アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
研究レビュー
「竹の外交」から「多元的外交」へ――戦後タイ外交再考のための論点整理と課題提示――
青木(岡部) まき
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2023 年 64 巻 2 号 p. 23-43

詳細
《要 約》

本稿は,安全保障をめぐり柔軟に協力相手を組み替える「竹の外交」として描かれてきた戦後タイ外交像に対する疑問から,主な先行研究の検討を通じて戦後タイ外交研究の論点を整理し,課題を提示する。タイの対外関係研究,経済史,現代政治研究といった研究群における外交分析の検討を通じ,先行研究が多元的な対外関係に関心をおくなかで,外交については外務省や国軍を中心とする安全保障外交に偏重して研究が蓄積してきたこと,対外経済政策については経済政策の延長として扱われ,経済を通じた国家間の関係調整という側面については十分議論されてこなかったことを指摘した。そして今後の研究上の課題として,イシューの多様性(安保と経済),主体の多様性(外務省・国軍外交の再検討)をふまえ,「竹の外交」に代わる新たな仮説として,多様な外交主体による「多元的外交」の可能性を示して論を結ぶ。

Abstract

This paper reviews the literature to explore the nature of Thai diplomacy after World War II.

Studies on Thailand’s postwar diplomacy have focused on security issues, including the confrontation with communist forces supported by the alliance with the United States as well as the shift toward China that occurred in parallel with the detente between the United States and China, the Cambodian conflict, and its demise.

Based on changes such as the Cold War and democratization, the previous studies have described changes in the alliance, the shift of foreign policymakers from the military and bureaucracy to the politicians, and the shift of diplomatic agendas from security to the economy. They characterized Thailand’s diplomacy as “bamboo diplomacy,” describing it as Thailand’s diplomatic tradition and explaining it as the flexible balancing among powers to maintain Thailand’s independence. Recently, Jittipat countered that bamboo diplomacy is not a Thai tradition but rather a new approach invented by the Thai Ministry of Foreign Affairs (MFA) in the mid-20th century. He reconstructed the history of postwar Thai diplomacy as the process by which the MFA established bamboo diplomacy as a norm.

However, the characterization of bamboo diplomacy needs to be revised because it uncritically applies findings from the case of postwar security diplomacy, especially that with major powers, to diplomacy on other issues such as the economy and social development. The studies that focused on security with major powers treated economic and social issues such as bilateral trade and investment negotiations, international trade rule formation, and development cooperation as a part of security issues or placed them outside the analytical scope. Considering the emergence of studies such as Jittipat’s that question the origins of bamboo diplomacy, it is necessary to reexamine whether Thai diplomacy, including that related to economic and social issues, can be explained by the theory of bamboo diplomacy.

Through a literature review, this paper presents a new perspective on postwar Thai diplomacy studies, described in terms of security during the Cold War period. By analyzing studies on modern foreign relations, economic history, and contemporary politics in Thailand, and this paper presents areas of research that needed to be adequately discussed in the past. As a task for future research, the paper concludes by presenting “pluralistic diplomacy” by various diplomatic actors as a new hypothesis to replace bamboo diplomacy, based on the diversity of issues (security and economy) and the diversity of actors.

  はじめに

Ⅰ 問題意識

Ⅱ タイ外交をめぐる議論とその背景

Ⅲ 冷戦を軸とする安全保障外交論への疑問

Ⅳ 開発・経済研究による「経済外交」への示唆

  むすび

 はじめに

本稿は,第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)後のタイ外交の再考に向け,主な先行研究の検討を通じて論点整理と課題の提示を試みるものである(注1)

戦後のタイ外交は,国連加盟を経て,1950年代から60年代末のアメリカとの同盟に支えられた共産主義勢力との対決,1960年代末から70年代初頭の米中和解やデタントと並行して起きた対米外交見直しと対中友好路線への転換,1970年代末から80年代のカンボジア内戦問題,1980年代末に起きた対インドシナ外交転換といった事例を中心に描かれてきた。Randolph[1986]Zawacki[2017]Sukhumbhand[1987]Chulacheeb[2005]といった大国間関係に重点をおく研究は,冷戦下の緊張緩和期といわれる1960年代末から70年代初頭を境に,タイが安全保障をめぐり親米外交から全方位友好に転じ,中国に接近した経緯を描いた。他方,Kusuma[2001]Buszynski[1994]といった国内体制変動からタイ外交を分析する研究は,戦後タイ外交を①1950年代から80年代後半までと,②1980年代以降の二つの時期に分ける。そして①を米中の間で国軍と外務省とが内外の共産主義勢力に対抗し安全保障の確立をめざした時代,②を1980年代末のカンボジア紛争収束と「冷戦の終焉」による対外的脅威の消滅や国内の民主化を転機とし,民選政治家が企業とともに外交を通じて経済的利益の最大化をめざした時代と位置づけた。いずれの研究も,冷戦や民主化といった国際構造や国内体制の変化を軸に,国際関係や,国軍・官僚から民選政治勢力へという外交アクターの交代,あるいは安全保障から経済へという外交課題の変化を説明してきた。

