アジア経済
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論文
現代中国における中央指導者の地方視察とその政治的意義(1949-1955)――GISによる可視化の手法を用いて――
周 俊
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2022 年 63 巻 4 号 p. 2-32

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《要 約》

広義には調査研究に位置づけられる中央指導者による地方視察は,中国政治を理解する重要なポイントである。本稿は歴史学的アプローチとGISによる可視化の手法を用いて,これまで光が当てられてこなかった毛沢東などの中央指導者による視察の行動様式,諸機能の実態,及び政策過程における視察の意義を考察する。指導者の視察は国内外向けの宣伝材料に転じて宣伝機能を発揮した場合があるものの,その基本的な機能は情報収集であると思われる。しかし,それは往々にして空間的な「壁」と官僚制の「壁」によって阻まれ,「特殊な者」としての毛沢東でさえも例外ではなかった。1955年農業集団化の問題の考察を通じて,視察は末端の実態を客観的に認知する方法というよりも,むしろ,毛沢東が自らの正当性を裏づけるための道具であることが明らかになった。つまり,毛沢東が視察を利用して自らの主張に見合う証拠を探し,政策決定の主導権を握ろうとする構図が看取できる。

Abstract

Local inspections (difang shicha, also known as diaocha yanjiu) used to be a “special window” through which central leaders in China could understand local politics. Using historical analysis and geographic information systems (GIS) visualization, this article examines the inspections conducted by 35 central leaders, including Mao Zedong, between 1949 and 1955. The analysis focuses on the leaders’ patterns of mobility, the function of the inspections, and the relationship between inspections and central decision-making. The results of GIS visualization show that the 35 leaders visited mainly cities with access to rail, as opposed to rural areas. Although these inspections were sometimes used for policy propaganda, their original function was to gather information for central decision-making. However, due to local impediments involving strategies such as cover-ups, frauds, and staged performances, it was difficult for central leaders to understand the actual state of local politics. Even Mao Zedong, who had a special power, was no exception. Using the case study of the 1955 agricultural collectivization, this study further demonstrates how local inspections failed to bring policy success in Mao’s era, finding that local inspections functioned more as a means for Mao to prove his legitimacy than as a method for obtaining real information. As a result, the inspections led to misjudgments and policy mistakes by Mao regarding agricultural collectivization and laid the groundwork for the Great Leap Forward in 1958.

Ⅰ 背景と課題

Ⅱ 概念・方法・資料

Ⅲ 地方視察の行動様式

Ⅳ 地方視察の機能とその実態

Ⅴ 政策過程における地方視察の意義

Ⅵ 結語

Ⅰ 背景と課題

周知のように,中華人民共和国(以下は「中国」と略す)は広大な地理空間をもち,経済状況,民族構成,言語,社会風習などでも多様性を有する人口大国である。この広大な空間に向き合う際,長年にわたり革命と戦争を通して1949年から事実上「中国全土」を統治する立場となった中国共産党(以下は「党」と略す)政権の中央指導者(以下は「指導者」と略す)は,いかにして末端の実情を知り,またその過程ではどのような問題と矛盾が発生していたのか。

1949年以前の革命期において,党の指導者自身が末端の現場に入り込んで行う調査研究は,党からみれば,政策執行過程の実態にかかわる情報を獲得するための重要な手法であった。「湖南農民運動考察報告」など有名な調査報告書を多く残した毛沢東は,いうまでもなくその典型例である。1949年建国以降,「主席走遍全国」(「主席は全国を巡遊する」1960年)という毛沢東肖像画の登場や「毛主席走遍祖国大地」(「毛主席は祖国の大地を巡遊する」1972年)という革命賛歌の大流行などはまさに毛沢東による調査研究の神格化を象徴している。

改革開放以降に,陸定一(建国初期は党中央宣伝部部長)は,毛沢東のもっとも貴重な遺産は調査研究そのものであり,それがなければ,マルクス主義の基本原理と中国の実情を結びつけることは不可能であると指摘している[陸 2013, 7]。言い換えれば,調査研究は党にとって理論と実践をうまく結びつける重要な方法であり,それを形作ったのは毛沢東であることを示唆している。党の公式歴史編纂部門である中共中央文献研究室が出版した『毛沢東農村調査文集』(1982年,人民出版社)の内容からみると,1949年建国以前,農村調査が毛沢東による調査の中心課題であったことは明らかである。しかし,この資料集には,1949年以降に作成された文章が一つもない。これはどのように解釈すればよいのだろうか。また,毛沢東以外の指導者による調査研究文集が次第に出版されたという近年の動向を受け,比較の視点から毛沢東による調査研究の特徴を再認識するという課題も浮上している(注1)

従来,中国の指導者による視察の先行研究では,伝統中国における皇帝の巡幸と権力の確立という視点が重視され,精緻な研究が積み重ねられてきた[Chang 2007; 平原 2008; 目黒 2011; 岸本 2012; 安川 2018(注2)。共産党政権に関しては,指導者の出自,職務,権力などの属性に注目した政治エリートの研究が散見されるものの,指導者の地理的空間的移動や地方視察については,ほとんど関心が向けられてこなかった[中川 1996; 平松 2002; 田原 2004; 鈴木 2012; 熊倉 2020]。一方,中国の学界では,党の調査研究に関する研究には多くの蓄積がある[羅 2009; 孫ほか 1984; 劉 2004; 陳 2009; 範・範 2015; 袁 2016]。しかし,これらの研究は概説的なものがほとんどであり,党の指導者は調査研究を通して末端の実態を的確に把握し,相応しい政策を立てたということを強調する傾向がある。

近年,党の調査研究とりわけ毛沢東による調査研究の効用を再検討する必要があると問題を提起した研究が登場しはじめた[張・費 2012; 賈 2014; 孟 2018]。とはいえ,指導者らがなぜ,いつ,どこへ何をしにいくかという行動様式と視察の実態は依然として明らかにされておらず,政策過程における視察の意義も課題として残っている。そのためか,方[2001]は,政治権力による調査研究が往々にして「査証式調査」,つまり最初に主張があってそれに見合う証拠を探す傾向に陥っているのではないかという重要な問題を提起し,この分野は,いまだ未開拓の領域であると指摘している。

しかし,広義には調査研究に位置づけられる地方視察は党の統治方式と正当性にかかわる極めて重要な課題である。Tsai and Chung[2017]の指摘した通り,革命期の遺産としての調査研究は現在でも共産党政権の適応性と正当性を高めており,党の指導者による政策決定過程において重要な役割を果たしている要素である。また,近代中国における社会レベルの調査研究に注目したLam[2011]は,情報収集と社会調査は,中国の近代国家の形成にかかわる新たな統治の技術であり,それを通して政治エリートは自らの政治的権威と正当性を創出したと指摘している。

以上を踏まえて,本稿は,歴史学的アプローチから共産党政権の指導者による地方視察,党の独特な言い方を借りていえば,いわゆる「調査研究」に焦点を当て,党の統治方法としての視察の政治的意義を検討する。具体的には,①地理情報システム(以下は「GIS」と略す)による可視化の手法を用いて,視察の行動様式を外形的に整理し,その結果に影響を与える要因を分析する,②史資料の読解を踏まえて,視察の機能とその実態を明らかにする,③具体例を挙げ,政策過程における視察の意義を分析する,という順を追って議論を進めていきたい。

Ⅱ 概念・方法・資料

本稿では,1950年代前半において「中央人民政府委員会」,またそのもとにある「政務院」,「人民革命軍事委員会」,「最高人民法院」,「最高人民検察署」の成員(委員クラス)を中央指導者として定義する。中華人民共和国成立の際に決められた法令において,以上の機関は国家最高指導機関と位置づけられたからである[中央人民政府法制委員会 1952, 1(「中華人民共和国中央人民政府組織法」1949年9月27日)]。地方視察については,海外訪問を除いて,目的を問わず,1949年10月から1955年12月にかけて中央指導者が首都・北京から離れるすべての外出活動という広い定義を用いる。人事異動がある場合,北京勤務の期間のみを取り扱う。本稿は1949~1955年を分析対象時期とするが,場合によってその前後の経緯に言及することもある。後述するように,人民共和国史の重要な節目として1955年の政治過程が指導者による視察の政治的意義を端的に示したと考えられるためである。なお,本稿においては「視察」と「調査研究」を同じ意味として理解し,文脈によって二つの呼び方を適宜用いる。

