アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
書評
書評:平田知久著『ネットカフェの社会学――日本の個別性をアジアから開く――』
慶應義塾大学出版会 2019年 366 + 23ページ
松下 慶太
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2020 年 61 巻 2 号 p. 82-85

詳細

Ⅰ はじめに

ネットカフェについて「ネットカフェ難民」のように分断,排除,自己責任といった視点から分析するものはあったものの,メディア利用という,ある意味「正面」から取り扱った研究はあまりみられなかった。本書はこうした視点から,著者の博士論文を加筆・修正しつつ,アジアを中心とした諸都市(ソウル,北京,上海,天津,香港,台北,シンガポール,マニラ,バンコク)のネットカフェにおけるフィールドワークに基づき,2010年前後のインターネット利用,コミュニケーション行為,場所性などを包括的に研究したものである。

メディア,とりわけインターネットの領域における変化は非常に速く,そして大きい。研究成果が「書籍」という形になったときには,そこで論じた状況が大きく変わっていることも多い。そのためいくら詳細に,丹念に論じようとも,それらはしばしば調査した時代の「スナップショット」に過ぎないともいわれる。しかし一方では,当時の状況を書き留めた貴重な資料でもあり,またそこから現時点でも論じるに値する重要な論点を提示しているものもある。本書もそうした類の研究成果である。

本書冒頭にもあるように,ネットカフェ利用の研究がスタートにあるのではなく,アジアにおけるインターネット利用を分析・検討するうえでネットカフェに着目することが本書を貫く基本姿勢であり,特徴でもあるといえるだろう。ここでいうネットカフェとは「少なくともパソコンとインターネット接続とを完備し,それらを利用する環境を含めて比較的安価に提供することを目的とするような,その周囲にいる人々が基本的に自由に出入りできる商業店舗」(23ページ)と定義される。日本のネットカフェの特徴は,個別ブースから半オープンな空間までいくつかのエリア(およびそれにともなう料金体系)によって構成されている点である。日本のネットカフェはこのような緩やかなレイヤーを持ちながら,①オープンとクローズ,②プライベートとパブリック(親密と公共),③ウチ(自室)とソト,というこれまで自明とされていた境界を揺さぶる空間となっている。

Ⅱ 構成と概要

本書の構造を概観しておこう。

序章では,導入としてインターネット利用の概要について統計的に確認したうえで,インタビューおよび言説研究を中心とした調査手法,先行研究について言及している。とりわけ,アクターネットワーク論,Urry[1995;2007]に代表されるような「場所の消費」「移動」についての一連の研究に影響を受けつつ,技,術/社会「決定論」のいずれにも距離を置いた非決定論的な立ち位置から,ネットカフェを各都市の比較から浮かびあがらせることが目指される。

続く第Ⅰ部「日本のネットカフェからアジアに向けて」では,おもに日本のネットカフェの場所性の考察や言説分析から問題の所在が導き出される。

第1~3章では,とりわけネットカフェにおける「個室」の特殊性がとりあげられ,ネットカフェをめぐる言説分析によって,「共にあることの現代的な困難」(93ページ)が指摘される。それはすなわち,ネットカフェや個室は「好きなことが何でもできる」空間でありながら,ネットカフェ難民の利用に対して他の利用者が迷惑だと思ったり,それに対して店側に干渉,監視(管理)を期待したりするといったことを指している。しかし,第2章にあるように,日本においてネットカフェは,①漫画やゲームといった娯楽,②ネットという情報通信,③喫茶やカフェといった(開かれた)場所,という流れの合流,要素を組み合わせながら,漫画喫茶とネットカフェから,複合カフェになっているとも理解できる。こうした日本のネットカフェと「壁」のないアジア諸都市のネットカフェとを比較しながら,「個別ブースを維持しながら『壁』を取り払う方法を模索」(99~100ページ)するという本書のテーマが提示される。

第4~6章では第Ⅱ部の導入としてアジア諸都市のネットカフェでのエピソードを紹介しつつ,比較研究にあたって①娯楽,②ケア,③メディア技術,という3つの視点が提示される。例えば,第5章ではケアという文脈から台湾,香港,シンガポールのネットカフェを導入的に分析している。そこでは①(広い意味での)ケアの対象となる社会的弱者のパソコン・インターネット利用の場と,②その社会的弱者を遠ざける手法(143ページ)の多様な具体例が提示されている。

