アジア経済
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書評
書評:堀内義隆著『緑の工業化――台湾経済の歴史的起源――』
名古屋大学出版会 2021年 vi+278ページ
北波 道子
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2022 年 63 巻 4 号 p. 81-85

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本書は,日本統治期台湾における「工業化社会」の成立過程と構造的特質を明らかにする,というテーマでまとめられた1冊の経済史研究書である。本書の特徴は,中小零細工業の勃興と発展に注目し,農村からの経済発展経路を実証することに焦点が絞られている点である。これまで,台湾の植民地工業化を論ずるときに主要な位置におかれた製糖業や,1930年代以降の軍需工業化からのアプローチではなく,小・零細事業者の経済活動にスポットライトを当てて,その動態から植民地台湾の根底で進行していた工業化過程の実態解明を試みたという点で,挑戦的な意欲作である。具体的な「工業化社会」への変容を描写するために,『工場名簿』や『商工統計』などのデータを丁寧に吟味し,「社会的分業」の深化を工場数や職工数などの変化から説明するという方法がとられている。中小零細工業の数は膨大であり,業種や形態も多種多様にわたる。とくに第Ⅰ部では,当時の台湾の零細工業の動向をマクロ的に把握するのみならず,家内工業の発展までをこれに包摂する。加えて当時の総督府の調査資料などを丁寧に読み込み,零細工業の全体像を可能なかぎり詳細に肉づけし,描写するという大きな課題に取り組んでいる点は称賛に値する。

本書の概要

序章と終章を除いて,2部7章の構成となっており,序章では本書の枠組みと問題意識が説明されている。「第Ⅰ部 日本統治期台湾社会の工業化」は4章,「第Ⅱ部 工業化社会の形成と産業」は3章から構成され,第Ⅱ部では具体的な3つの産業(製帽業,籾摺・精米業,機械工業)についての詳細な解明がなされている。終章は全体のまとめとして,本書の提示する「緑の工業化」が戦後台湾の発展につながる可能性が示唆される。以下,少し詳細に内容に触れていこう。

序章のタイトルは「台湾工業化社会の形成」である。まず,かつては単に収奪の対象として停滞的に描かれがちであった旧植民地経済への見方を変化させた植民地工業化論と,「新興工業経済地域」(NIES)台湾の戦後経済発展の関係について触れている。本書は,台湾のNIES化の背後にあった植民地工業化という現実と,とくにその根底にあった中小零細工業の動態への着目の重要性を主張するものである。筆者は「小経営的工業化」という言葉を提起し,それは「他人労働を生産過程に組み込んだ奴隷制大経営や資本制的大経営と対比される概念」(12ページ)であるという。序章の後半では本書を貫く視角として,①中小零細商工業者の活動の分析を通じた「土着資本」論の再考,②経済における主体と環境の相互作用の分析,③小農社会と工業発展の連関をふまえた「工業化」概念の再検討,が挙げられている。

第Ⅰ部 日本統治期台湾社会の工業化

「第1章 市場社会の変容――工業化社会の始まり」は,1920年代の台湾に生じた経済変化の性格を明らかにしている。最初に「清末の経済発展が台湾社会の工業化を促進しなかったのに対し,日本統治期の経済発展が台湾社会の工業化を促進したのはなぜか,というのが本章の基本的な問いである」(20ページ)とあり,その答えは「1920年代に帝国による農業の振興・促進と現地社会側による工業化社会への適応が相互に強化しあう関係が形成された」(50ページ)からであると結論づけている。

1905年にアジアで初めての国勢調査である臨時台湾戸口調査が実施され,第1章ではそのデータを利用して当時の台湾における「社会的分業の構造」を明らかにしている。全体として農業が中心であり,有業者数の4分の3近くが農業従事者である。非農業の専業者,あるいは副業で従事する農業以外の業種は,物品販売業,製造業,漁業,運輸交通業,林業などが多く,製造業のなかでは,製茶業,麻糸,帽子製造,樟脳製造などが多かった。商業・交通業の分布状況から,日本の領有以前は北部,中部,南部のそれぞれの地域経済が,互いに独立したまま対岸の大陸中国と直接つながっていたこと,その後,1910年代までには日本との経済関係に完全に置き換わったことが明らかにされている。1920年代には,日本帝国の食糧政策が外米依存から帝国内自給へと転換したことによって,台湾で農業従事者は増大した。しかし,これは単に農業植民地化が進展したということではなく,同時に,機械器具製造業や縫製業など新しい業種の勃興と拡大がみられ,ここから台湾経済の構造変化が観察される。それは「農産品の輸移出が台湾内市場の拡大につながり,社会的分業が深化する構造」への転換であったというのが本書の提示するモデルである。