その変化を,先行研究は「竹の外交」(bamboo diplomacy)または「バランス外交」という概念で表現している。Kislenko,Corrineといったその代表的論者による議論をまとめると,「竹の外交」とはタイの伝統的な外交方針であり,自国の自立を維持するため複数の大国の間で協力関係を柔軟に切り替えることを指す。外国の論者はしばしばこれを勢力均衡(balance of power)の一形態ととらえ,「バランス外交」とも呼んできた[真辺 2018小島 2018]。近年,Jittipatが「竹の外交」はタイの「伝統」ではなく1960年代末から70年代初頭にかけて同国の外務省が発明した新しい概念だとする研究を発表し,戦後タイ外交史を外務省が「竹の外交」を「規範」(norm)として確立する過程として再構築した[Jittipat 2022]。

いずれにしても,戦後のタイ外交は外務省を中心とする「竹の外交」を軸に語られてきた。しかし,「竹の外交」論には問題がある。その一つは「竹の外交」の内容が実は論者によって異なり,その実態は必ずしも明らかではないことであり,より大きい問題としては,「竹の外交」論が戦後の安全保障外交,それも米ソ中といった対大国外交の事例から得た知見を,無批判のままタイ外交全体に当てはめようとする点である。従来の大国との安全保障外交に目を向ける研究は,二国間貿易投資交渉や国際的通商ルール形成,開発協力といった経済社会問題について,安保問題の延長と位置づけて扱うか,外交とは別の問題として分析の射程外においてきた。Jittipatのような「竹の外交」の起源を問う研究が現れたことをふまえ,経済社会問題も含むタイ外交全体がはたして「竹の外交」論で説明できるかどうかを,改めて問い直す必要があるのではないか。

本稿は,冷戦期の安全保障外交を軸に叙述されてきた戦後タイ外交像に一石を投じる立場から,先行研究の検討を通じて戦後タイ外交研究の論点を整理し,課題の提示を試みる。以下ではタイの近現代対外関係研究,経済史,現代政治研究といった研究群の再検討を通じてその論点を整理し,従来は十分議論されてこなかった研究上の課題を示す。この作業を通じ,本稿は第二次世界大戦終結後のタイ外交がどのようなもので,何をめざして,いかなる人々がそのために働いてきたのかという問いを考察するための足がかりを用意する。

Ⅰ 問題意識

「外交」という言葉は,しばしば「対外政策」と互換的に使われる。タイにおいても,外交(kanthut/diplomacy)と対外政策(nayobai kantangprathet/foreign policy)とはほぼ同義で使用されている。外交官であったSatowやニコルソンは,外交(diplomacy)を国を代表する使節(envoy)や職業外交官(diplomat)が行う独立国家間の公的な関係調整や[ニコルソン 1968, 7],その職務あるいは技術として定義した[Satow 1922, 1]。さらにニコルソンは,主権国家間で行われる交渉(negotiation)と国内における対外政策過程(foreign policy)とを区別した上で,交渉すなわち外交を国家間の公的な関係調整という意味で使用するべきと主張する[ニコルソン 1968, 8]。

現代社会において,国家間での公的な関係調整=外交を必要とする問題は軍事安全保障から通商,投資,開発援助など多岐にわたる。こうした現実をふまえ,分析対象を国家間関係から「外国,および自国の管轄下にない人民,組織,地域との関係を対象とした公共政策」,すなわち「対外政策」全般に広げ[佐藤 1989, 5],国際交渉と国内政治とを一連の「対外政策決定過程」として分析する研究も盛んに行われてきた(注2)