本稿が用いるGISによる可視化の手法について若干説明を加えておく。指導者の行動様式を地図上に可視化するため,年月日を追って各人物の出来事を記録した『年譜』から空間的なデータを取得する必要がある。そのため,表1に示した通り,本稿は,『年譜』が出版された35名の指導者を考察対象とする(注3)。具体的な応用手法としては,『年譜』から人物の移動情報(市や県級までの位置情報)を抽出し,GISソフトウェアのArcGISで当該人物の行動様式(多地点間を巡回する直線経路)を地図上に可視化するということである(注4)。建国初期において中国の省級行政区画は頻繁に改編されたため,本稿は現在の省級行政区画を地図のベースとして利用することにした。市や県級行政機関の位置情報はほぼ変化していないということを考慮すれば,これはGISによる可視化の結果に影響を及ぼさないと判断される。仮に市や県級行政機関の位置情報に変化が発生した場合,筆者は個別調整でアドレスマッチングを行うこととする。

また,史資料について,本稿は関係人物の『年譜』,『日記』,『文集』及び『回想録』など編纂された二次資料を主として利用する。当然ながら,最大の問題は,視察中において指導者の詳細な言動に関する一次資料を入手することがいまだに困難である,ということである。そのため,二次資料を慎重に考証,対比することが非常に重要となる。その補足として,本稿はこれまでの研究において比較的活用されてこなかった,『組織工作』(党中央組織部の内部雑誌),『建設』(華北局の内部雑誌),『西北公安』(西北公安部の内部雑誌),『毛沢東思想万歳』(文化大革命期に紅衛兵組織などが独自に編集発行した非公式の毛沢東集)など同時代の内部資料を用いる場合もある。こうした史資料の利用や指導者の移動に着目するGIS分析手法の導入は本稿の独創性を構成する重要な要素であると考えられる。

表1 考察対象リスト

(出所)中央人民政府人事部[1950]及び各人物の『年譜』より筆者作成。

(注)データはすべて1950年のものである。

Ⅲ 地方視察の行動様式

図1 35名の中央指導者の視察先の空間的分布(1949~1955)

(出所)国家統計局[1959]中国鉄道建設史編委会[2003],及び各人物の『年譜』,『日記』,『文集』より集計しArcGISにより筆者作成。

(注) 建国十周年(1959年)という節目に中国国家統計局が人口50万以上を基準に都市人口データを公表した。同時代の認識に基づいて本稿もこの基準を用いることとした。

図1は,合計35名の指導者による視察先の空間的分布をGISで可視化したものである。図1からは,指導者らの視察先は既存の鉄道網,ひいては人口50万以上の都市に偏在的に分布しているという特徴を視覚的に把握することができる。言い換えれば,農村の革命根拠地を起点にして勢力を拡大し,事実上「中国全土」を統治する立場となった共産党政権の指導者らは,建国以降の1950年代前半において,鉄道網でつながっており,一定規模以上の人口集積がある都市部への視察を頻繁に行っていた一方,農村視察をほとんど行っていなかったという構図を見て取ることができる。

問題は,この現象についてどのように解釈すればいいのかということである。まず,中央指導部は,鉄道網でつながっており,一定規模以上の人口集積がある都市部での施策を優先順位の高い項目と認識したため,当該地域への視察が頻繁に行われていたという可能性がある。しかし,この仮説は成り立たないと考えられる。なぜなら,建国初期の1950年代前半期に,土地改革,「統購統銷(統一買付,統一販売制度)」,農業集団化など社会主義政権の基盤形成にかかわる重要な政策が広大な農村地域で展開されていたからである。また,毛沢東個人レベルといえば,1954年から1956年まで他の政策課題と比べて彼の農業政策に対する関心が圧倒的に高かったという指摘がある[陳・孟 2016]。

次に,都市の人口集積やその経済的重要性に鑑み,それらの地域への視察が優先された可能性があるが,この仮説も成り立たないと考えられる。なぜなら,1950年代前半の中国において,主に都市部に立地すると思われる工業の年間平均生産額は350.5億元(当時)で,農業の年間平均生産額の454.8億元(当時)を大きく下回っていたからである。また,人口の面も同様である。1957年の統計によれば,人口50万以上の都市を合算して全国都市の人口は4613万4000人で,同年の全国人口総数6億5663万人の約7%しか占めていなかった。その反対に,農村人口は全国人口総数の93%を占めていたのである[国家統計局 1959]。つまり,人口規模にせよ,経済的重要性にせよ,農村の重要性が都市よりはるかに高いといえる。

それでは,農村が重要な空間であるにもかかわらず,なぜ,指導者らの農村視察が少なかったのか。治安への不安や交通事情が指導者らの視察の行動様式を大きく制約したというのは本稿の解釈である。なぜなら,常に臨戦態勢で固く身構えており,また特定の指導者の権威や意思決定に依拠して政治を運営する党からすると,指導者の安全確保は政権の存亡にかかわる最優先課題だからである。事実,1950年頃に,「米国は台湾で暗殺者を訓練しているため,我々は厳重に警戒する必要があり」,「指導者の外出にはルールが必要であり,行くべきではない場所に行かせてはならない」という中央公安部の内部指示があった[第九次全国公安会議秘書処1958, 25(「羅瑞卿同志在第二次全国公安会議上的報告」1950年10月16日)]。「行くべきではない場所」に関しては詳細不明であるが,図1に示したように,指導者があまり赴かない華南,西南,西北,及び全国の農村地域がそれに該当すると考えられる。

なぜならば,1950年代前半に,国共内戦の延長として,東北,華北,そして長江流域の都市部への党の統治は比較的安定していたが,より南と西に行けば,また農村地域に行けば武装集団を含む諸反対勢力が散在していたため,党の統治は一層不安定だからである。こうした不安定な地域への視察は危険性が高いため,安全確保の観点から許されなかったと考えられる。たとえば,視察の目的で江蘇省の省都に到着した柳亜子は同省の農村地域(本人の故郷)に赴きたかったものの,治安状況が不安定であるという理由で地方指導者に阻止されたことがある[柳1983, 149]。

また,図1に示したように,鉄道の分布は東北,華北,そして華東地域に集中している。行政単位についていえば,当時鉄道でつながっていたほとんどの場所は,市級として位置づけられた都市である[中国鉄道建設史編委会 2003]。その一方で,華南,西南,西北,および全国の広大な農村地域のほとんどは鉄道空白地帯であった(注5)。鉄道空白地帯に入るため,航空機の利用がもっとも効率的と思われる。しかし,1950年代において中国は中小型航空機しかもたず,また経験豊富な飛行士が不足していた問題もあるため,山岳地帯など複雑な環境下の飛行や長距離飛行は困難であった[張 2004, 43-44, 47, 52-53]。そのため,安全確保の観点から毛沢東の飛行機による移動が原則として禁じられたという[李・彭 1997, 144]。

もちろん,自動車を利用して鉄道空白地帯に入ることも可能である。しかし,指導者の激務,広大な国土,自動車道の整備が大幅に遅れていた時代背景を考慮すれば,多くの時間と体力を要する自動車による視察は非現実的である。また,国内外に不測の事態が起きた際,鉄道施設から離れていた指導者は,迅速かつ安全に政治中心地の北京に戻れず,政権運営や指揮命令系統が混乱する可能性が高い。そのため,農村地域を視察する意思の有無にかかわらず,鉄道でつながっている場所への視察しか許されないという現実に指導者が直面していたと考えられる。以上のように,華南,西南,西北,及び全国の農村地域への視察が少なかったという図1の構図は,治安への不安や交通事情といった文脈で解釈したほうが妥当と考えられる。

その他,視察のタイミングについて,北京の天安門広場で式典が行われる5月1日(労働節)と10月1日(国慶節)は可能な限り避けられたことが『年譜』から確認できる。それについて,毛沢東は,「『五一』や『十一』になると,北京に戻って罰として立たせるわけだ」と自嘲したことがある[謝 2013, 95-96]。なぜなら,重要な式典の欠席は,本人の権威失墜を連想させるからである。たとえば,朱徳は,体調不良にもかかわらず,「天安門に登らないと,私は何か間違ったことをして天安門への登場が禁じられたと思われるかもしれない」と語り,無理矢理に天安門広場での式典に出席したことがある[李 1994, 113]。

なお,留意すべきは,1949年から1957年にかけて『人民日報』などの公式メディアは指導者による視察をほとんど報道しなかった(注6)。言い換えれば,一般民衆にとって指導者の視察や国内移動は全く知らされていないことであった。当時,党中央辦公庁の規定によると,党の指導者の行方は機密扱いであったといわれる[呉2004, 125]。ところが,宋慶齢のような非共産党員の指導者も含まれているようである。たとえば,視察出発前に,宋慶齢は知人への手紙の中で,「私の行方について秘密を守ってくれ。これは非常に重要である」と強調したことがある[宋慶齢基金会 2004, 220(「致王安娜」1950年4月)]。

