アジア経済
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書評
書評:吉澤誠一郎著『愛国とボイコット――近代中国の地域的文脈と対日関係――』
名古屋大学出版会 2021年 282+22ページ
村田 雄二郎
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2023 年 64 巻 1 号 p. 32-35

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2010年と2012年に東シナ海に浮かぶ小さな「島」の帰属をめぐって,中国のいくつかの都市では街頭デモを含む反日行動が激化した。その際,デモ隊のスローガンに「抵制日貨」の標語が現れた。「抵制」とはボイコットを意味する動詞で,「日貨」とは日本製品を指す。1990年代以来,日中間の歴史認識・靖国参拝問題をめぐり中国政府が態度を硬化させ,反日運動が起こると,しばしば同様の光景が見られた。時代によって「抵制」のあり方や性格はさまざまであるにしても,現代中国で「抵制日貨」は,過去の負の歴史を呼び起こす集合的記憶の一部となって,いまだ「愛国」者の心を拘束している。

本書は清末・民国期の中国に断続的に出現した対日ボイコットを,運動が生じた地域の事情や時代背景をふまえて実証的に解明した歴史研究である。著者はすでに,評価の高い専著『天津の近代―清末都市における政治文化と社会統合―』(名古屋大学出版会,2002年)と『愛国主義の創成―ナショナリズムから近代中国をみる―』(岩波書店,2003年)を上梓している。ボイコットとナショナリズム(愛国主義)の関係を考察する上で,本書は先行する2冊を継承するものである。

ただ,著者は問題意識を先行させ,過去と現在を単線的につなぐことには慎重な姿勢を見せる。また,過去に現れたいくつかのボイコットの歴史上の意味づけを性急に求めることもしない。むしろ歴史を歴史の現場に返す,すなわち歴史的な出来事の実態や性格を再検証するという方向に著者の主要な関心はあるようだ。歴史の解釈は多様であり,その意味づけも立場や利害によって変わってくる。実証的な手法に基づく本書の手堅い研究は,かえって読者に日中関係の来し方,行く末を考える上で,信頼すべき共通の土台(プラットフォーム)を提供してくれるだろう。

まずは,序章・終章を含めて全9章からなる本書の内容を概観しておく。

序章「ナショナリズム研究と対日ボイコット運動」で著者は,ナショナリズム研究にとって対外ボイコット運動が重要な切り口になることを述べ,各時点でのボイコットが実は経済制裁としても外交懸案打開策としてもさして成功しなかったという事実に目を向ける。その上で,本章では,運動の担い手(学生・商工業者・労働者及び知識人)と運動の地域的偏差(文脈)を重視するとの問題提起がなされる。

第1章「第二辰丸事件とその地域的背景」では,1908年に起こった第二辰丸事件が扱われる。日本の商船が武器密輸の嫌疑で清朝の官憲に拿捕され,日本政府の謝罪・賠償要求に対して,日本商品の不買運動が展開されたというこの事件は,従来も日中関係史上「反日」の原点の1つに数えられてきた。著者はこれに対して,1905年に中国で起こった反米運動と第二辰丸事件の相似性に注目し,事件の背景には広東地域の治安をめぐる複雑な状況や領海の管轄権問題があったと指摘する。まさに「地域的な問題を中国全体の問題として提示し全国の同胞に訴えて協力を求める」(42ページ)という対外ボイコットの原型がここに現れるのである。

第2章「東南アジア華僑による民国初年の対日ボイコット」は,1912〜1913年に東南アジア華僑が展開した対外ボイコットには,日露接近を口実に自らの商業圏を確保せんとする経済的動機が強く作用していたことを指摘する。運動を推進する現地華僑の側には,日本の南洋航路の開設により日本製品が流入することへの不安や懸念があった。攻撃の標的となったのが,日本政府ではなく三井商社や伊藤商店など日本の商社であったことも,このボイコットの性格を説明する。孫文が日本政府の意を受けて華僑に働きかけ,ボイコットを抑止しようとしたとの指摘も興味深い。

第3章「懐疑される愛国心―中華民国四年の排日運動をめぐって―」では,1915年の対華21カ条を契機に湧き上がった排日運動における愛国心の質が問われる。同年5月7日の日本による最後通牒と2日後の中国政府の受諾に多くの中国人は憤激したが,著者はとくに救国儲金(ちょきん)という募金活動に注目する。大衆の愛国心の発動を促す新たな運動形態を中国のボイコットは見出した。しかし,このとき感情に流されやすい「大衆心理」の表出に懸念を示す知識人の声もあった。実際,運動は急速に下火になり持続しなかった。愛国の感情の炎には,燃え上がった途端に揮発してしまうという「高揚と沈滞」(88ページ)の両面があったのである。