こうした議論をふまえつつ,本稿は考察の対象を主権国家間の公的な関係調整としての外交に設定する。国際関係を支える条約や国家間の合意は,現在も主権国家間の外交によって形成されており,戦後の国際秩序形成にタイのような小国が外交を通じてどうかかわったのかを考察することは,大国中心で説明されてきた戦後の東アジア国際関係像を相対化しより精緻に描き直すために不可欠な作業だからである。外交は,外交官だけでなく,経済官僚や国民の代表である政治家もかかわる。こうした問題意識をふまえ,以下本稿ではとくに断りのないかぎり,外交を「独立した主権国家間の公的な関係調整」という意味で使用する。なお経済官僚や閣僚政治家による国家間交渉も,条約や協定などの公的な合意にかかわるものであるかぎり,ここでは外交として扱う。しかし,「民間外交」のように,国家間の合意形成に直接かかわらないものは,「外交」ではなく「対外関係」として区別して扱う。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて欧州諸国の版図拡大に伴い,アジア諸国のなかでも西欧に倣って外交制度を整える国が現れた。タイではラーマ5世(在位期間1868~1910年)統治期に,近代的官僚機構の一部として外務省(Kraswang Kantangprathet)が設けられ,西欧式の外交慣行と近代国際法の知識を身につけた職業外交官(nak kanthut=diplomat)が登場した[Phensri 2001]。現在の途上国の多くが植民地として近代国際体系に編入され,第二次世界大戦後に独立を経てはじめて外交主体としての立場を獲得したのに対し,タイは戦前から独立した近代国家として,上述した意味での外交を経験してきた。

他方でシャム/タイは,19世紀以降,政治的独立を保ちつつもほかの東南アジアの植民地とともに西欧諸国の原料供給地兼市場として世界経済システムに組み込まれた。そして戦後は「途上国」として,ほかの旧植民地諸国と同様に貿易投資,援助を通じ諸外国と対外関係を結んできた歴史を持つ。戦後に相次いで独立した旧植民地諸国は,旧宗主国をはじめとする先進諸国に対し,植民地経済から脱却し経済社会発展の権利を主張する一方,大国間の軍事・政治的対立に巻き込まれることを避け,結束して存在感を強めようとした。1947年に設置された国際連合アジア極東経済委員会(United Nations Economic Commission for Asia and the Far East: ECAFE)による地域協力や,1955年にインドネシアのバンドンで開催された第一回アジア・アフリカ会議(Afro-Asian Conference:通称バンドン会議),1961年に開催された非同盟諸国首脳会議,非同盟諸国の後押しによって1964年に設立された国連貿易開発会議(United Nations Conference on Trade and Development: UNCTAD)といった動きはその例である。経済的公正や政治的自立をめぐる途上国と先進国との対立と協調は,1960年代以降「南北問題」として,東西対立と並ぶ戦後国際関係の潮流のひとつとなった。

しかしながら,こうした新興独立国/途上国による政治経済的自立に向けた動きと,それに対するタイの外交を取り上げた研究は,極めてかぎられる。旧宗主国と旧植民地諸国が「先進国」と「途上国」として対峙した1940年代から60年代にあって,途上国であるタイが近隣の新興途上国の動向に無関心だったとは考え難い。実際にタイは,冷戦下にあってECAFE本部を自国の首都に招致し,バンドン会議や第一回UNCTADに代表を派遣し,1967年には近隣の非共産主義東南アジア諸国と「社会経済文化協力」のための地域協力機構として東南アジア諸国連合(Association of South East Asian Nations: ASEAN)を創設した(注3)。しかし従来のタイ外交研究でタイの国連外交や非同盟諸国運動への対応,南北問題への関与といった冷戦期の事例について取り上げたものは,管見の限りほとんどみられない。戦後から冷戦期にかけての東南アジア国際関係を分析したNuechterleinの研究やAsadakornの未刊行の博士論文といった初期ASEANへのタイの関与にかんする研究はあるものの,それらは冷戦下における安全保障問題との関連で考察されるにとどまってきた[Nuechterlein 1965Asadakorn 1980]。

東西のイデオロギー対立や米ソ中といった大国間の権力闘争を軸とした冷戦と,経済発展と公正をめぐる南北問題とは,ともに戦後の国際関係の大きな潮流を作ってきた。そのなかで戦後タイの対外関係もまた,安全保障をめぐる外交と豊かさの実現をめざす経済社会問題をめぐる外交とが相互に関連し干渉しあいながら構成されてきたと考えられる。しかし現在のタイ外交研究は,外務省や国軍による安全保障をめぐる国家間交渉や国内政治を「外交」として取り上げるにとどまり,その他の政策担当者やアクターが携わった「途上国」としての経済外交については射程外においてきた。その結果,タイの戦後外交は,外務省・国軍による安全保障問題をめぐる「竹の外交」として偏って語られてきたのではないか。

