以下の点に留意する必要がある。というのも,メンチックの議論はきわめて明快である反面,多様なイスラーム思想が混在するイスラーム組織を一枚岩と捉えている。とりわけNUにおいては歴史的に組織のヒエラルキー構造が曖昧であり,ワヒドの議長就任以降に確立した穏健派の指導的立場は必ずしも常に盤石であったわけではない。各地のキアイたちは多宗教の共存を説く穏健派指導者を批判し,時に激しく対立してきた。スハルト体制によるNUへの介入は,結果的に前者を利し,組織内の実態以上に穏健派に影響力をもたせることになった。しかし民主化後の自由な政治環境においては,少なからぬ宗教権威たちが公にシャリーア法令施行のみならず,非スンナ派ムスリムへの排他的主張を展開するイスラーム主義を支持することが可能になった。さらに,こうした主張を行うイスラーム主義の指導者や説教師たちは既存の穏健派指導者に飽き足らない若年層のムスリムを中心として,幅広い支持を得るようになっている。次に,Persisの創設者であるナッシールはインドネシアにおけるイスラーム主義思想を代表する人物であり,同組織の(不)寛容性を検討するにあたっては彼の思想がもたらした政治,社会へのインパクトを切り離すことはできないだろう。それは同書が強調する政治的合理性とは区別されるべき別の「価値」体系である。つまり,巨大なイスラーム組織が醸成してきた「価値」の中身を検討するにあたっては,組織内の多様なイスラーム思想の競合にも目を配る必要性があるだろう。

Ⅴ おわりに

本稿ではインドネシアにおけるイスラームの「保守転回」要因を分析するにあたって,3つの著作を取り上げてその手がかりを検討した。ビューラーとウィルソンが対象としたイスラーム主義運動は互いに異なる勢力であるものの,シャリーア法令施行や非スンナ派ムスリムへの排他的主張などしばしばアジェンダを共有している。これらのイスラーム主義運動は主要組織に匹敵するほどの規模を誇るわけでもなく,議会に代表をもっているわけでもない。それにもかかわらず,特定の争点の元に凝集性を高めれば,選挙民主主義において強力な政治的影響力を発揮できる。前者は1940~50年代に構築されたダルル・イスラームのネットワークの存在,後者は国家権力を握るエリートと都市下層の支持に彼らの影響力の源泉を求めた。つまり両者は,それぞれ異なる構造的要因によって彼らが少なからぬ政治的影響力をもつようになっていることを示した。

他方でメンチックはインドネシアのムスリムがもつ独自のナショナリズムと(不)寛容性という「価値」に注目して,その形成過程をNUとムハマディヤ,そしてPersisの歴史から導き出した。同書は,政治的合理性に基づく宗教組織間の関係によって形成されてきた,独自のナショナリズムと(不)寛容性について説明した。同書のアプローチが提示したように,「価値」体系へ注目することはネットワークや経済格差などの構造的要因を越えて,選挙民主主義において特定の主張がより広範な人々をひきつける理由を解明するのに役立つ。

以上をふまえて,インドネシアにおける「保守転回」の要因を検討していくために,注目すべき点について指摘したい。第1に,選挙民主主義における有権者の重要性である。今日のイスラーム主義運動は,宗教意識を高めるムスリムの有権者に訴えてその支持票を政治資源に還元することで,国家権力をもつエリートに対しても影響を与えている。第2に,インドネシア社会におけるイスラームの「価値」の多元性である。2016年末のジャカルタ州知事への抗議運動でも,さまざまな価値が衝突した。NUやムハマディヤなど主要イスラーム組織の中央執行部は多宗教の共存を訴えて参加自粛を呼びかけた。しかし,NUのジャカルタ支部やイスラーム主義運動に共鳴するキアイや説教師たち,ムハマディヤ青年組織などは中央執行部の要請に従わず,むしろ既存の宗教権威は「世俗的」で腐敗した政権に妥協的な既得権層であると批判した。イスラーム主義に感化されたのはウィルソンが着目する都市下層のみならず,多くの富裕層や中間層も抗議デモを支持した。イスラーム主義運動は政治の腐敗や経済格差の拡大,そして道徳の荒廃を憂うものの,既存の政治経済秩序や既得権エリートに不満を抱き,議会に代表を見出せないムスリムを受け皿にして,着実に社会に浸透している。

しかしそれと同時に,主要イスラーム組織においては過度な排他主義の台頭に歯止めをかける「価値」が生成されてきたこともまた事実である。土着の信仰や非スンナ派ムスリムとの共存を説く穏健派のイスラーム思想は,同国の少数派の権利を擁護する「価値」として機能し,次世代の少なからぬ活動家や知識人たちに受け継がれている。インドネシアにおけるイスラームの今日的展開を検討する際にあたっては,地域の歴史的文脈をふまえた多元的な「価値」の存在とそれらの競合関係が生み出すダイナミズムにも注目していくべきだろう。