前述した「毛主席は祖国大地を巡遊する」という革命賛歌が讃えていたように,毛沢東の視察については中国全土の隅々まで徹底して行われ,あたかも彼が中国のあらゆる事情を把握していたかのような壮大な「物語」が作られていた。しかし,少なくとも1950年代前半において毛沢東の行動範囲は必ずしも広いとはいえない。図2は,北京から視察先への平均の直線距離を人物別で示している。距離の計算にあたって,北京と各視察先の緯度経度座標間の直線距離の平均を,指導者の行動様式を可視化した図3の座標に基づいてArcGISのポイント間距離ツールより算出した。図2に示した通り,合計35名の指導者の中で,第1位は社会学者出身の費孝通(1553km)であり,全国を巡遊したと讃えられる毛沢東(689km)は,第27位に過ぎない。

図2 北京から視察先への平均直線距離と指導者の年齢

(出所)図3に基づいてArcGISにより算出し筆者作成。

(注)「*」マークは共産党員の指導者である。

図3 人物別からみた地方視察の行動様式(1949~1955)

(出所)各人物の『年譜』,『日記』,『文集』より集計しArcGISにより筆者作成。

(注) 実線は指導者の実際の移動経路ではなく,移動先の緯度経度座標間の直線距離である。その太さは,往復の回数を意味している。なお,斜線部分は指導者本人の出身地である。

党派属性を合わせて考えれば,共産党員の指導者と比べて,いわゆる「民主党派」の指導者の行動範囲は比較的広いという特徴も図2から看取できる。図2によれば,上位7位を「民主党派」の指導者が占めており,党の最高指導部の構成員は,周恩来(12位),陳雲(17位),劉少奇(20位),朱徳(23位),毛沢東(27位)という順となる。つまり,視察(調査研究)は共産党の歴史的伝統であるという一般的な通説の中身を問い直す必要性が出てくる。さらに,年齢の要素を取り入れて考えれば,年齢的に若い指導者は体力があるため,視察をより広く行うという仮説はあり得るが,図2より指導者の行動範囲は年齢との相関関係がみられない。

それでは,図3に示された35名の指導者の行動様式には一定の差異が生じたのはなぜか。以下の3点の原因が推測される。1点目は,指導者本人の職務である。たとえば,図3によれば,彭徳懐は沿岸部の軍事的要地への視察が多く,35名の指導者のなかで彼は台湾海峡を臨む福建省を視察した唯一の指導者でもある。当時軍の工作を実質的に指導する立場の関係で,米国や台湾に撤退した中国国民党と対峙する軍事的情勢を意識する彭徳懐は,国防にかかわる沿岸部を頻繁に視察した経緯が『彭徳懐年譜』から確認できる。また,北京から視察先への平均の直線距離がもっとも長い費孝通の場合,当時中央民族学院の副院長を兼任し,民族の帰属や創出を行政の手段で確定する「民族識別工作」の実務を担当していたため,少数民族が多く居住する西南地域への視察を多く行ったことが『費孝通全集』に記載されている。同様に,中国科学院副院長を兼任していた竺可楨は土壌流出の問題を担当しているため,黄河流域への視察が多く,政務院華僑事務委員会主任の何香凝の視察先は,華僑が多く存在する上海市と広州市に集中していると思われる。そのほか,西南地域の職務を兼任していた鄧小平と賀龍は当該地域への往来が頻繁であった一方,首都・北京市の職務を兼任していた彭真と呉晗は,北京から離れて視察をほとんどしなかったとみられる。

2点目は,指導者本人の意思である。図3に示した通り,合計35名の指導者のうち,17名(北京出身の舒慶春を除き)は自身の出身地を視察したことがある。その中で,黄炎培,馬寅初,徐特立の視察先は殆ど自らの出身地に集中している。自らの出身地に赴く傾向は,ゆかりの薄い地方と比べて,故郷とのつながりを通じて何らかの問題を発見しやすいという指導者本人の意思を反映していると考えられる。

3点目は,指導者本人の健康状況である。たとえば,『張瀾年譜』によれば,1950年代前半において健康状況に問題がある張はずっと病臥しており,その後1955年に死去した。このような理由で,張が視察を一度も行わなかったと考えられる。また,脳の病気を患い,1958年に死去した柳亜子の状況も類似しており,視察活動は非常に少なかった。

Ⅳ 地方視察の機能とその実態

1.情報収集機能

本節では,視察の機能とその実態を中心に考察を進めたい。毛沢東は,1941年には早くも,「実態を把握するには社会調査が唯一の方法である」と視察の情報収集機能の重要性を強調したことがある[毛沢東文献資料研究会 1983, 2版7巻: 285(「農村調査序言」1941年3月17日)]。指導者が官僚制の多重構造を乗り超え,現場の声を直接聞き取れるという点からすると,視察の情報収集機能は十分な効果があると思われがちであるが,はたしてその実態はいかなるものであったのだろうか。

まず,指導者を取り巻く視察の環境を確認してみたい。端的にいえば,多重構造の官僚制において,末端の幹部は損失回避のための情報隠蔽,あるいは利得増大のための実績誇張をする動機を常にもっているという問題がある。たとえば,当時党の上級幹部のみに配付される新華通訊社の『内部参考』の指摘によると,海軍第一学校の生徒らが『人民日報』に対して,上からの視察者は彼らの故郷である河南,河北,安徽などの農村にほとんど入らず,入ったとしても民衆は末端の幹部に口止めされていたため,視察者は農村の苦境を全く知らないとの意見を具申したといわれる[新華通訊社1956, 707-709(「人民日報読者来信反映農民生活太苦」1956年11月29日)]。

また,瀋陽市ゴム第4工場の問題も典型的な例である。同工場は上からの視察者に対応する際のみ稼働する,効率的な生産を演出するための機械を用意しており,1951年から1952年まで2年連続で市の「模範工場」と表彰されていた。しかし,実は,同工場の生産量は増加しておらず,むしろ毎年減少していたことが後に発覚した[中共中央華北局建設編委会 1953, 20-22(「与某些国営廠鉱企業隠瞞錯誤謊報生産成績的悪劣行為作堅決闘争」1953年9月)]。その他,平原省聊城地区のある教育機関の下級幹部は,「県の視察団を迎えるため,上が各村の教員に学校を片づけようと通達を出し」,「視察団の目的は何かよくわからないが,こうして片づけると,実情がみえないのではないか」という素朴な疑問を『平原教育』という雑誌に投げかけた[平原教育社1951, 43(「這様視察能看出真実情況嗎」1951年)]。もちろん,「片づけ」は不都合なことの隠蔽を隠喩している。一概にはいえないが,以上の事例は,末端の幹部が何らかの形で歪められた情報を視察者に発信したいという傾向を示唆している。

次に,35名の指導者を「毛沢東」と「毛沢東以外の指導者」に分類し,それぞれの情報収集の効用を総合的に考察する。分類の理由としては,後述の通り,毛沢東は官僚制を超越する視察の特権を独占したためである。

『年譜』の記載によると,視察にあたって,「毛沢東以外の指導者」は,一般大衆や下級幹部と接触せず,省,市,県級の地方指導者との座談会を通して末端の状況を把握することが一般的である。問題は,視察先で「毛沢東以外の指導者」がどこまで自由に行動でき,また政策現場の問題をどこまで察知できるかということである。この問題を考える上で,1953年に中央が出した二つの規定が重要なポイントとなる。一つは,1953年5月,「各中央部門による視察はあまりにも頻繁で」,「現地に大きな負担をかけ」,また「視察者は独断で事を運ぶ傾向があり,その発言も不慎重である」という理由で党中央が発出した視察活動を統制する規定である[中共中央組織部 1953, 1-4(「中央関於中央一級各部門派人下去検査工作的幾項規定」1953年5月)]。同規定のもっとも重要な部分は,毛沢東が加筆した,「特殊な者を除き,視察者は視察先の上級機関を超えてならず,それを経由して視察を進めるべき」との文言である[中共中央文献研究室 1990, 4冊: 208(「在中央関於派人下去検査工作的幾項規定稿中加写的話」1953年4月28日)]。曖昧な意味をもつ「特殊な者」とは,毛沢東ないし毛沢東に認められた者を指していると考えられる。

もう一つは,同年10月,中央政府の政務院が出した「党,政府,軍,大衆団体のすべての指導者は農場,工場,企業,学校を視察する際,当該地方の指導者の許可を得る必要があり,また原則として現地の指導者に随行される」という規定である[西南行政委員会辦公庁1953, 3(「関於党,政,軍,群負責人員視察,参観,休養,旅行時,地方負責人不許接送,宴会和送礼的規定」1953年10月15日)]。この規定の発出には,現地における視察者への過剰接待の問題が発覚し,綱紀の粛正が求められていたという背景がある(注7)