こうした問題意識から,本稿では19世紀から20世紀前半の外交をめぐる研究状況と,戦後の冷戦外交を中心とする研究,そして経済史の視点から貿易投資,援助を論じた研究を取り上げて,戦後タイ外交をめぐる論点を整理する。

Ⅱ タイ外交をめぐる議論とその背景

1. 非国家主体による対外関係研究

タイの対外関係にかんする研究は,政府間外交よりも社会間交流としての「対外関係」に関心を払ってきたように思われる。ここでは外交研究の背景として,そうした対外関係をめぐる議論を押さえておきたい。タイにおける中華系住民の同化問題を分析したSkinnerは,戦後の第二次プレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)政権期(1948~57年)を取り上げ,中華系住民の同化率を左右する要素のひとつとして,中国政府の影響力やタイとの外交関係を取り上げた[Skinner 1957, 382]。しかし,スキナーの中華系コミュニティ研究の関心はあくまで社会にあり,国際関係は同化という社会変化の説明要因のひとつでしかない。スキナーの同化論を批判的に継承したCoughlinは,中国の独立がタイにおける中華系社会の同化を阻んだ可能性を指摘した [Coughlin 1960, 204-205],同様にシャムの対外貿易を担った中華系商人の活動を論じたCushman[1991]や,ラーマ5世の外交エージェントとして活動したコメ貿易商の陳金鐘を取り上げた宮田[2002]も当時の国際関係をふまえているが,やはり関心の対象は中華系を軸としたタイ社会にあり,国家間関係に主眼をおいてはいない。

より「国家」に関心を寄せる研究としては,小泉による19世紀における清とシャムとの進貢と条約をめぐる交渉過程の分析がある[小泉 2006; 2011a; 2015]。小泉は朝貢体制(前近代)から西欧国際体系(近代)へという断絶として語られてきたシャム近代史観を批判し,19世紀半ばから20世紀初頭の清とシャムの関係を国王と皇帝,シャムの中華系コミュニティと清側の地方官僚や商人といった多様な主体の間で展開した「多元的な“関係複合”」として描き出した[小泉2006, 194]。ただし小泉の描く「関係複合」はやはり近代主権国家とは異なるカギカッコつきの「国家」による「対外関係」であり,本稿が関心を寄せる外交とは区別される。

2. 主権をめぐる対欧米外交研究と「竹の外交」論

対外関係への関心が勝ってきたとはいえ,近代タイ外交にかんする研究が皆無なわけでは無論ない。タイはラーマ5世時代に近代的官僚制を整え,19世紀末以来,独立した近代国家としてニコルソンのいう意味での外交を経験してきた。20世紀前半に外交官・政治家として活躍したPrince Wan Waithayakonは,1943年に著したタイ外交史についてのエッセイで,欧米との間に締結した不平等条約改正を通じ,タイ政府が主権を確立した過程として近代タイ外交を描いた[Wan Waithayakon 1991(注4)。また,タイ外務省が1972年に創設100周年を記念して英タイ二カ国語で編纂した記念誌『タイ外務省の歴史と組織』という冊子がある。英語版は,冒頭の「初期の対外関係」19行の記述を除き,以後約11ページにわたりヨーロッパ諸国との交易,19世紀以降のイギリスやフランスとの領土問題および不平等条約の締結と改正を中心とした記述が続く[Ministry of Foreign Affairs 1972, 12-23]。タイ語版でも,16世紀以降の歴史は英仏との領土問題や治外法権,関税自主権といった不平等条約締結,第一次世界大戦参戦,国際連盟への加盟と英仏との条約改正,フランスとの領土紛争といった対欧米外交を中心にたどる[Kraswang Kantangprathet 1972, 2-25]。タイ近代外交についての代表的な研究であるPhensri[2001]Charivat[1985]は,タイの対外関係史を「前近代の終焉」から「近代(西欧)国際体系への参加」へ移行する過程として描き,19世紀以降については西欧諸国との条約改正を中心にタイが外交を通じて近代国家としての立場を確立した様子を描いた。近代主権国家が対外的契機で形成される過程を描き出した飯島[1976]や,中国外交史の視点から中国側の史料を用いて民国期の中国とシャムの関係を検証した川島[1996]も存在する。