ちなみに,ここでいう「社会的分業の深化」というのは,それまで自家でなされてきた生産・消費活動の一部作業を賃労働化する,あるいは専業化することと考えられる。そしてまた,本書で使用される「工業化」の意味にも近いと考えられる。これについては後述する。

「第2章 小経営的工業化への道――中小零細工業の発展」では,序章の分析視角①が主要なテーマになっている。本書では「土着資本」論の先行研究として,凃[1975]が提示され,同書は台湾人をひとつの経済主体として描いた点で画期的であるが,大地主の活動を対象としている点で「工業化論としては限界がある」と評されている。確かに従来の研究でも中小零細工業の発達は指摘されてきたが,全体として社会を巻き込む動態の把握は十分になされてきたとはいえない(注1)

当時の工場統計で工場とは,動力を使用するか,職工5人以上規模とされている。しかし,本書は職工4人以下で動力を使用しない工場も「家内工業」として分析対象とする。

中小零細工場の数は1920年代から1930年代中頃までに急増したが,職工数は伸び悩んだ。零細の籾摺・精米工場が増加したためである。1930年代以降は業種が多様化し,規模拡大に向かい,10人以上あるいは30~49人規模の工場が増加した。筆者はこれを「工業の資本主義的な形態での発展が緒についた」(61ページ)と表現している。

中小零細工業が発展した条件として,清から日本への移出入先変更に伴う従来移入品の輸入代替工業化,日本人移民のための消費財製造,植民地開発のための生産・資本財の移入,移輸出用の加工業が挙げられる。また,1920年代から1930年代にかけては電動機の導入などがあった。本章では,日本統治期台湾において多様な形態で中小零細工業が発達していたことが確認された。一方で,台湾の小経営的工業化は,決して台湾内部の「自生的」な現象ではなく,日本の植民地支配の在り方と密接な関連を持って進んだことも明らかになった。全体として従来の「大資本=日本人,中小零細=台湾人」の構図を裏づける結論となっているが,本章は中小零細工業の担い手としての台湾人の経済活動に焦点を当てることにより,新しい「土着資本」像が提示できるという,課題①の答えになっている(84ページ)。

「第3章 小経営・内需・工業化――島内市場と台湾人商工業者」では,凃[1975]で弱体化が指摘されている「土着資本」概念は地主中心であるため,台湾人小経営への着目による「土着資本」概念への更新が重要である,と繰り返されている。第3章では,その零細経営のなかでも従事者の多い物品販売業の分析を行っている。本章の指摘で重要なのは,物品販売業の一部が加工業をも兼ねていたということである。

本章では,おもに1939年の臨時国勢調査による物品販売業の状況に基づき,島内では店舗の90%以上が従業員4人以下であったこと,店舗数は多い順に,小売店(4万6786軒)>露天行商(1万5854軒)>生産小売商(1万3651軒)>卸小売・卸売(1万1178軒)であったことなどが明らかにされている。このなかで,生産小売商のおもな業種は家具・什器類,穀類・豆類,菓子・パン類であった。それらの地域的な広がりは均等的で,ここから商品経済は都市部だけでなく,農村部を含む地方においても発展したことが指摘されている。ここから,筆者は1920年代の商業化は農村部をも巻き込んで進展したことを指摘し,その経営主体として,都市部では日本人業者と台湾人業者,農村部では台湾人業者が主であったことを明らかにしている。

第3章のまとめとして,筆者は,「日本帝国経済における食糧供給基地としての役割を政策的・強制的に与えられたため,経済発展においても農業および農産加工業中心にならざるを得なかった」が,台湾という社会自体の変化に注目するならば,そのような経済環境のなかでも,台湾人の主体的な適応による独自の動きがみられたことを指摘している。

「第4章 小農社会のなかの工業化――農村工業と労働供給」では,まず,同時期の朝鮮との比較から農村人口比率は台湾の方が低いにもかかわらず,農村工業比率は,台湾の方が高いことを指摘している。