以上で取り上げた二つの規定の発出,とりわけ毛沢東の規定への加筆は非常に興味深い。なぜなら,「特殊な者」を除き,他の指導者は事前の予告なしに抜き打ち検査を行えず,地方党政機関がみせてよいと判断する現場しかみられないという情報隠蔽の構造が条文の規定上強化されたからである(注8)。その代わりに,「特殊な者」,つまり毛沢東ないし毛沢東に認められた者のみは官僚制に対して超越した権威をもち,いかなる場所でも自由に抜き打ち視察を行い得る。これにより,「特殊な者」は空間支配のための排他的な権威を独占し,中国の「実情」を恣意的に解釈することが可能となる。

それでは,いわゆる「特殊な者」の毛沢東の視察はいかなるものであったのか。視察にあたって鉄道沿線の下級幹部および一般大衆を随時呼び出して実態を確認するため,毛沢東は機動性や自由度の高い列車という移動方法を好んでいたといわれる[葉 2000, 232; 謝 2013, 53-59, 95-96]。毛沢東は,これによって,党内や政府内における書面報告の真実性を確認し,また現場の事前準備に騙されずに視察の主導権を握れると考えていた[李 2013, 228, 368]。一般的には,この特権的な視察方法はもっとも効果的だと思われるが,実際には疑問点が残る。一部の関係者の回想録では,毛沢東がこの視察方法を通して末端の実態を的確に把握し,民衆との関係がいかに密接であったかという「物語」が度々語られている[高・張 1993, 112; 沈 1993, 1-4; 王 2013, 287]。その一方で,地方党政機関は毛沢東の身辺警護に神経をとがらせ,民衆を一人残らず排除した視察現場を作ったが,その不自然さを払拭するため,警護関係者がわざわざ通りすがりの人を装っていたという毛沢東側近の回想も存在する[侯 1993, 133-134; 李 1994, 124]。

これらの証言は一見矛盾しているようにみえるが,そもそも,最高指導者の毛沢東にとって一般民衆や下級幹部への声掛けは容易なことであろうか。答えは否である。公安の内部指示によると,指導者の外出にあたって,身辺警護をする衛兵,巡回警備する機動隊,立番等をする公安,一般民衆に混じる便衣兵という四層警護体制の構築,また事前に周辺住民への聞き込み捜査の実施が要求された[西北公安編集委員会 1950, 13-16(「城市首長保衛工作」1950年4月)]。これについて,毛沢東の現地警護を統括した経験がある王芳(当時,浙江省公安庁庁長)は,毛沢東の視察先と想定される場所において,現地の公安人員は事前に商店,飲食店,旅館,お土産屋などの従業員を装い,周囲を監視しつつ,厳重な警戒態勢を敷いていたと証言している[王 2006, 172-174]。

また,不測の事態に備え,鉄道時刻表の随時改正や警護の大量調達を実現させるため,中央公安部部長と中央鉄道部部長が必ず毛沢東の視察に随行したといわれる(注9)。当時の非常警戒態勢について,1955年に上海辺りで毛沢東と思われる某中央指導者の専属列車と遭遇した宋雲彬(当時,浙江省政治協商会議副主席)は日記で「我らは列車の中で約1時間待たされ」,「すべての窓は閉められ,乗客は立ち上がることも禁じられた。非常に緊張した雰囲気だった」と記した[宋 2002, 380]。

上記のような言説は,朝鮮戦争や台湾に撤退した国民党政権との対峙という当時の時代背景,とりわけ1955年に発生した周恩来の暗殺を狙ったカシミールプリンセス号爆破事件(注10)などを考えればあながち空虚なものとはいえないが,こうして厳重な警戒態勢が敷かれていた状況の中で,毛沢東が声を掛けた対象者が,無作為に抽出された調査対象ではないことは想像に難くない。それについて,毛沢東の衛兵・李連成は,「映画や新聞では民衆に囲まれた毛沢東の姿がよくみられるため,皆は毛沢東が自由であると思い込んでいる」が,「それは組織され,用意されたものであり」,「毛沢東は誰と会えるか,相手は何を話せるか」について,「省や市の指導者は完全な準備をしている」と証言している[権 2006, 252-254]。つまり,毛沢東の身の安全を守るためか,現場の情報を操作する思惑かはともかく,毛沢東の聞き取り対象者であった一般大衆や下級幹部は選別,用意された者であり,いわゆる直接会話は演出されるものであった可能性が極めて高い。

もちろん,毛沢東は「ヤラセ」の問題を察知していた。当時中央警衛団参謀長の張随枝の回想によれば,視察先で状況を聞かれた民衆が実際は偽装された現地の公安であったことを,毛沢東は何度も見抜いて非常にがっかりしたという[張 1998, 105, 116]。「私がどこに行っても,彼らは準備する。実情のみえる君たちが末端に入るべき。本当のことを教えてほしい」[李・楊 1998, 709]という毛沢東の衛兵に対する発言が示したように,「ヤラセ」への対策として,毛沢東は側近の衛兵を視察代理人とする間接的な調査方法を好んで用いた。なぜなら,地域社会で親族や友人などのつながりをもつ衛兵に対してならば,現地の人々が忌憚なく話せると想定したからである。「制式訓練を少なくして文化や科学をもっと勉強すべき。私は先生であり,君たちは私の学生である。君たちは文化をもち,問題を分析する能力を身に付けなければならない。君たちは私にとって素晴らしい耳目になるはずだ」という毛沢東の衛兵に対する発言から衛兵の役割が如何に特別なものであるかがわかる[張 2012, 85]。また,衛兵が出発する前,毛沢東は調査報告書の作成方法を指導し,場合によって衛兵の「帰省」に飛行機を用意したことすらある[張 2012, 71, 88]。後述のように,毛沢東は自分の代わりに現地調査を行った衛兵を「義士」と呼ぶわけである。いずれにせよ,こうした視察代理人の利用は,毛沢東本人の直接的な視察には大きな支障があったことに起因していると考えられる。

ただし,留意すべきなのは,情報収集に視察代理人を利用したのは,毛沢東だけではなかった点である(ただし,毛による派遣頻度はもっとも高い)。たとえば,周恩来は衛兵,朱徳は秘書を現地調査に派遣したことがある。また,陳雲の場合は,側近を現場に派遣するのではなく,故郷の農民を北京まで出向かせる方法を使った[中共中央文献研究室 2006, 1468, 1491; 2007, 286; 2015, 235-236]。言い換えれば,毛沢東だけではなく,党の最高指導部における他の構成員でも,その視察には類似する支障が生じたのである。

一般民衆の生の声が聞こえない問題に対して,彭徳懐は,「(視察の際:筆者)警護が多すぎて,民衆を隔離したり,追い払ったりし」,「共産党の指導者は,民衆に近づかなければ,かつての皇帝と同じようになってしまうだろう」[王 1998, 603]と批判したが,国内外の「敵」が政権転覆や指導者暗殺を常に狙っているという仮定に基づく厳重な警護体制が機能し,そして存続する限り,これは原理的に解決不可能な問題であろう。つまり,1949年以前の革命期において毛沢東をはじめとする党の指導者は末端に入り込んでリアルな農村社会をある程度自由に観察し,たとえば,毛沢東が下級幹部,農民,商人,秀才,獄吏など様々な階層の末端の者と素直に胸の内を話し合え,秀逸で生き生きしている「尋烏調査」(1930年),「興国調査」(1930年)など調査の名文を作成することが可能であったが,1949年建国以降,肥大化する国家機関や多重構造の官僚制が確立するにつれ,彼らを取り巻く視察の環境は大きく変化し,視察という方法を通して統治や施策に必要とされる知識や情報を入手することが極めて困難になった。後述のように,この問題も政策過程における視察の意義を分析する重要なポイントとなる。

2.宣伝機能

一方で,視察のおもな目的は,実態把握と情報収集であったはずが,実際には視察そのものが国内外に対する宣伝の材料に転じた場合がある。この場合,視察は,情報収集機能ではなく,宣伝機能を果たしていたと考えられる。宣伝機能を分析するにあたり,本節では,比較的高い影響力をもつと判断される宋慶齢の事例を考察する。

朝鮮戦争勃発後間もなく,1950年10月中旬から同年11月中旬にかけて宋慶齢は朝鮮半島に隣接している東北地域を視察し,同年12月12日に毛沢東宛てに農業,工業,文化事業,福利厚生など多岐にわたる分野を絶賛した視察報告書を提出した。宋慶齢は,その文末で,「私が視察した事情を国際社会に公表すべき」,「土地改革を経て我が国の農民の生活水準が向上したことを宣伝すべき」と要請した(注11)。翌年5月1日労働節の節目で,一定の内容を取捨選択された当該報告書は,New China Forges Aheadという題目で中国の対外宣伝誌であるPeople's Chinaに公表され,またMme. Sun Yat-sen in Northeast China(中国の東北にいる孫文夫人)を見出しとする数十枚の視察写真が載せられた[Soong 1951, 11-29]。People's Chinaとは,「解放後の中国人民の思想と生活を紹介し」,「中国人民と世界各国の進歩した人民との団結や友情を増強すること」[Foreign Languages Press 1950, 3]を主旨とし,中国政府の立場を代弁する英文誌である(1950年創刊,発行部数1万部)。国際社会向けの宣伝は宋慶齢本人の意思によるものであるが,New China Forges Aheadが発表された同日,その中国語翻訳版は「新中国向前邁進・東北旅行印象記」という題目で『人民日報』に掲載され,国内向けの宣伝にも使われた[『人民日報』1951「新中国向前邁進・東北旅行印象記」5月1日]。『人民日報』の場合,孫文夫人ではなく,宋慶齢副主席という呼び方が使われ,また視察写真は2枚しか掲載されなかった。同年7月,同文章は単行本として中国国内で出版された(発行部数4万部)[宋 1951]。