(筑波大学人文社会系助教,2018年2月15日受領,2018年12月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  最大の宗教組織であるNUはマシュミ党の一部として政界に進出したが,1953年に離脱し,組織名を冠した政党を設立した。NU離脱後のマシュミ党はスカルノ大統領と激しく対立して1960年に解党された。スハルト体制が成立すると,NUは1973年に他のイスラーム政党とともに開発統一党に統合された。

(注2)  ヌルホリス・マジッドはインドネシア学生協会(Himpunan Mahasiswa Indonesia: HMI)の活動家として台頭した。HMIはマシュミ党に近いイデオロギー的傾向をもっていたものの,組織的には自律した学生組織である。スハルト体制期を通じて与党ゴルカルの人材供給源のひとつであった。

(注3)  パンチャシラとは,民族的・宗教的に多様な社会を統一国家として維持していくために定められた建国5原則を指す。1945年憲法前文に記されている[川村・東方 2015, 63]。

(注4)  イスラーム主義とは,現行の西洋近代的な政治や社会制度に対する不満を背景として,これに代わるシャリーアの適用やイスラーム国家の樹立など,イスラーム的制度の導入を最終的な目標とする政治的イデオロギーを指す[末近2012, 253; 見市 2014, 71]。初期イスラームへの回帰を志向するワッハーブ主義やサラフィー主義の思想的影響が色濃く,しばしばシーア派やアフマディヤはイスラームからの「逸脱」ないし異端とみなされる。現代のインドネシアでイスラーム主義を代表する政治組織は,エジプトのムスリム同胞団の系譜をひく福祉正義党(PKS)と国際的なイスラーム主義組織,解放党インドネシア支部(HTI, 2017年に解散)である。両者とも1980年から大学キャンパスを中心として興隆し,民主化後に活動範囲を拡大した。

(注5)  MUIはスハルト体制の崩壊とともに宗教省から独立した。そのほか,異教徒間の結婚の禁止やアフマディヤを異端とするファトワを出している[Ichwan 2013, 70]。

(注6)  ただし,ブライネッセンは2010年のNU全国大会では穏健派のサイド・アキル・シラジがNU議長に当選したことから,「保守転回」の巻き戻しにも言及している[Bruinessen 2010]。また,ムハマディヤでも同様の傾向がみられる。

(注7)  同書では「イスラーム主義運動」を「フォーマルな政治的領域外の団体による,シャリーアに基づく国家(の実現)を求める継続的な主張」を行う勢力と定義している(p.30)。

(注8)  同書では1998年にイスラーム法を国家の基礎とすることを党綱領で宣言した政党をイスラーム主義政党とよび,月星党(Partai Bulan Bintang: PBB),福祉正義党(PKS),インドネシア・ウンマ覚醒党(Partai Persatuan Nahdlatul Ummah Indonesia: PPNUI),開発統一党(Partai Persatuan Pembangunan: PPP)をその対象としている(p.30)。

(注9)  同書では地方首長などの「国家エリート」は概してスハルト体制でキャリアを積んだ官僚および政治家の出身であるとしている(p.2)。

(注10)  ダルル・イスラームは1942年に設立が宣言され,独立戦争終結後には各地で反乱を起こした。しかし1962年に指導者のカルトスウィルヨが逮捕,処刑され,運動は国軍に鎮圧された[Dijk 1981]。その後は地下組織として生き延び,一部が国際的なネットワークを築いてジャマア・イスラミーヤ(Jemaah Islamiyah)となった[Bruinessen 2002, 11]。

(注11)  しかし,ビューラーによればイスラーム主義運動との関係においてあくまで主導権を握っているのは国家資源をもつエリートである。地方首長などのエリートは,イスラーム主義運動が有権者の動員や資金調達,イメージ向上に役立つかぎりにおいて,彼らの要求に柔軟に答える(p.3, 24)。そのため,イスラーム主義運動は選挙後まで影響力を維持することができず,制定が決定したシャリーア法令が実際に市民に適用されるに至らないことも多いという(pp. 181-184, p.194)。

(注12)  同書ではおもに,選挙での当選や権力の維持を目指す政治エリートを分析対象としている。

(注13)  FBRは,都市化で周縁化されるジャカルタの地元民ブタウィの利益を代表して保護すると訴え,国家が市民に経済的繁栄および安全を提供できていないと批判するとともに,政党や州政府から許認可や資金を得てきた(p.xx)。

(注14)  国民は建国5原則パンチャシラにより,6つの宗教のいずれかを選択して信仰することが義務づけられている。6つの宗教とはイスラーム教,キリスト教(カトリックとプロテスタントが通常2つに数えられる),ヒンズー教,仏教,儒教である。儒教は1950年に宗教省に公認宗教とされたものの,1979年にスハルトによって公認宗教から外され,2000年に再認された(p.92)。

(注15)  ただし3つの組織間には異教徒への寛容性に差異がある。メンチックによれば多くのムスリムがアフマディヤよりもキリスト教徒に対して寛容であるものの,3組織のなかではNUがもっともその寛容性の度合いが高く,Persisはもっとも不寛容であるという(p.19)。

(注16)  第5章で1950年代にPersisとムハマディヤ,1960年代にNUがそれぞれ異なる経緯で共産党員と敵対するようになった経緯が検討されている。

文献リスト
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© 2019 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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