「西欧との対峙」のなかで強調されたのが,シャム/タイが英仏を競わせその間で独立を保ったという見方である。例としてラーマ5世期の教育改革を分析したWyatt[1969]がこうした見方を示しているほか,政治学者のLikhitは,1974年にJounal of the Historical Societyに発表した論文で,ラーマ4世および5世がフランスと競合関係にあった英国を頼ることで独立を維持したと主張した。Likhitはこれをタイの「national style」であり「竹の外交」(bamboo diplomacy)と呼んだ[Likhit 1985, 535]。

戦後のタイ外交に関心を寄せる研究者は,「竹の外交」がタイ外交の「伝統」として戦後も継承されたとみなしている。「竹の外交」論でよく引用されるKislenkoの論考によれば,それは国家の生存のため柔軟に時局に従うタイの外交手法である[Kislenko 2002, 537]。タイの現代外交を論じたPavinは,「竹の外交」を国家の自立維持をめざし大国間で立ち回る「タイの文化や宗教に根差した」外交手法と呼んだ[Pavin 2010, 63-64]。タイの冷戦期国際関係を分析したCorrineもまた,「竹の外交」あるいは「柔軟外交」(flexible diplomacy)をタイの外交文化とし,全方位友好外交を通じた大国間の勢力均衡による安保確立手段として定義した[Corrine 1984, 56; 1999, 70]。タイ-米関係にかんするRandolphの研究もまた,1950年代から70年代末まで続いたタイ政府の親米外交を「バランス外交」からの逸脱と捉えた[Randolph 1986]。

しかし,詳細に議論をみてみると19~20世紀前半のタイの対英米外交と,戦後の「竹の外交」論のいうところとは,必ずしも同じではないことがわかる。たとえばLikhitは「竹の外交」を示すものの,その内容はシャムが英国と連携して英仏の緩衝地帯となることを実現したというものであり,Corrineのいうような全方位友好外交や等距離外交を通じた大国間の勢力均衡とは異なる[Likhit 1974(注5)。Likhitと同様の見方は,20世紀初頭の金融をめぐる英暹関係を研究したAldrichの研究でも示されており[Aldrich 1993],「竹の外交」が覇権的大国との同盟形成を意味するのか,等距離外交による勢力均衡を指すのかは,統一した見解がない。Jittipatはこうした研究状況をふまえ,「竹の外交」とは戦後の冷戦期に対米依存から脱する際のロジックとして外務省が発明したものであり,その本質は全方位友好による国家の自立性の維持にあると結論づけた[Jittipat 2022, 37]。

このように,既存のタイ外交研究は19世紀から20世紀の近代国家としてのタイ外交のイメージを実証することなく継承してきた。Jittipatの議論は「竹の外交」の起源を問い直すものの,戦後の外務省による「竹の外交」論をそのまま分析概念として受け入れ,米中ソといった大国に対する安全保障外交を中心に分析した点では,先行研究と同じ轍を踏んでいる。取り組むべきは,「竹の外交」が覇権国との同盟であれ勢力均衡であれ,説明概念として安全保障以外の分野でも適用可能かどうかを検証する作業であろう。

3. 「ナショナリズム」をめぐる対外関係と外交についての研究

タイ外交をめぐる研究のもう一つの大きな関心として,「ナショナリズム」の問題がある。村嶋[1989; 1993]は,1920年から41年というタイで華僑ナショナリズムが最も盛り上がった期間を対象とし,中国におけるナショナリズムの隆盛や,共産党,国民党といった革命運動の拡大が,タイの中華系住民の政治運動に及ぼした影響を解明した。村嶋[1996a; 1996b]は,1937年にはじまった日中戦争を背景としてタイ国内における中華系住民の中国における抗日運動支援と,1932年に立憲革命を経て政権を獲得した人民党政権のタイ・ナショナリズムとの相克の過程を取り上げた研究である。1938年に成立したピブーン政権(1938年12月~44年8月)は,1941年にタイへ進駐した日本軍に協力したことで知られるが,村嶋はピブーンの対日協力を中華系住民の政治活動に対する反発と位置づけた。村嶋の研究は,タイの中華系住民の政治運動とピブーンらタイ人民党政権の中華系住民対策とを「ナショナリズム」という枠組みで分析し,そこからタイの対日,対欧米外交を説明するものであった。