以上の経緯から考えると,朝鮮戦争において中国側の後方支援の役割を果たしていた東北地域の順調な発展を全面的に賞賛し,また視察という「根拠のある」方法に基づいて作成された宋慶齢の視察報告書の公表が,朝鮮戦争の情勢を意識した国内外に対する宣伝に利用される意図が読み取れる。そして,孫文夫人という呼び方や写真の掲載様式の使い分けは,中国側が繊細なイメージ操作を行ったことを示唆している。

しかし,宋の報告書の内容を注意深くみると,「ヤラセ」の問題が存在したことに気づく。宋による報告書には,金成林(呼蘭県永貴村村長),Hu Ya-tung(双城県民和村村長),劉英蘭(双城県民和村供銷社社長),韓恩(蛟河県保安屯村幹部),保羅金(ハルビン鉄道工場労働者),龐璽順(ハルビン鉄道工場労働者)など党のプラスイメージにつながる人物が詳しく紹介されていた。実際,金成林以外の人物は全員,既に「模範」として表彰されていたのである[『人民日報』1950「全国工農兵労働模範代表会議全体正式代表和列席代表名単」9月28日; 沈 2011, 182, 185-186]。言い換えれば,宋慶齢が視察先で接触した末端の人物は,地方当局が用意した好都合な事例であった。毛沢東宛ての視察報告書では,宋慶齢は「これらの場所を選ぶ理由は,交通が便利であること」[沈 2011, 194]と語り,「ヤラセ」の問題を意識していなかったようである。これも前述した視察の情報収集機能の限界と関連している(注12)。無論,宣伝の実際の効果について,検討する余地があると思われるが,真実味をもたせるため,党は裏づけがとれているようにみえる視察を宣伝に利用する方法を重視していた点は注目すべきである。

Ⅴ 政策過程における地方視察の意義

1.1955年農業集団化の問題をめぐる毛沢東の地方視察と状況認識

視察での情報収集が政策決定の大前提であるという党の認識は,「調査研究に関する党中央の決定」という1940年代の指示から読み取れる。この指示は「系統的かつ緻密な社会調査は政策決定の基礎であり」,「指導機関の基本的な任務は,実情と政策効果を把握することであり,それを把握していなければ,政策は必ず間違ってしまう」と情報収集の重要性を強調した[毛沢東文献資料研究会1983, 2版8巻: 17(「中共中央関於調査研究的決定」1941年8月1日)]。換言すれば,指導者が視察で現場の声に込められた情報を獲得すれば,効果的な政策決定がなされるはずだという発想である。しかし,はたしてその実態はどのようなものなのだろうか。

本節では,毛沢東時代の中国政治に多大な影響を与えた1955年農業集団化再加速の問題に注目し,政策過程における視察の意義を考察する。1954年末から1955年初頭にかけて,「行き過ぎた集団化」を背景に,合作社の社員が退社し,農民が家畜を大量屠殺するなど集団化への反発が各地で起きていたため,集団化を穏健に発展させるべきという中央農村工作部(以下は,「農工部」と略す)の意見を受け,党中央は発展よりも既存組織を強化すべきだと指示し,穏健路線への転換を図ろうとしたものの,同年4月から毛沢東は再び急進方針を提起し,その後集団化の再加速を強引に推し進めたことは周知の通りである(注13)

1955年頃,「急進派」の毛沢東と「穏健派」の農工部との対立は多方面にわたっていたが,大まかにいえば,①農村では誰がどの程度集団化を支持しているか,②農村の緊張した状況の発生要因は何か,という2点が焦点となる。これにより,集団化の推進速度をめぐる判断が異なるようになる。要約すれば,①に関して,毛沢東と農工部は,農村のアクターを富農,上層中農,下層中農,貧農に分けるという階級分析の視点は基本的に共通していたが,毛沢東は貧農と下層中農を一枚岩として捉え,農民全体の6~7割を占める彼らは社会主義への情熱があり,集団化を積極的に支持していると主張した。一方,農工部は,農民の社会主義に対する情熱を過大評価してはならず,どの階級にも集団化を支持しない動機が存在し,その強度は富農,上層中農,下層中農,貧農という順に逓減していくと主張した。

②に関して,毛沢東は,下級幹部による脅迫と一定程度の食糧不足が農村の混乱を招いたと判断し,これらの問題が解決されれば,貧農と下層中農を中核として集団化を加速させることは可能であると考えていた。一方,農工部は,集団化の急進化が混乱を起こした真の要因であり,中長期的発展に向けて,諸階層間の利益調和,管理人材の育成,農機具の整備など集団化の土台を根気強く構築する必要があると考えていた[黄 1992, 247-153(「関於農業合作社問題」1955年7月31日); 中国人民解放軍国防大学党史党建政工教研室 1986, 545-550(「在全国第三次農村工作会議上的開幕詞」1955年4月21日); 鄧 2007, 255-292(「関於農業合作化運動」1955年5月6日)]。どちらかというと,1955年前半に中央指導部において外形的側面(集団化の組織率)を重視する毛沢東は少数派であり,実質的側面(集団化の経済効果)を重視する農工部は多くの支持を得られていたとみられる。

こうした毛沢東の状況認識の形成過程を考える上で,彼の視察とりわけ視察代理人の利用の分析は極めて重要なポイントである。なぜなら,1955年初頭,農村の実態をどう捉えるべきかを決めかねていた毛沢東は農工部の穏健方針に対して明確な反対意見を示していなかったが,同年4月から度々の視察で得られた情報に基づいて彼の姿勢は次第に急進化へと傾斜していったからである(注14)。毛沢東本人の告白によれば,1955年の視察は建国以降初めての本格的な社会調査であった[中共中央文献研究室 1999, 8巻: 260-261(「在広州中央工作会議上的講話」1961年3月23日)]。その最初のきっかけが毛沢東の衛兵長・李銀橋と古参衛兵・李家驥の農村調査であった。

1955年2月,毛沢東の指示を受け,李銀橋は帰省の名目で故郷の河北省安平県の農村を調査し,同年3月初頭,彼は集団化における下級幹部の脅迫行為が農民の生産意欲を低下させたという旨の報告を毛沢東に提出した[李 2006, 296-297]。同月5日,毛沢東はこの報告を河北省党委員会書記の林鉄に転送し,詳細な説明を求めた[中共中央文献研究室 2003, 451(「関於注意処理群衆自願入社問題給林鉄的信」1955年3月5日)]。同月12日,林鉄は返信の中で,同年1月から3月まで河北省における合作社が3倍に増加したことは,農民の集団化に対する熱情に起因しているが,下級幹部の脅迫行為もあまねく存在していると説明した[中共河北省委党史研究室 2005, 163]。

また,同年4月,故郷の山西省盂県を調査した李家驥は,食糧問題は農工部の報告ほど深刻でなく,実際に十分な食糧をもっている豊かな中農のうち半分以上の者は国家に買収されないように食糧を故意に隠したという旨の報告を毛沢東に提出した[李 2013, 430-431]。換言すれば,李銀橋と李家驥の調査を通して,毛沢東が得られた情報は,農民の集団化に対する熱情の高さ,下級幹部の脅迫行為,食糧問題の過大視という3点である。これらは,下級幹部の脅迫行為と食糧問題を改善させれば,農民の集団化に対する熱情を推進力として集団化を再加速させることは十分可能であるという毛沢東の状況判断の枠組みを形作ったと考えられる。

なぜなら,両衛兵の報告を受けてから,毛沢東はこれまでの沈黙を破って,農工部への反対意見を明確に示したからである。同年4月末,毛沢東は,全国第3回農村工作会議で李銀橋が調査した河北省の事例を度々取り上げ,農民の集団化に対する熱情の高さ,合作社の順調な発展を強調し,農工部の状況判断に異を唱えた。その上,毛沢東は,「私は前後16省を調査し,98%の合作社は問題なく」,「幹部は私が欲しい情報だけを提供するので,幹部ではなく,私は義士を調査に使った」と根拠を示した[鋼二司武漢大学総部 1968, 55-59(「在農村工作会議上的講話和挿話」1955年)]。もちろん,「義士」とは,前述した李銀橋と李家驥のことを指している。