第Ⅱ部「東アジア・東南アジアのネットカフェから日本に向けて」では韓国・ソウル(第7章),中国・北京,上海,天津(第8章),台湾・台北(第9章),香港(第10章),シンガポール(第11章),フィリピン・マニラ(第12章),タイ・バンコク(第13章)とそれぞれの都市におけるネットカフェのフィールドワークと分析が展開される。

それぞれの視点と対応させると,娯楽という意味では,韓国(ソウル),中国(北京,天津,上海),台湾(台北),日本(東京)とが比較される(第7~9章)。たとえば,若者向けのゲーム提供が主である韓国においては,ゲーム利用以外の利用者との差異が指摘されている。中国においては,移動労働者が唯一,娯楽を受けられるネットカフェが,娯楽享受における公平性を担保している。台湾では,深夜遅くまで労働に従事するコミューターが,家族に咎められるような個人的な娯楽(ギャンブルやアダルトビデオ視聴)を楽しむ様子が観察されている。日本のネットカフェにみられるような個別ブースは,「好きなことが何でもできる」と「他人に迷惑をかけない」を両立させつつも,「共にあることの現代的な困難」の再考を促している。

また第9~11章は,台湾(台北)香港,シンガポールを日本(東京)と比較しつつ,外,国人家事労働者や子どもを配慮およびケアという視点からとりあげている。そこでは,利用者や店のなかで生じる「分断」や「不信」が指摘されている。また,そうした議論から,日本のネットカフェにおけるネットカフェ難民と呼ばれる人々とその他の人々との間に生じるような「摩擦」解消のためにどのような指針や示唆が得られるのか,検討が促される。

メディア技術の良き利用のあり方という視点からは,フィリピン(マニラ),タイ(バンコク),日本(東京)が比較される。パソコンやインターネット利用における「より良さ」とは何かが考察される(第12~13章)。

終章では,「共にあることの現代的な困難」の解消は,現代の人々に内面化されている「他人に迷惑をかけなければ,何をしてもよい」という自由主義的な発想に介入し,摩擦や軋轢を自分こそが受けているとみなすような自己責任論やそれを支える監視(管理)の別のあり様を示すことにつながると指摘される。そこで導入されるのはJ・デリダがいう「どのような場所に行っても客として迎え入れられる権利」としての「歓待(Hospitality)権」の概念である。P・クロソウスキーを参照した國分[2002]がいうような主客がともに変容する「歓待」の実践と応用こそが短期的ながらもありうべき方策である,と結論づける。

Ⅲ 研究上の位置づけ

本書の特徴は①インターネット利用研究として「インターネット上で」どのように利用されているか,ではなく「どこで」利用されているか,そしてその場所性がどのように形成されているか,に着目している点,②東・東南アジアの諸都市を広くカバーした国際比較を行っている点である。これらを踏まえつつ,インターネット利用と場所性とを考察した本書は,メディア研究はもちろん,都市研究としても有用な知見を示唆してくれる。こうした研究姿勢は,Moores[2017]が唱える「脱メディア中心メディア研究」(Non-Media-Centric Media Studies)(メディア以外の要素に着目しながらメディアを研究するアプローチ)としてもとらえることができるだろう。以下,いくつかの関連トピック,領域への接続・論点を示していこう。

 コワーキング・スペースとの関連

2000年代以降,都市におけるインターネット利用 の場所性を検討する際にネットカフェに加えて言及,比較すべき場所としてコワーキング・スペースがある。

2000年代半ばに欧米で端を発したコワーキング・スペースは,2010年前後には日本においても東京,大阪をはじめとして都市部で浸透していった。本書でとりあげられる東・東南アジアの諸都市でも2010年代後半から急増している。そこでは,IT業界などのフリーランスワーカーが,孤立を(一時的な)コミュニティへの参加によって解消しようとした。こうしたコワーキング・スペースでもインターネットへの接続が前提とされている。コワーキング・スペースはすなわち,家でもオフィスでもない「サード・プレイス」(第3の場所)としての機能が期待されたが,それは個室で「好きなことが何でもできる」ネットカフェとは対照的といえるだろう。