第4章「五四運動における暴力と正義」は,1919年5月4日,パリ講和会議調印に反対する北京の学生の一部が,デモの余勢を駆って「売国官僚」と目された曹汝霖宅を襲撃し,屋内にいた章宗祥を殴打し(曹は外出中で不在),邸宅に火を放った事件を「法治」との関わりで再考しようとするものである。従来の見方では,もっぱら運動の「正義」の面に光が当てられ,逮捕・釈放された学生は英雄視された。他方で,「反日」の「正義」が社会に充満するなか,少数ながら,学生の暴力行為を法に則って裁くべきだとの意見もみられた。だが,そうした意見は,学生運動の正当性を訴える大多数の声にかき消され,後世忘れ去られた。ところが,著者は「大衆運動と暴力」の関係という新しい質の問題(110ページ)がそこでは問われていたのだとして,中国近代における「正義観」を改めて問い直す。

第5章「上海五四運動における工界の位置」は,労働者が学生・商人とともに排日運動の担い手になる新たな動向に着目する。旧来,運動の主力として労働者階級のストライキの役割が特筆されてきたが,近年の研究では,労働者といっても一枚岩ではなく,同郷や同業の「幇(バン)」のつながりで結びついており,政党(国民党)とも単純な指導・被指導の関係で括ることのできない複雑な状況があった。著者は先行研究をふまえながら,この時期労働者たちは「工界」という集合意識(階級意識ではなく)を自覚しつつ,ストライキを通して自己評価を高めていったという。このように五四時期における労働者の台頭を,著者は労働運動史における新旧の過渡期の産物と捉える。

第6章「旅順・大連回収運動」は,1923年に巻き起こった租借地の回収運動を論じる。旅順・大連は1898年にロシアが清朝から租借し,1905年のポーツマス条約で管轄権が日本に移ることになった。当初の租借期限が25年に設定されていたために,1923年の期限終了を前にして,旅順・大連返還を唱える運動が全国に起こったわけだが,興味深いのは,このとき排日運動を最も苛烈に進めたのが,地元の大連でも天津や上海でもなく,遠く離れた内陸の武漢や長沙だったことである。著者は,武漢の場合は日本からの輸入綿糸や「在華紡」と競合する紡績業者の打算があり,長沙の場合は商工業者よりは,学生や労働者がボイコットの主体になったという。ある意味,対照的な動機や背景のもとで,同じ目標を掲げる国権回収運動が展開されたのである。ボイコットをめぐるこうした地域差は本書を貫くライトモチーフである。

第7章「五四と五卅のあいだ」は,上海共同租界工部局(租界内の統治機構)の資料に即して,1919年の五四運動と1925年の五卅運動の異同を対比的に論じようとするものである。ここで注目すべきは,五四運動は山東利権を護持しようとする日本に向けた反対運動であったのに対し,五卅運動でおもな標的となったのがイギリスと日本だったことである。著者がいうように,「反帝国主義」を自明視する既往の歴史叙述では,全国的な反英運動が現れるのは,五卅事件が初めてだったことにあまり注目されてこなかった。本章では,中国ナショナリズムの高まりとともに,上海ではイギリス人が牛耳る工部局への対決姿勢が反英の感情を高めていったことが具体的に考察される(ついでにいえば,反英および反米の情緒は,1927年3月北伐軍に対する英米軍艦の南京城砲撃で再度高まるが,1928年5月の済南事変によって,中国の「反帝」の矛先は日本一辺倒となる)。

終章「ボイコット運動の歴史的位相」では,本章の議論をまとめた上で,他国(植民地インド)との比較研究の射程が示され,最後に現代中国の「反日」運動にも論及して巻が閉じられる。

以上,各章の内容をたどってきたが,本書の貢献としてまず挙げるべきは,資料の博捜に加えて,近年の研究成果を丹念に拾い上げ,研究史の総括を丁寧に行っていることである。中国近代史の研究書である以上,日本語や中国語で書かれた多くの先行研究がくまなく参照されるのはいうまでもない。著者は大陸中国の最新の研究動向に触れるだけではなく,台湾や香港で出された成果にも周到な目配りを欠かさない。また,英語圏の研究状況にも精通し,その成果の吸収も怠らない。このことは,充実した巻末の注をみれば,一目瞭然である。今後,中国ナショナリズムや日中関係に関心をもつ後学にとって,本書がまたとない手引書になることは疑いない。

内容の面でいえば,著者独自の着眼点や評価は,本書のそこかしこにさりげなく語られるが,紙幅の関係もあるので,ここでは2点に絞って論じたい。

第1は,タイトルや上述した内容紹介からも明らかなように,都市部の大衆的な排日運動の地域性に注目したことである。本書では,各都市の愛国運動の盛り上がりや大衆運動(労働運動を含む)の持続が,全国レベルのボイコットや抗議活動に連動しつつも,それぞれの都市や地域の事情で異なったあらわれ方をし,運動の性格にローカルな色彩を付与していたことを重視する。「ローカルな色彩」(地域性)とは具体的にいえば,地方(省)や都市が抱える政治的課題や経済圏(商業圏)の広がり,そして実際の行動に立ち上がる学生や労働者の社会関係(紐帯)である。本書では「地域的文脈」とも言い換えられる。