同時に,毛沢東自らも杭州視察を行い(同年4月中旬),この視察中の見聞は李銀橋と李家驥の調査報告を傍証したものであった。同年5月1日,北京に戻った毛沢東は,全国の農村工作を統括し,農工部の意見を賛成している国務院(政務院の後身)副総理の譚震林に「集団化はもっと加速できる。私はこの前の視察中,沿道の農作物がよく育っている様子をみて」,「農民の生産意欲は高く,合作社に対する態度も積極的であり」,視察では「柯慶施(上海市党委員会書記:筆者)は『下級幹部の3分の1は,集団化に対して消極的だ』と教えてくれたが,これは中央のある機関の指導方法に関係している」と伝え,同月9日に同じ理由で鄧子恢など農工部の指導者を説得しようとした[中共中央文献研究室 2013a, 1337; 2013b, 2巻: 367]。つまり,1955年4月の杭州視察をきっかけに,集団化で発生した問題は「中央のある機関」=農工部の間違った指導方法によってもたらされたと毛沢東は認識しはじめた。

同年6月中旬,毛沢東は再び南方視察に赴き,浙江,江西,湖南,湖北,河南,河北6省の指導者の口頭報告を聞き取りした。北京に戻った当日,毛沢東が即座に農工部部長の鄧子恢を呼び出し,合作社の計画目標を130万個に,すなわち当時の2倍に引き上げるよう求めたことを考慮すれば,口頭報告の内容は集団化の再加速を支持するものであったと推測される。しかしこの頃まで,鄧子恢は穏健方針を変えず,毛沢東の要求に応じなかった。

同年7月19日,20日,22日,毛沢東は総計15名の衛兵と順次談話し,彼らの調査報告書を確認した。衛兵らの報告は,①集団化に対して農民は積極的であるが,下級幹部に脅迫されたという問題もあったこと,②食糧不足を叫んでいるのはおもに中農であるが,実際はその多くが食糧を故意に隠していること,③自然災害が食糧不足の問題をもたらした一因であること,という三つの要点を取り上げていた[中共中央文献研究室 1991, 5冊; 208-211(「在中央警衛団戦士的幾份農村情況調査上写的文字」1955年7月); 中共広西区党委宣伝部 1993, 96-100; 高 1995; 陳 2009, 99-103; 常 2012; 中共中央文献研究室 2013b, 2巻; 401-404; 奉立群ほか 2012「82歳新化老人奉孝同」『三湘都市報』12月9日]。こうした情報は,前文で取り上げた李銀橋と李家驥による調査報告の趣旨とほぼ一致しており,集団化の再加速を推進しようとする毛沢東の自信をさらに強めた根拠となった。

15名の衛兵の調査報告を受けた直後,毛沢東は同月31日の省・市・自治区党委員会書記会議において,「農業合作化問題について」と題した演説の中で,農工部を「纏足女」と揶揄し,農工部が堅持した穏健方針を徹底的に批判し,合作社の計画目標の倍増を決定した。その結果,この演説を機に,各地方党政機関は合作社設立計画を見直し,毛沢東の予想を超えて合作社の数が雪だるま式に膨れ上がったことは周知の通りである。しかし,以上の経緯からみえてくるのは,集団化の再加速をめぐる毛沢東の状況認識は単なる主観的な信念だけではなく,「直接的」もしくは間接的な視察で得られた「客観的」な情報に基づいて積み重ねられた側面も強かったことである。

2.毛沢東による地方視察の問題点

図4 毛沢東の視察先(1949 ~ 1955)と『高潮』に取り上げられた合作社の空間的関連性

(出所)中共中央辦公庁[1956]中国鉄道建設史編委会[2003]中共中央文献研究室[2013b]より集計しArcGISにより筆者作成。

しかし,「客観的」な情報はあくまでもカッコつきなのであり,毛沢東による視察にはいくつかの問題点が存在した。1点目は,農村視察を行わなかったことである。それをGISで可視化したのが図4である。図4によると,毛沢東が鉄道から離れた場所=農村をほとんど視察しなかったことは明らかである。また,1955年9月から同年12月まで,毛沢東は自らの主張を体系的に説明するため,全国各省における188カ所の合作社の事例を紹介する資料を慎重に加筆修正し,『中国農村的社会主義高潮』(以下は,『高潮』と略す)という集団化の「教科書」の編集に没頭した(1956年1月公刊,発行部数152万部)。編集者の毛沢東による104件の評語が付け加えられた『高潮』は毛沢東の集団化に対する認識を反映する重要な資料集であるが,図4によると,毛沢東の視察先(1949~1955年)は,毛沢東本人が『高潮』に取り入れた188カ所の合作社の位置情報と1カ所も一致せず(図形の問題上,一部は重なっている),つまり毛沢東はそれらの合作社を一度も視察しなかったということになる。これは,毛沢東の現場感覚の欠落を理解する基本的な背景となる。

2点目は,間接的調査への依存という問題である。前述の通り,毛沢東自身は農村視察を行わず,側近の衛兵を視察代理人とする間接的な方法で農村の実態を把握しようとした。しかし,視察代理人にはいくつかの問題が存在した。当時,ほとんどの衛兵の教育水準は小学校レベルないし非識字の状態にとどまっており,読み書きすら問題があった[張 1998, 164; 李 2006, 285(注15)。ある衛兵と毛沢東との問答からみると,衛兵は自らの故郷以外に中国国内における各省の位置さえも知らなかったようである[張 1998, 162]。このような衛兵にとって,下級幹部による脅迫行為など表面的事象を指摘することは容易だが,農工部が主張した,急進的な集団化政策こそが要因であるという本質的かつ全国的な問題を見極めることは至難の業である。また,全員が貧農出身であったといわれる衛兵[馮 2008]は,貧農の立場を代弁する傾向があり,中農,富農などに対して強い不信感を抱かれていたようにみえる。そのためか,衛兵による視察報告書では,中農は食糧を故意に隠していることが指摘されたが,集団化における中農,富農などの複雑な心境を伝える情報は一切なかった。その上,毛沢東の元に上がった衛兵の報告書は意図的に操作された可能性もある。ある衛兵の回想によると,毛沢東の逆鱗に触れないように,衛兵隊の責任者は毛沢東の意に沿わないような調査報告書を却下し,衛兵の言論を統制したことがある[陳 2009, 80]。

3点目は,先入観の問題である。つまり,毛沢東が事前に衛兵の調査に一定の枠組みを与え,衛兵の認識を妨げたことである。たとえば,1955年5月上旬,衛兵の大規模な調査派遣の前,毛沢東は「食糧が足りないと叫んでいる人を信じてはいけない。本当に食糧がないのは,そのうちのせいぜい10%ぐらいである」と衛兵らを教育した[毛 1955]。10%という数字がどのように得られたのかは全く不明であるが,農村の問題は農工部の報告ほど深刻でないことを意味しているこの発言は,前述した李家驥の調査報告と毛沢東自らの杭州視察での見聞を反映しているといえる。結果として,前述の通り,同年7月末に衛兵による調査報告の内容は毛沢東が設置した枠組みから逸脱することができなかった。

3.毛沢東以外の中央指導者の視察

以上のように,本稿は毛沢東による視察の問題点を指摘した。では,毛沢東以外の指導者の視察が1955年集団化の政策過程にどうかかわっていたのだろうか。残念ながら,毛沢東のおもな論争相手である鄧子恢の『年譜』や『日記』などは出版されていない。『鄧子恢伝』[鄧子恢伝編集委員会 1996, 479]によれば,1955年1月,鄧は武漢,長沙,広州3市を視察したが,その実態は不明である。ただし,国内視察で得られた「客観的」な情報を根拠とした毛沢東と比べて,鄧はソ連やハンガリーなど社会主義国家の事例を取り上げ,国際比較の視点から持論を語る傾向がある。他の指導者らにとって社会主義国家の原理を機械的に応用するようにみえる鄧子恢よりも,中国の「実情」を踏まえた毛沢東の言説のほうが説得力のある,受け入れやすいものであろう。事実,毛沢東がこの点をうまく掴み,「ある同志(鄧子恢:筆者)は公務だけを行い」,「一般幹部や大衆と接触せず」,「このような同志は政治的な空気を読めず,すでに普遍的に存在している物事(農民の集団化に対する情熱:筆者)を察知できない」と主張し,鄧子恢の正当性を弱めることを目指した[鋼二司武漢大学総部 1968, 76(「在七届六中全会拡大会議上的総結」1955年10月)]。