村嶋[1998]は,上述の見方を戦後のタイの対外関係についても広げた研究である。この研究で村嶋は,タイが1930年代末から40年代に第二次世界大戦を挟んで試みた「失地回復」外交を取り上げている。同論考は,タイ政府の指導者らが19世紀に英仏に対して領土を失った経験からタイが植民地問題の当事者であるという認識をもったこと,そして短い期間ではあったがインドシナの独立運動勢力と連携し,植民地秩序の解体をめざした様子を示した[村嶋 1998, 197(注6)

1950年代のタイの平和運動や70年代のベトナム反戦運動を取り上げた高橋 [2001; 2014]や,戦後のタイの対仏失地回復外交とその失敗にもとづく「失地史観」の成立を分析したStrate[2015]のように,戦後の対外政策についても「脱植民地化」を出発点としていることを指摘した研究も存在する。ここでは,「脱植民地化」「ナショナリズム」の1950年代以降の対外関係の影響については,研究の余地が残されていることを指摘しておく。

Ⅲ 冷戦を軸とする安全保障外交論への疑問

戦後のタイ外交研究は,それ以前の時代の外交にかんする研究に加え,当時タイを取り巻く国際環境,ことに冷戦と対米関係から強く影響を受けてきた。1950年,タイはアメリカと軍事,経済,教育文化の3分野にかんする協定を締結した。1954年には東南アジア集団防衛条約(Southeast Asia Collective Defense Treaty)に加盟し,1962年のタナット=ラスク共同声明を経て,両国は公式に同盟関係を結んだ。以後タイはアメリカの同盟国として,1950年代から60年代には第二次インドシナ紛争におけるアメリカの兵站機能を担うなど,冷戦に深く関与してきた。

かかる経緯を反映し,戦後タイ外交にかんする研究は,米ソあるいは米中間の体制間闘争としての冷戦と,アメリカとの同盟関係をふまえ成立したタイ国内政権の進退とを主題として発展してきた。その問いは,アメリカや中国,ソ連といった大国の動向がタイの安全保障環境をいかに左右したのか,あるいは逆に,タイの政策担当者が大国間関係や大国と自国との関係をどう捉え,いかにしてこれらの大国との関係を自らめざす国家建設に利用してきたのかという点に集約できる。

Darling[1965]およびFineman[1997]は,アメリカ政府とタイ国軍との同盟関係に着目した研究である。タイ-米関係研究で最もよく引用される文献のひとつであるFinemanの研究は,1932年の立憲革命以後成立した人民党政権下での国軍,左派文民政治家,王党派との三つ巴の権力闘争のなかから,アメリカの政治的・経済的支援を受けた陸軍派の領袖ピブーンが1950年代に復権を果たし,タイで政権を獲得した様子を描き出した。

またMuscat[1990]は,防衛体制維持のためアメリカがタイに供与した莫大な軍事・経済援助にかんする詳細な実証研究である。MuscatやFineman,サリット・タナラット政権(1959~63年)の政治体制やその政治思想を検証した矢野[1968]およびタック[1989]は,ピブーンやサリットが,アメリカからの援助を警察や陸軍の組織・装備強化に費やし,権力基盤の強化を図った様子を描いた。ことにタックは,サリットとその後継者であるタノーム・キッティカチョーン軍事政権(1963~71年)のもとで,アメリカの資金が米軍の利用する道路や通信インフラ建設,地方における治安維持組織の設立運営に投じられた様子を示し,アメリカとタイ国軍との軍事的相互依存関係を強調した(注7)

アメリカ政府とタイ国軍の蜜月関係は,リンドン・ジョンソン政権期(1963~69年)にピークを迎えたのち,ベトナムでの戦局変化に伴い急速に後退した。Randolph [1986]はその過程をアメリカ外交文書(Foreign Relations of United States: FRUS)やタイのタナット・コーマン外相(在任1959~71年)へのインタビューをふまえ,タイ-米両国政府の間でインドシナにおける安全保障へのコミットメントをめぐり相互不信が高進した過程として詳細に描き出した。またSarasin[1976]は,タイの対米偏重是正と新たなパートナーを探す過程を「等距離外交」(equidistance)の萌芽として説明した。他方で中国への関心からタイの対中外交を描き出したKhien[1980],対中外交の変遷をたどったChulacheeb[2010],1960年代から70年代のタイ国民の対中認識を分析したタンシンマンコン[2019]は,1968年頃からタノーム首相が米軍のベトナム撤退とタイ国内の学生や知識人による対米批判に配慮し,対中接近に傾いていったとしている。これらの研究は,1973年の学生革命によるタノーム退陣後に,選挙によって成立したククリット・プラーモート政権下でタイが中国との国交正常化を果たした経緯を,アメリカの影響力後退の帰結として位置づける点で共通する。