たとえば,第二辰丸事件(第1章),南洋華僑の対日ボイコット(第2章),21カ条反対(第3章),五四運動の上海における展開(第5章),武漢や長沙での旅順・大連回収運動(第6章),上海の五卅運動(第7章)では,各種各様の地域性が特筆されるほか,折に触れて天津,太原,青島,重慶,広州などで,反日を含む大小の政治運動がそれぞれの「地域的文脈」に応じて起こったことが論じられる。しかも,より重要なこととして,都市のボイコットは交通・通信網の整備にも助けられ,全国レベルの(ナショナルな)課題を強く意識し,ときに横の連携を伴いつつ展開した。「ローカル」と「ナショナル」なボイコットの結びつきを個別・具体的に解明したことは,近現代中国におけるナショナリズムの研究を一歩前に進めるものである。

第2に,とくに第4章の五四運動評価にみられる如く,大衆運動がはらむ正義と暴力の関係という,中国研究でこれまで相対的に軽視されてきた視点をクリアに提示したことである。「愛国」という名の正義は,大衆の支持を獲得しやすく,運動が広がるにつれて,しばしば「暴走」し,人命・財産に関わる激しい暴力的行為を生む。「革命」の正義も同じである。その極点が,湖南農民運動の「過火」(行き過ぎ)であり,中国共産党の土地改革であり,また建国後の思想改造・反右派闘争や文化大革命であることを,今日のわれわれは知っている。著者が,感情に基づく愛国心を知識に基づく自覚心と対置させた陳独秀(第3章)や,法の支配を訴えた梁漱溟(第4章)に注目するのもそのためである。

中華民国の時期に,「反日」の標的となった日本の在外公館や本国政府は,運動の「行き過ぎ」をめぐり,繰り返し外交ルートで抗議したり,「排日」取締を中国政府に要求したりした。これに反発する中国人がさらに敵対感情を強めて直接行動に出るという負の連鎖は,不幸にして20世紀前半の日中関係を揺さぶり続け,やがて全面戦争をもたらす導火線となった。

多数派の唱える「正義」がしばしば凄惨な暴力と結びつくことは,中国のみならず,フランス革命からロシア革命まで,近くは「暴支膺懲」や「大東亜共栄圏」の暗い歴史の教えるところである。そうした反省もあってか,21世紀になって,「愛国」中国の暴走を懸念する人々からは「理性的な愛国」が呼びかけられるようになった。いずれも,本書の論点と深く結びつく問題である。もちろんこうした問いに,著者は安直な結論を出すわけではない。むしろ,「正義の暴力」「革命の正義」「正しい戦争」といった社会的・政治的暴力をめぐる一連の問いを深めていくために,いくつかの大切な糸口を提供してくれるものだと受けとめたい。

最後に,評者がもう少し踏み込んで分析してみる必要を感じた点を挙げてみたい。それは,ボイコットと情報の関係である。都市の大衆運動や農民の反乱が往々にして,噂やデマのひろがりとともに始まり,ときに拡大・激化していくことは,メディアの発達した20世紀の大衆運動を考える上で極めて重要なポイントである。本書では,たとえば,第2章のスマラン華僑のビラが誤報にもとづいて書かれていたこと(47~48ページ),1915年の反日暴動の際,日本人が提灯行列を行うという噂が中国社会に流れたこと(70ページ),上海の五四運動で日本人が水道や井戸に毒を盛ったとの流言が流れたこと(132~133ページ)など,誤報・流言と大衆運動に関わる興味深い事例が紹介される(残念ながら,断片的ではあるが)。著者が述べるように,これらのデマや流言は中国側の憤激を引き起こし,敵愾心の火に油を注ぐ結果を招き,運動のなかで少なからぬ役割を果たしたのである。

情報の不均一性や非対称性は,大衆運動の発生や拡大を規定する基本的条件である。最近の日中関係では,教科書問題の発端となった「侵略」の書き換えが,日本の新聞の誤報であったことがわかっている。とはいえ,人々は日常生活のなかで「正しい」「確実な」情報によってのみ生きているわけではない。大規模災害時のパニックに示されるように,危機的状況におかれた人々を動かすのは,理性的判断よりは,流言飛語であることも少なくない。しかも,流言やデマは黙して語らぬ人々の「潜在的世論」(清水[1937])であるから,歴史学や社会学の格好の研究対象になる。

社会主義中国の時代でも,デマや噂話が農民の信仰や行動を左右し,ときに政治問題化した史実が,李若建[2011]の労作によって明らかにされており,近年は日本でも丸田孝,今野純,河野正らが農村革命とデマのつながりに関して開拓的研究を行っている。言論統制が強まるほど,噂やデマの広がる余地がかえって大きくなるのかもしれない。都市部の大衆運動における誤報・デマ・噂の作用をどう考えるか。本書を一読して,評者はまたひとつ大きな課題を与えられた気がした。

文献リスト
  • 清水幾太郎 1937.『流言蜚語』日本評論社(再版:1947,『流言蜚語』岩波書店,再録:1992,『清水幾太郎著作集 2 流言蜚語 青年の世界人間の世界』講談社,再版:2011,『流言蜚語』筑摩書房).
  • 李若建 2011.『虚実之間――20世紀50年代中国大陸謡言研究』社会科学文献出版社.
 
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