鄧子恢以外に,毛沢東の急進路線に異論を唱えた主要な人物は全国人民代表大会副委員長の黄炎培(民主建国会,1949~1954年は政務院副総理)である。1955年初頭,黄は農村の混乱した状況を憂慮し,農工部の穏健方針を支持するような姿勢で毛沢東に数通の手紙を送った。同年5月中旬,すなわち毛沢東が杭州視察から戻って集団化を再加速する可能性を主張しはじめた頃,毛沢東は人民代表による視察の全面開始を提案した[楊 2001, 203]。視察の表向きの名目は,「1955年7月の第1期全国人民代表大会第2回大会の開催を準備するため」,「食糧の問題を中心に」,「広範な情報を収集する」ことであった[全国人大常委会辦公庁連絡局 1992, 6-7(「全国人民代表大会常務委員会関於全国人民代表大会代表出発視察工作問題的通知」1955年5月18日)]。これをきっかけに,人民代表としての黄は江蘇省の視察に赴いた。図3に示した通り,視察地を選ぶ際,黄は故郷の江蘇省に赴く傾向があり,現地とのつながりを頼りに情報収集を行っていたとみられる。

しかし,代表視察の出発前,毛沢東は集団化の再加速への支持を調達する意図で,「民主人士の農村視察について(我々は:筆者)口を揃えるべき」,「全体的に良い状況を強調しなければ,いずれ過ちを犯すことになる」と15省・市の地方党委員会書記に口裏合わせを指示した[鋼二司武漢大学総部 1968, 70(「在15省市委書記会議上的講話」1955年); 中共中央文献研究室 2013b, 2巻: 375]。つまり,民主人士=人民代表に「農村の状況は良い」を報告させるのに適した視察環境を用意するため,毛沢東が謀略をめぐらしたのである。

結論からいうと,この影響を受け,同年7月の全人代における代表らの視察報告書には,集団化の加速に賛成する内容が盛り込まれ,情報を収集するための代表視察は毛沢東の無謬性を証明するための材料へと転化してしまった(注16)。自らの視察経過を詳細に記録した黄炎培の日記を通して,その実態をある程度観察することができる。黄の日記[黄 2012: 13巻, 81-86]によれば,1955年6月2日から同年6月16日まで彼はおもに列車を利用して江蘇省の南京市,無錫市,蘇州市,鎮江市,呉県,丹徒県を視察した。座談会の形で集団化の問題を中心にとする現地指導者の報告を聞くことは毎日の視察内容であった。農村視察を実際に行わなかった毛沢東と異なり,黄は四つの農業合作社に直接入り込んで現地の農民との座談会も開かれた。ただ,合作社を訪ねる際,地方指導者の案内に従って視察が進められ,厳戒態勢が敷かれているという様子が黄の日記で書かれている。日記の記述のみからすると,黄は「ヤラセ」の可能性を意識していないようにみえるが,前述した15省・市の地方党委員会書記への毛沢東の指示を想起すれば,黄と対話する農民は事前に地方指導者に選別された,集団化を礼賛しかしない者であると推測できる(注17)

事実,この視察を経ると,黄は集団化への態度を変え,「実際に現場と接触してみると,農民の生産意欲が非常に高いことがよくわかった」,「私たちが話し合った末端の幹部皆は,党の教育を受け,党と政府の正しい指導のもとで活動しており,私は大きな感動と喜びを感じ」,「今後はこの経験を生かし」,「過去の誤った見方を正さなければならない」と全人代の会場で反省するに至った[『人民日報』1955「在第一届全国人民代表大会第二次会議上的発言(之四)」7月27日]。換言すれば,視察という方法を通して農村の実態を探ろうとした黄は,逆に操作された視察によって毛沢東に教化された。

4.状況誤認や判断の誤りの発生

問題は,1955年初頭に穏健路線を支持した多数の指導者たちは,なぜ1955年後半から一気に毛沢東の急進路線に傾倒したのか。無論,毛沢東のカリスマ性や階級論の魅力は無視できないが,視察という「根拠」のある方法によって中国の実情を「客観的」に分析する指導者像が発信されたことがより重要である。当時国務院副総理の陳毅の受け止め方はその代表例である。1955年11月,毛沢東の視察に感服した陳毅は『人民日報』の文章で「毛沢東同志は根拠のないことをいわず」,「大衆の中にある大量の本物の材料を提示し」,彼は「大衆の実生活についての調査研究に力を注ぎ,直接的もしくは間接的な方法によって大衆運動の状況を把握することに長けている」と述べた[『人民日報』1955「毛沢東同志関於農業合作化問題的報告是理論和実践相結合的典範」11月13日]。

しかし,前述の通り,空間的分布でも実質的な内容でも毛沢東の視察は不完全な側面が強く,衛兵の代理視察にもいくつかの問題が存在した。しかも,毛沢東はこの問題を自覚していなかった。毛沢東は衛兵に対して,「私は君らを通じて,君らは農民を通じて状況を把握し,これが調査というものであり」,「私が考えたこの方法は実に素晴らしい」と裏で説いた一方,「中央が提起した問題は,大衆との接触によって発見された。いつも役所に座っているのは危険で,年に数週間は外に出て大衆と接触すれば,問題を発見できるだろう」と,あたかも自分が直接に現場を視察したかのように各省や市の指導者を教育した[中共中央文献研究室 2013b, 2巻: 373, 471]。また,党の七期六中全会拡大会議において毛沢東は,「すべてのスズメを解剖する必要はなく」,「いくつかの合作社の状況をはっきり掴みさえすれば,適切な結論を引き出せよう」と指摘し,「私は百数本の報告書(『高潮』の編集資料:筆者)を読み」,「これで国内を周遊し,雲南,新疆まですべてまわったので,孔子よりも広く歩けた」と自慢した[中共中央毛沢東主席著作編集出版委員会 1977, 206(「農業合作化的一場辯論和当前的階級闘争」1955年10月11日)]。

いずれにせよ,視察という毛沢東の効果的な武器に教化された穏健派の急進化は,防波堤の崩壊を意味している。1955年末から1956年初頭にかけて,雪崩を打つように膨れ上がった合作社の組織率をみてもなお,視察の在り方に内在する問題を自覚していなかった毛沢東は「誰でも根拠もなく勝手なことを考えてはならず,客観的な状況の許す条件を超えて行動計画を策定してはならず,無理してできないことをしてはならない」が,「農民らは非常に熱心に,そして秩序正しくこの運動に参加した」から,「1955年後半,中国の状況は根本的に変わり」,「かつてはできないと思われたことが, 今はできるようになり」,「1949年の全国解放の時でさえ,こんなに喜ばなかった」と高揚感を示した[中共中央辦公庁 1956, 上冊: 1-4; 中共中央文献研究室 1999, 7巻: 2(「社会主義革命的目的是解放生産力」1956年1月25日); 董・鐔・曾 2012, 52]。

実際には,集団化過程の実態はかなり複雑であり,毛沢東の情況判断とは大きなズレが生じていた。強引に進められた集団化の過程は,必ずしも毛沢東が主張した貧農や下層中農の積極性に基づく社会主義の論理で展開していたのではなく,むしろ「積極分子」や末端党員の働きかけと下級幹部による脅迫や騙しなどを契機として農民らは利害打算に基づいたか,ないし仕方なく巻き込まれるような形で進められた(注18)。その結果,農民による真の合意を伴わない集団化は農業の増産や農民所得の向上につながりにくく,かえって農村の不安定性を内在化させる要素となった。より重要な問題は,毛沢東の視察見聞や衛兵らの調査報告では度々取り上げられた「農民の集団化に対する積極性」と「幹部による脅迫行為」という二つの事象が論理的に矛盾していることである。というのも,農民が積極的であれば幹部は農民を脅して強引に集団化に加入させる必要はないはずである。しかし,農民の積極性を否定することは社会主義路線への疑問視に等しく,ここまでみてきたとおり,これは毛沢東にとって盲点であった。こうした思想的背景は毛沢東自身の情報の捉え方を強く拘束したが,これは毛沢東と鄧子恢との大きな相違点でもある。

それにもかかわらず,1956年元旦,毛沢東の確認を経て,『人民日報』は,「社会主義を実現させるための具体的方策を作成する際」,「我々は実情に基づき調査研究をしなければならない」と冷静さを装い,調査研究のやり方は2種類あり,一つは消極的な側面だけをみる農工部の方法である一方,もう一つは,困難を乗り越えるため積極的な側面に着眼する毛沢東の方法であり,毛沢東のような方法であれば,数カ所だけを分析すれば十分であるという旨で,毛沢東による視察の素晴らしさを強調する社説を公表した[『人民日報』1956「為全面地提早完成和超額完成五年計画而奮闘」1月1日]。

