アジア経済
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書評
書評:馬場香織著 『ラテンアメリカの年金政治 ――制度変容の多国間比較研究――』
晃洋書房 2018年 v + 225ページ
新川 敏光
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2019 年 60 巻 1 号 p. 87-90

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 はじめに

本書は,ラテンアメリカにおける年金改革政治の比較研究である。1980年代に南米では新自由主義勢力が台頭し,1990年代に入ると社会保障改革が本格化する。なかでも年金民営化は,多くの社会保障関係者や研究者の注目を集めた。しかし,その後どうなったのかについては,あまり知られていない。本書は,まさにその知られていないストーリー,年金民営化の後の改革(再改革)に焦点を当てた本格的研究書である。

著者の馬場香織氏は,東京大学法学政治学研究科博士課程を修了し,現在北海道大学大学院法学研究科准教授を務める新進気鋭の政治学者である。「あとがき」によれば,本書は著者の博士論文に大幅修正を加えたものである。なるほど,テーマと仮説を最初に提示し,対抗仮説の検討を行ったうえで各国の事例が検討されており,博士論文のお手本ともいうべき構成になっている。そのようなしっかりとした構成のおかげで,読者は,頻出するアルファベットの略記と生硬な表現に苦しみながらも,道標に従って迷うことなく読み進めることができる。

ラテンアメリカでは1980年代チリ軍政下での改革を嚆矢として,次々と年金民営化が進められた。本書では,この一連の改革を「第一世代改革」と呼ぶ。第一世代改革は,ラテンアメリカの10の国で実施されたが,そのうち8カ国で再改革が行われた。著者によると,再改革には,民営化をさらに進める「深化」と公的制度の役割を拡大する「揺り戻し」という2方向がみられ,ボリビアを除くと,「民営化度の高い代替型の第一世代改革が行われた国では深化再改革,民営化度の低い混合型の第一世代改革が行われた国では揺り戻し再改革が起こっている」(7ページ)。こうした違いがなぜ起こったのかを分析することが本書の目的である。

著者の作業仮説は,「第一世代改革の類型や民営化度に現われる改革の特徴が,その後のアクター間のパワーバランスを規定し,続く再改革の制度条件をつくった」(8ページ)というものである。古い制度(第一世代改革)が新しい制度(再改革)を規定したといえるが,両者の関係はアクター間のパワーバランスによって左右される。著者はアルゼンチン,メキシコ,ウルグアイについて,現地調査に基づいた詳細な検討を行い,さらに二次資料に基づいてチリやその他のラテンアメリカの国々についても概観することによって,こうした仮説の妥当性を検討している。

Ⅰ 

各国事例について多くを語ることは控えるが,理論構成に沿って最低限の紹介をしておこう。第1章では,ラテンアメリカにおける公的賦課年金の確立から第一世代改革までが簡単に紹介されている。ラテンアメリカでは,当初公的年金は積立方式で運用されていたが,やがて賦課方式に変わった。その結果として,財政的な維持可能性や制度間格差の問題が顕在化した。しかし1990年代までは,労働組合の抵抗が激しく,遅々として改革が進まなかった。こうしたなかで新自由主義的な勢力が台頭し,第一世代改革が生まれる。

第一世代改革は,著者によれば,「代替型」「混合型」「並立型」という3つに分類することができる。民営化の進行度(民営化度)は,反対派に対して政府がどこまで,どのような妥協をしたかによって異なり,そのような妥協の形態の違いがその後のアクター間のパワーバランスに影響を与える。

第2章では,本書の理論枠組が提示される。第一世代改革と再改革の関係を明らかにしようとする著者が,新制度論,とりわけ経路依存性を強調する歴史的制度論に着目し,それを理論枠組構築の足掛かりにしたのは,理に適ったことのように思える。とりわけ歴史的制度論を長く牽引してきたキャサリーン・セーレン(KathleenThelen)たちが,研究関心を制度の安定性から変化へと移行し,それによって制度がアクターを規定する側面よりも,アクター間の相互作用が制度変化に与える影響に着目するようになったことは,著者にとって大きなインスピレーションとなったに違いない(Streeck and Thelen [2005], Mahoney and Thelen [2009]も参照)。