このように1950年代から70年代初頭までのタイ外交は,アメリカの対東南アジア戦略とその援助を利用して成立したピブーンやサリットによる統治体制を中心に描かれてきた。タイ外交アナリストのZawackiは,1970年代前半の米中和解と73年のタノーム政権退陣を転機に,タイがアメリカから中国へ政治・軍事的後ろ盾を乗り換えたとしている[Zawacki 2017]。他方でPongphisoot[2016]は,1970年代以降もタイ-米両国がマニラ協定やタナット=ラスク共同声明の有効性を繰り返し確認している事実をふまえ,タイ-米関係は後退したのではなく制度として定着したのだと説明する。しかしいずれの研究も,安全保障をめぐるタイの対大国外交の文脈でタイ外交の変化を論じている点は共通する。

米中関係に注目する外交研究が1960年代後半から1970年代前半を転換期と位置づけたのを継承しつつ,1980年代末にもう一度転換期がきたと強調するのが,タイ国内政治体制に着目した研究群である。その代表であるKusuma[2001]およびBuszynski[1994]は,1980年代末から90年代初頭にかけてタイのなかでそれまで敵対してきたベトナムやラオス,カンボジアといったインドシナ諸国との貿易投資拡大を求める動きが現れ,以後,近隣諸国との経済善隣外交の時代に入った過程を,冷戦の終焉と国内の民主化という二つの要因から説明した。1980年代後半,ソ連がベトナム,ラオスといった友邦国への支援を縮小すると,これらの国々は経済開放政策に向かった。この動きにあわせ,タイでは1988年に選挙が実施されて,インドシナ諸国との貿易拡大を訴えるチャートチャーイ・チュンハワンが政権を獲得した。Kusumaらは,チャートチャーイがそれまで外交政策を独占してきた国軍や外務省を退け,外交政策決定の権限を直接掌握したことが,タイをインドシナ諸国との貿易自由化に押し出した決定要因だと主張し,同様の見方は広く支持されている[Buszynski 1994, 724; Kusuma 2001, 192; Sunai 1996; Suppakarn 2000]。

さらに1991年にカンボジア内戦和平協定が締結され,1992年にタイ国内で民主化が決定づけられると,タイは本格的に近隣のインドシナ諸国との経済外交を追求しはじめた。Buzynskiはタイ国家安全保障評議会議長の言葉を引用しつつ,当時のタイの安全保障政策担当者が具体的な脅威を周辺に認めていなかったと指摘し,脅威の消失が国軍に経済善隣外交を新たなタイの地域秩序構築枠組みとして受け入れさせたと結論づけた[Buszynski 1994, 726]。これを機に,タイは安全保障上の脅威への対処に軸をおく外交から,「経済的資産を用いてCLMV諸国への直接的な支援を供与することにより,好ましい感情を引き出す」[Kusuma 2001,195] 外交に転換したというのがその主張の要諦である。Jittipatはこうした経済善隣外交への転換について,全方位友好外交としての「竹の外交」をチャートチャーイが継承し,その最適な手段として対外経済政策を用いたのだと説明する[Jittipat 2022, 291-292]。

つまりこれらの見方によれば,タイでは1980年代後半に周辺の紛争が緩和したのと並行して国内政治体制の民主化が進んだ結果,安全保障以外の外交課題の優先順位が上がり,近隣諸国との対外経済政策を通じた友好外交に向かったということになる。

これらの議論の問題点は,戦後のタイ外交の分析対象を安全保障外交における外務省と国軍の関係に限定し,その結果1980年代末以前に行われた経済社会問題をめぐる外交や,外交に関与するアクターの多元性といった問題を十分に議論してこなかった点であろう。1950年代にはじまった途上国による国際経済システムの改革を求める動きは,1961年のUNCTAD創設合意につながり,1963年の第一回会議では途上国と先進国とが激しく対立した。タイもまたこうした動きと無縁ではなかった。UNCTADに途上国として代表を派遣し,1960年代には日本との円借款協定を締結するなど,「途上国」同士の連帯や「先進国」である日本との経済的協力関係を築いていたことは,同時代を扱う日本外交研究などで指摘されている。しかしながら,こうした1980年代末以前の経済をめぐる国際関係について,タイで誰が,どのようにかかわっていたのかという点を,Kusumaらの議論も,1980年代末以前のタイの冷戦外交を検討した研究群も,十分検討していない。さらにいえば,安保外交を担った国軍のなかにおける多様性についても,これらの研究は十分言及してこなかった。「国軍」「民選政治家」といった分類を超え,政策ごとにかかわったアクターを検証して外交主体の多元性を示す余地が残されているのである。