コワーキング・スペースは基本的に,家やオフィスにパソコンやインターネットがないためではなく,それを前提としながらより高速なインターネット環境や3Dプリンタやレーザーカッターなどの高度な設備を,そしてコラボレーションやイノベーション,クリエイティビティといった言葉で彩られるコミュニティを志向している。第2章にもあるように「パソコンやインターネットとともにある地域コミュニティの希望という夢の残滓」(84ページ)とはまた異なる道筋を歩んだものとしてとらえられるコワーキング・スペースは,ネットカフェとの比較においてコワーキング・スペースを利用「できる」者とネットカフェを利用「せざるを得ない」者,コミュニティからの「逃走」とコミュニティへの「志向」の分断を生んだともいえるだろう。

こうしたコワーキング・スペースはネットカフェとの比較においてどのようにとらえられるのか,という視点は本書の射程外とはいえ,今後の研究・分析が待たれる領域であると考える。

 モバイル・メディアとの関連

『情報通信白書 平成30年版』[総務省 2018]によると,2016~2017年にかけてインターネットを利用したことがある端末としてスマートフォンがPCを上回った。本書の序章において,移動体通信機器によるインターネット利用については「研究の限界」とされているが,第6章では携帯電話やSMSとパソコンやインターネットとが相補的に機能していることが考察されている(145~146ページ)。しかしながら,1990年代後半のモバイル・メディア論,ケータイ研究との接続は言及されてもよいだろう。たとえば,ケータイ,スマートフォンがつくり出す「テレ・コクーン」[羽渕 2006],「テリトリー・マシン」(居場所機械)[藤本 2006]といったモバイル・メディア研究で提示された概念は,都市において「好きなことが何でもできる個室」を疑似的につくり出している現象をとらえたものである。また南後[2018]は,都市における個室でなくともひとりを感じることができる「ひとり空間」は,私個人ではなくモバイル・メディア,ソーシャル・メディアによって仕切られており,また物理的な空間は椅子やテーブルの配置によって動線や視線を制御するような建築的操作が行われている,と指摘する。

そういった意味では,ケータイ,スマートフォンを所持しているにもかかわらず,ネットカフェに行かざるを得ない,あるいは敢えて行く意味を考察することは,ネットカフェの場所性を考察するうえで必要な作業となるだろう。また2020年に発生したいわゆる「コロナショック」は人々の移動や集合,密閉された空間や場所のあり方に大きな変容を迫った。その中でネットカフェの場所性や意味づけも大きく変わっていくことになる。

以上で述べた論点はいわば「ないものねだり」であり,本書の研究上の意義を損なうものではない。むしろ,本書はインターネットと場所性,そこでのコミュニケーションを研究するうえでさまざまな事象との接続性を示唆しているのと同時に,ネットカフェに限らずコワーキング・スペースやモバイル・メディアを含むメディアと移動研究において参照すべき重要な視点を提供しているのである。

文献リスト
  • 國分功一郎 2002. 「歓待の原理——クロソウスキーからフーリエへ——」 『Résonances』 Vol.1.
  • 総務省 2018. 『情報通信白書 平成30年版』.
  • 南後由和 2018. 『ひとり空間の都市論』 筑摩書房.
  • 藤本憲一 2006. 「反ユビキタス的『テリトリー・マシン』」 松田美佐・岡部大介・伊藤瑞子編 『ケータイのある風景——テクノロジーの日常化を考える——』 北大路書房.
  • 羽渕一代 2006. 「高速化する再帰性」 松田美佐・岡部大介・伊藤瑞子編 『ケータイのある風景——テクノロジーの日常化を考える——』 北大路書房.
  • Moores, Shaun 2017. Digital Orientations: Non-Media-Centric Media Studies and Non-Representational Theories of Practice. Bern: Peter Lang Pub Inc.
  • Urry, John 1995. Consuming Places. London: Routledge (邦訳は吉原直樹・大澤善信監訳『場所を消費する』 法政大学出版局 2003年).
  • Urry, John 2007. Mobilities. Cambridge: Polity (邦訳は吉原直樹・伊藤嘉高訳『モビリティーズ——移動の社会学——』 作品社 2015年).
 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top