台湾では,比較的大規模な加工業であるパイナップルの缶詰工場や製糖業が,農村あるいは農村に近いところに立地されていたことも農村工業化の一因であった。このため,1920~1930年代において,大工業は農村工業を中心として成長し,中小工業の伸びは主として都市工業の成長に負ったと分析されている。ただし,中小工業も絶対数では郡部の方が多かったという。

農村工業への労働供給については,当時の台湾では多くの労働者が農村に居住して兼業型の就業をするケースが多かった。本章では日本統治期台湾の工業化は,大規模な人口移動を伴う一極集中型の都市化を引き起こすのではなく,地方分散的で,農村にも相当の人口が滞留したことが指摘された。それを可能にしたのは,「高い農業生産性を有する台湾農村の人口吸収力」であったという。

さらに重要な指摘は,農村工業の就業実態のほとんどが季節性のある臨時工であったことである。彼らは農閑期を利用した農家の副業労働であり,「労働時期になると請負人の下に組織され,賃金も請負人経由で支払われた」(127ページ)。そして,パイナップルの缶詰工場のような「資本主義的工場経営」にとっても,農家からの季節的労働の供給は重要な地位を占めたということである。

本章のまとめで指摘されていることは,台湾では農村工業の比重が比較的高く,しかも広範囲に分布していたこと,農家の兼業化は農産加工業,季節労働,農家の副業的な家内労働への従事であり,小農経営の多就業構造が一般化していたということである。

筆者は「農家経営と深く結びつけられた形態で工業への労働供給がなされたことは,農業植民地としての経済的要請に応えて農業社会を維持しながらも,台湾の小農が新たな市場的条件に適応してゆくという主体的対応を図った結果である」(140ページ)と第Ⅰ部を締めくくっている。

第Ⅱ部 工業化社会の形成と産業

「第5章 民族工業と帝国経済圏――製帽業による世界市場への進出」は,日本統治期に台湾と日本本国との経済関係が形成されてゆく過程において出現した新しい産業である製帽業による世界市場への進出を明らかにし,その歴史的な動態を分析する。台湾の製帽業は,大甲帽,林投帽,紙帽,マニラ麻帽,ビスコース帽(レーヨン)の順でその主力製品を変えながら展開された。大甲帽と林投帽は台湾の野生植物の繊維で編まれ,紙帽以降の原材料はおもに日本から移入されるようになった。最初期の帽子製造業は日本資本の工場で,生産だけでなく製帽職工の養成という技術導入がなされたが,すぐに日本資本は退場し,台湾人の製帽業者が職工に原料を配布し,製品を集荷する形式となった。その後製帽業者は,移出業者,集帽業者,仲買業者の分業が成立し,徐々に移出業者を頂点とする従属関係が組織化されて「日本人が持ち込んだ製帽業は,いったん確立すると日本人業者は急速に退潮し,台湾人業者によって駆逐されていった」(161ページ)という。出来上がった帽子は,そのほとんどがいったん日本内地に移出され,神戸を経由して欧米を中心とする外国に輸出された。

帽子製造業の発展は,植民地という条件,すなわち,当初は日本人を通じて初めて成立したが,後に日本人による媒介を排して台湾人が直接世界市場につながっていく過程を表している。台湾人製帽業者は1910年代以降,神戸に出張員を派遣して外国商館と直接取引するようになっていた。こうした動きは,序章で提示された②の環境への反応による相互作用的な発展を示唆するものと考えられる。

製帽業は,固定資産がほとんど要らず,運転資金の原料代金と工賃が主であり,1930年代には移出業者は神戸に取引銀行を持ち,融資も受けやすい状況にあったという。すなわち台湾の製帽業は原料の仕入れや製品の販売という流通面ばかりでなく,金融面における資本主義の発展を前提とし,そこに組み込まれる形で成長した。

「第6章 『米の帝国』と工業化――籾摺・精米業の展開」では,籾摺・精米業の分析がなされている。植民地期台湾の土着資本の代表的存在として籾摺・精米業の存在は,つとに指摘されてきた。しかし,確かに本書が指摘するように,工業化の視点からはほとんど研究されてこなかった。籾摺・精米業の発展は,台湾社会の工業化と見なすことができるのか。筆者は同業種が動力化や専業化という変化を遂げたことを重視し,工業化の重要な一環として位置づけようとする。