続いて,この社説は,「数年後,社会主義性質の農業集団化が全面的に実現できる」と宣言し,1958年大躍進期に出されたスローガンの原型ともなるような「多く早く立派にむだなく」,「工業や文化教育事業を進めるべき」と豪語した。農業だけではなく,工業や文化教育事業などの分野も躍進できるという状況認識は,まさに大躍進政策の序曲のようなものである(注19)。事実,この社説が公表された前後,中央指導部は,食糧,綿,鉄鋼などの分野で生産指標を練り直し,非現実的な数値を掲げたのである(注20)。しかし,周知のように,数年後,待っていたのは数千万人の餓死者が出た大飢饉と大躍進政策の破綻であった。

Ⅵ 結語

本稿は1950年代前半という時期に焦点を当て,これまで光が当てられてこなかった毛沢東をはじめとする共産党政権の指導者による視察の行動様式,諸機能の実態,および政策過程における視察の意義を考察してきた。党がどのように情報を収集し,収集された情報を踏まえて政策がどのように決定され,その過程において党,とりわけ毛沢東がどのように支配の正当性を得ていたのか,という問題を理解する上で,広義には調査研究に位置づけられる指導者による視察は極めて重要なポイントである。

本稿は,GISによる可視化の手法を用いて,毛沢東を含めて総計35名の指導者による視察先が鉄道でつながっている東北,華北,華東の都市部に集中していたという空間的偏在の構図を明らかにした。交通事情や治安への不安といった原因で,指導者は鉄道網でつながっていない地域=全国の農村地域を視察することが極めて少なかったというのは筆者の解釈である。また,指導者らの行動様式には一定の差異が存在していたが,それには,指導者本人の職務,意思,および健康状況などの原因が推測される。

視察の機能については,指導者による視察は国内外向けの宣伝材料に転じて宣伝機能を発揮した場合があるものの,その基本的な機能は情報収集であると思われる。しかし,それは往々にして空間的な「壁」(交通事情や治安への不安といった原因で形成された視察先の偏った空間分布)と官僚制の「壁」(「ヤラセ」や厳重な警備体制によって現場の生の声を聞き取れない問題)によって大きく阻まれ,「特殊な者」として官僚制を超越した権威をもつ毛沢東でさえも例外ではなかった。その結果,末端とりわけ農村の状況を把握するため,毛沢東は側近の衛兵を視察代理人とする間接的な方法に依存せざるを得なくなった。しかし,そこにもいくつかの問題が存在し,衛兵が提供した情報にもまた偏りが生じていたのである。

本来,視察の手法を通して現場の声に込められた情報を獲得し,この情報を踏まえて効果的な政策決定がなされるはず,というのが党の発想であった。しかし,本稿は毛沢東時代の中国政治に多大な影響を与えた1955年農業集団化の問題に着目し,政策過程における視察の政治的意義を明らかにした。すなわち,はじめは視察に情報収集の機能だけを見出していた毛沢東は,空間的分布でも実質的な内容でも不完全な視察結果を根拠にして集団化の再加速の可能性を確信し,その後,対立する意見をもつ者(たとえば鄧子恢,黄炎培)を教化するために,「根拠」を創出するための道具,また自らの正当性を裏づけるための道具として視察を利用したということである。これは,視察という「根拠」のある手法を通して中国の「実情」に対する解釈権を獲得し,政策決定の主導権を握ろうとするという毛沢東の政治力学を投影している。この論理から逆算すると,特定の分野に絞ってある指導者が頻繁に視察を行った場合,当該分野において党内対立が生じており,同指導者は視察という方法を通して自らの主張に見合う証拠を探し,政策決定の主導権を握ろうとしているという構図が引き出される。

1950年代後半から1960年代までの事情を展望することになるが,たとえば,大躍進政策が破綻した直後,政策の転換や現場の状況の再確認が求められる1961年,毛沢東は「調査研究を盛んにする」の方針を大いに提唱した。これは一見して現実を客観的に捉え直すこと,言い換えれば大躍進政策への「反省」とみえるが,本稿が提示した構図によれば,これは毛沢東が視察という手法を利用して中国の「実情」を恣意的に解釈する権限を再発動し,政策決定の主導権を確保しようとすることを意味している。そこで毛沢東と劉少奇の間には大きな亀裂が生じ,この対立が文化大革命の発動にもつながったと考えられる。それについては今後の課題としたい。

(周俊・東京大学社会科学研究所特任研究員,2020年9月3日受領,2022年3月11日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  たとえば,『張聞天晋陝調査文集』(中共党史出版社,1994年),『毛沢東周恩来劉少奇朱徳鄧小平陳雲論調査研究』(中央文献出版社, 2006年),『朱徳調査研究文集』(中央文献出版社, 2016年)などの文集が出版された。

(注2)  なお,日本史では天皇の巡幸における鉄道の重要性を指摘した原[2011]の考察は,本稿に多くの示唆を与えてくれた。

(注3)  中国現代史研究における『年譜』の利用については田中[2016]に詳しい。なお,陳毅,李先念,葉剣英など中央指導者の『年譜』が出版されたが,本稿が取り扱っている時期において,以上の人物は基本的に地方指導者の立場にあったため,検証対象から除外する。そのほか,任弼時の『年譜』も出版されたが,1950年に病死したため除外する。

(注4)  場合によって本稿は『日記』,『文集』も利用する。編纂史料である『年譜』は人物のすべての移動情報を提示しているとは思い難いが,信憑性の比較的高い『年譜』を利用することは現在の研究段階では最善であると考えられる。

(注5)  鉄道建設諸技術の欠如や財政難の関係で,1950年前半において軌道の敷設がほとんど進んでいなかった。近現代中国の鉄道建設についてはKöll[2019]に詳しい。

(注6)  1949年から1957年まで,『人民日報』における毛沢東の視察に関する報道は1回のみであった[『人民日報』1950「看見了毛主席」3月11日]。

(注7)  たとえば,人民銀行本社の視察団を接待するため,河南省支社は,約2億5000万元の招待費や贅沢なほどの食品,タバコなどを使ったといわれる[中共中央文献研究室 1992, 23(「為深入地普遍地開展反貪汚,反浪費,反官僚主義運動而闘争」1952年1月9日)]。

(注8)  とりわけ,「民主党派人士」による視察活動は地方党政機関の指示に従わなければならないと,1950年代前半に視察を経験した千家駒[1993, 191]が回想した。なお,視察中,「民主党派人士」は何らかの不都合な問題を発見したとしても,政治的配慮を優先し,それらの問題を視察報告書に記入しない場合がある[Esherick 2010, 330-331]。

(注9)  そのほか,衛兵,秘書,医師,シェフ,カメラマンなどを含めて随行員はおよそ200人であるといわれる[李 1994, 125; 李 2013, 173]。

(注10)  当該事件は中国国民党の諜報機関が計画したものであるが,中国側はそれを事前にある程度察知していた。当該事件の経緯については,Tsang[1994]に詳しい。

(注11)  当該報告書の原文は英語で書かれており,中国福利会に所蔵されている。本稿は沈[2011, 160-195]による翻訳版を利用している。

(注12)  宋による視察も厳重警戒態勢をとっており,衛兵が事前に彼女に出される食事の毒見を行っていたといわれる[湯 2006, 57]。

(注13)  1950年代の集団化に関しては多くの優れた研究が蓄積されてきた。それについては浅沼[1994]中兼[1992, 165-263]小林[1997]河野[2015]松村[2020]に詳しい。

(注14)  1955年初頭,農工部の穏健方針に対する毛沢東の態度については両説ある。一般的には「賛成説」が流行し,『毛沢東年譜』や『毛沢東伝』など中国政府が編纂した公式な歴史書はこれを用いている。一方,Teiwes et al.[1993, 9]馬[2012]は,農工部の意見に対して毛沢東は肯定も否定もせず,その態度は非常に曖昧であったと指摘している。筆者は,いわゆる「曖昧説」が事実に近いと考える。

(注15)  1955年初頭,各省からそれぞれ1名の軍人を衛兵隊に入隊させるという毛沢東の指示を受け,毛沢東の専属衛兵隊は約120人となった[武 2012; 張2012, 87]。なお付言すれば,衛兵らの平均年齢は22~23歳であった[張 1998, 169]。

(注16)  同年7月7日から7月31日まで,『人民日報』は代表による発言を順次連載した。内容としては集団化の加速に賛成することがメインであった。

(注17)  葉[2014]の考証によれば,15省・市には江蘇省を含んでいる。つまり,黄の視察地である江蘇省の指導者は,口裏合わせの指示を既に受けたと考えられる。

(注18)  集団化の実態については,葉[2006]劉[2016, 29-45])に詳しい。

(注19)  MacFarquhar[1974]はこの時点まで文化大革命の起源を遡った。

(注20)  1996年になると,この頃に設定された1967年までの生産指標がついに達成されたといわれる[中共中央文献研究室 2011, 1100-1101]。

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