ただ,パワーバランスの分析ということでいえば,実は歴史的制度論が登場する以前に,多元主義理論,あるいは権力資源動員論(文字どおり,パワーバランス論と呼ばれることもある)による膨大な研究蓄積がある。制度変化の過程を考察する際には,これら行為分析の手法(とりわけ権力資源動員の戦略)について,今少しの目配りが欲しかったように思う。

著者は,第一世代改革がパワーバランスに長期的影響を与えると考えるが,ほかに政策決定過程が開放的か閉鎖的かという特徴がパワーバランスに短期的影響を与えると指摘している。どちらも大事であることについてはよくわかるが,長期的,短期的という区別がなぜ予めなされるのかについては,十分な説明がされていない。端的にいえば,政策決定アリーナの特徴が長期的な影響を及ぼすこともありうるのではないかという疑念を禁じ得なかった。

第一世代改革での政府の反対派への妥協には,著者の言葉によると,「セクター限定型妥協」と「低い民営化度妥協」がある。前者の場合,反対派,特に労組がセクターごとに分断・破片化され,すでに民営化されたセクターでは「公的制度か民営制度か」という問題が争点化されにくくなり,揺り戻し勢力が団結しづらくなっているため,民営化を一層深化させようとする勢力が優位に立つ。つまり,パワーバランスは,民営化推進派に有利となる。

他方,妥協が幅広いセクターにおける低度の民営化を実現した場合,反対派勢力はセクターごとに分断されず,「公的制度か民営制度か」という争点設定がなおも有効となり,反対派は民営化阻止のために団結を強化することができる。つまり,パワーバランスは揺り戻し勢力に有利に働く。

政策決定過程については,それなりに開放的な場合(著者の言葉でいえば,「制度化された多元的協議型」の場合),様々な利害が持ち込まれるので,再改革は小規模か混合型になる。あるいは,そもそも再改革が行われない場合もありうる。他方,政策決定過程が政府主導であり,参加するアクターが限定される場合,再改革は大規模になる傾向がある。

したがって,第一世代改革がセクター限定型か混合型か,政策決定過程が閉鎖的か開放的かによって,再改革の方向性と程度が予想されることになる。「セクター限定型」+「閉鎖型」であれば,完全民営化に向かうであろうし,「混合型」+「閉鎖型」であれば,揺り戻しというパターンが導き出される。ただし,開放的な政策決定過程の場合,小規模,混合型,無変化という3つに分かれるので,変化のパターンを予想することは(これだけの変数では)難しいことになる。

Ⅱ 

以上の作業仮説に基づいて,著者は,第3章から第5章まで,アルゼンチン,メキシコ,ウルグアイ,3カ国について,詳細な事例研究を行っている。第3章のアルゼンチンでは,全加入者共通の公的賦課式基礎年金に,民営積立式付加年金または公的賦課式付加年金を選択して組み合わせる仕組みが導入された。このような全体として低い民営化型の妥協が成立したため,アルゼンチンでは揺り戻しがなお有効な選択肢として維持されており,やがて公的年金を管理する社会保障管理機構(ANSES)を中心とした勢力によって,揺り戻しが推進されることになった。小幅な改革が2度実現した後,3度目の改革で再国有化が実現したのである。揺り戻しの当初は,多元的な協議もみられたが,結局政府主導による限定的なアクターによる民営化の全面的撤回へと至る。アルゼンチンの事例は,「混合型」+「閉鎖型」による揺り戻し改革の典型的事例と考えられる。

これに対して,第4章メキシコの場合は,第一世代改革で民間セクターに限定された民営化が実現したため,揺り戻し勢力が分断され,「公的制度か民営制度か」の争点設定が有効に働かなくなり,政府主導・限定的アクター型の政策決定過程において,大規模な民営化が実現した。すなわち,「セクター限定型」+「閉鎖型」の組み合わせによって,アルゼンチンとは対照的な民営化を深化させる再改革が実現したのである。