そもそも籾摺業者は,農家や籾の仲買人から少しずつ購入した米を集めて,籾摺をして玄米にし,販売する過程で差額を利益とする商人的性格が指摘されていた。事業の従事者は雇用人というよりも家族経営的であり,ほとんどの経営主体は台湾人であった。初めは農家や地主が自家で行っていた籾摺作業を手間賃で請け負うようになり,それが,1920~1930年代の電動機の普及によって生産性が向上し,専業化していったことが筆者のいう「工業化」に相当すると考えられる。

籾摺業者が台湾内米穀流通の中心となってゆく過程の背後には,1920年代半ばの日本帝国の食糧自給政策もあった。籾摺業者のなかに,主として移出米を取り扱う業者が一定数存在し,そのうちほぼすべての移出米が籾摺業者を通過するようになった。移出業者は仲買人を兼ねるようになった籾摺業者を買付資金の前貸しを通じて金融的に支配し,籾の購入競争が激化して,賃摺(業者による籾摺)高が増加した。賃摺高の増加は,都市化の進展と農村社会の変化を表す指標ともなった。以上のように,籾摺業者の発展からも,分析視角②への回答が示唆される。

第7章では,日本統治期台湾の機械工業の発展を,「『機械を使用する社会』の形成」と表している。サブタイトルは,「機械市場と人的資本蓄積」である。機械工業の発展によって,その地域の工業化の進度を測ることができると考えられるが,日本統治期台湾の機械工場は,日本内地よりもかなり貧弱な水準であった。端的にいえば台湾は日本内地の機械工業の市場であり,製糖機械と船舶・鉄道車輛・自動車・自転車の移輸入によって,それらの組み立て設置や修繕が主要な業務であった。

機械工業における工場経営の実態は,ごく少数の大規模工場を除いて,圧倒的多数が中小零細経営であり,動力の種類は電動機が圧倒的多数を占めた。1920年代前半は日本人が中心で,1920年代に台湾人と同率になり,1930年代に台湾人工場の比率が増大し,1940年代には台湾人が7割になった。とくに1937年をピークとして日本人が絶対数でも減少し,台湾人の職工が急激に増加したことは重要なターニングポイントであった。また,技術者の養成についていえば,1940年代では大卒レベルではまだ格差が大きかったが,中等学校以上の教育程度では日本人と台湾人の差はほとんどなくなっていた。こうした技術者の存在が解放後の台湾経済に与えた影響を示唆しつつ,本章は締めくくられる。

積み残された課題と今後への期待

以上のように本書では,膨大なデータと多すぎるほどの情報量で,日本統治期台湾の「工業化」についての描写と分析がなされている。実は,序章では既述3つの視角から導かれる本書の主張が,書名の『緑の工業化』とどのようにかかわるのかについて,「終章 『緑の工業化』と解放後の台湾経済」で言及すると書かれている(16ページ)。確かに,①「土着資本」論の再考,②環境の相互作用については,本論でもはっきりそれとわかる事例に言及されている。しかし,③「工業化」概念の再検討については,もう少し踏み込んだ議論が展開されてもよかったのではないかというのが,正直な読後感である。そもそも「工業化」をどのように規定して読み進めるべきか,できれば明言していただいた方が読者には親切であったと考える。20世紀の経済発展論などでは,場合によっては「工業化」(industrialization)と「近代化」(modernization)は同義に捉えられていた。工業化は都市化と並んで,経済の伝統部門(traditional sector=農業)と対峙する概念であった。しかしながら台湾では,農産加工業の発展によっていわゆる工業化の前提となる資本蓄積が可能であり,両者の連結による発展モデルを確認することができた。このことから,帯にあるように「農村主導の発展経路を示す」ことが,本書の掲げる問題提起には大いに期待されるのである。評者の期待が大きすぎたせいか,この点については物足りなさを禁じ得なかった。その点について,工業化,産業化,あるいは資本主義化と呼んでもよいのかもしれないが,どのような用語や概念を利用するべきか,あるいは前提として規定すべきかについて,今後のさらなる議論が待たれるところである。もちろん,それをふまえて,「工業化社会」の成立過程と構造的特質という,変化を含む概念を分析対象とした本書の存在意義は非常に大きいことをここに付け加えておく。なお,「あとがき」は必読である。

(注1)  1990年代以降,とくに2000年代以降台湾では,特定の産業や産品について一定の研究蓄積がみられる。

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