第5章ウルグアイでは,第一世代改革の結果,混合型制度を持つようになり,その後は小規模な揺り戻し再改革が繰り返されている。ウルグアイが,アルゼンチンと異なる再改革となったのは,揺り戻しの政策決定過程の違いにあると考えられる。ウルグアイでは,多元的協議が制度化されており,そのなかで揺り戻しを求める勢力と民営化の深化を求める勢力の双方が徐々に穏健化し,第一世代改革から大きく外れない範囲で妥協を繰り返すことになったのである。

最後に,第6章において,他のラテンアメリカの国々の再改革が概観されている。チリでは,ピノチェト政権下で反対派を完全に締め出し,非妥協型の民営化を実現した。その後政策決定過程の多元化がみられたものの,第一世代改革の規定力が大きく働いた結果,民営化への反動は生じていない。ラテンアメリカでは,そのほかには,コロンビア,エルサルバドル,ペルー,ボリビアでも再改革が行われたが,ボリビア以外では,本書が提示する仮説の予想する方向への変化が認められるという。

ボリビアの場合,徹底した民営化が進められ,揺り戻し勢力にとって不利な制度条件が生まれたが,ボリビア初の先住民大統領の登場で,行政府への権力集中と革命的な制度変更が行われたため,国有化という大規模な揺り戻しが生じたという。すなわちボリビアでは,大統領の強力なリーダーシップによって制度の断絶がなされたのであり,制度の経路依存性を前提とする著者の分析枠組からは説明できない事態が生じたということになる。

Ⅲ 

以上のように,本書は,ラテンアメリカの複数の国,アルゼンチン,メキシコ,ウルグアイについて,現地調査を含む地域研究の手法をふまえながら,比較政治学の理論枠組を用いて資料を整理・分析しており,昨今目覚ましい勢いで進んでいる地域研究と比較政治学の交流・融合の流れが生んだ優れた成果の一つであるといえる。

地域研究と比較政治学,双方を満足のいくレベルで融合させることは,実は容易なことではない。地域研究においては,一度は地域の文脈・特殊性というものに深く沈潜することが求められるが,そこにとどまってしまえば,その特定地域を研究する専門家集団内での評価は高まっても,他の政治学者との交流が難しくなる。

これに対して,比較政治学の理論を用いることによって地域研究は発信力を高めることができるが,理論を用いた地域分析は,とかく地域固有の文脈や特殊性を無視したメカニカルなものに陥りがちである。ある仮説が検証されたとしても,それが地域の固有性を理解することにまったく貢献しなければ,地域研究としては価値のないものになってしまうだろう。しかし本書はそのような陥穽を避け,比較政治学の理論をふまえながらも,各国政治に固有の特徴を浮き彫りにしている。

ただ著者が最初に述べている「一般的な命題の提起」(9ページ)や「本書の議論から示唆されるある種の法則性」(10ページ)の発見という点では,本書は必ずしも成功しているとはいえない。第一世代改革からパワーバランスの変化,再改革というパターンが各国に共通にみられたとして,それでは各国において第一世代改革が再改革を規定する最も重要な要因であったことが確認されているのかといえば,そうとはいいきれない。

たとえば,国によっては経済的要因が最も重要な役割を果たした可能性はないのだろうか。新自由主義というアイディアの影響力については,どうだろうか。あるいは,パワーバランスがどの国でも第一世代改革によって大きく変化したのだろうか。もし改革前後で大きな変化がなければ,第一次改革の規定力は確認しようがない。少なくとも理論的に再改革に影響を与える可能性のある要因について,体系的な比較検討がなされなければ,因果論的な含意を引き出すことは難しいように思われる。

しかし,因果論にあまり拘らないことによって,本書は各国の複雑な制度変化のパターンを類型化することに成功している。評者の理解するところでは,本書の魅力は,理論的拘束性のあまり強くない歴史的制度論という視角から,ラテンアメリカの年金再改革を門外漢にもわかるタームで整理し,そのパターンを分類したところにある。若き俊英の今後の活躍に期待したい。

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