1980年代半ば以降については,経済外交にかんする研究が蓄積されつつある。タイ-米間の経済摩擦問題を取り上げたJackson and Mungkandi[1986],インドシナ諸国とミャンマーに対するタイの資源外交を扱ったInnes-Brown and Valencia[1993],1990年代末から活発化したタイの自由貿易協定交渉を扱ったNagai[2003],タイのインドシナ半島諸国に対する経済善隣外交とインドシナ地域協力構想を概観したChambers and Bunyavejchewin[2019]は,外務省,商務省,財務省といった中央官庁や企業,マスメディア,外国政府といった多様なアクターが参加した政策過程を解明した。それをふまえた上でさらに残された課題は,1980年代以降の経済外交にかんする研究をそれ以前の経済をめぐる外交とつきあわせて検証し,「安全保障の時代」から「経済外交の時代」へという断絶に重点をおく戦後タイ外交像を再検討する作業である。

Ⅳ 開発・経済研究による「経済外交」への示唆

1980年代末以前の対外経済政策について言及してきたのは,外交研究よりもむしろタイの開発や経済発展に関心を寄せる研究群であった。ここではパースックとベイカーによるタイ政治経済史研究,末廣昭によるタイの経済発展過程にかんする一連の研究を中心に,タイ経済の対外的側面としての対外経済政策を論じた要点を確認する。

タイは19世紀以降に「独立国」としての地位を保ちながらも,経済的には東南アジア諸国と同様に植民地経済システムの一部として世界経済に組み込まれた[杉原 1996; 加納 2001]。欧米諸国やその近隣の植民地に対し,シャムはコメ,錫,天然ゴムといった一次産品を供給すると同時に,欧米で製造された工業製品を輸入する原料供給地兼市場となった。1920年代以降,国内ではコメを中心にモノカルチャー化が進み,コメの生産・輸出がほかの産業をけん引する経済体制(ライス・エコノミー)が成立した[Ingram 1964; 末廣 2020]。第一次世界大戦後にはコメ関連事業における華人商人の進出が進み,「六大コメ財閥」の寡占状態となった[Suehiro 1989; 末廣 2006, 第5章]。これらの華人財閥から経済の主導権をタイ人の手に取り戻すことをめざし,1932年の立憲革命ののち,人民党政権は経済政策の国有企業による産業振興をめざした。パースック・ベイカー[2006]および末廣[2020, 352-422]によれば,この「経済ナショナリズム」を追求する政策は,1941年からの日本軍進駐や戦後の政治混乱,1947年のピブーンによるクーデタ政権樹立といった政変を越えて継続した。タイという国が,世界経済と強く結びつき植民地経済システムの遺構を抱えながらもそこからの脱却をめざすという,戦後の「途上国」による国際経済秩序改革に通じる志向を備えていたという指摘に留意したい。

さらにパースック・ベイカー[2006, 164-180]末廣・安田[1987]Suehiro[1989]は,1959年に成立したサリット政権が,ピブーン政権による「経済ナショナリズム」にもとづく国家中心の産業政策から,民間主導による外資受け入れ型工業化に転換した経緯を描き出した。Suehiro[1989]末廣・安田[1987]および末廣[2000a, 第6章]は,タイが外国資本によって1960年代から80年代にかけて輸入代替工業化を果たし,さらに農業開発による農産品輸出の多様化と量的拡大によって19世紀以来のモノカルチャー経済からの脱却を果たした点を強調した。そして,農産品加工輸出が輸出構造を下支えしたタイの経済発展パターンを,「新興農業関連工業国」(Newly Agricultural Industrialized Countries: NAIC)型発展と特徴づけた。

こうした経済発展パターンの背景要因として,先行研究は経済政策過程の分析に目を向けている。末廣[2000b]は,タイは急速な社会経済変化のために制度が安定せず常に変化してきた事実を指摘し,特定個人のリーダーシップやインフォーマルなネットワークが個別の政策運営にもたらした影響を分析する重要性を主張した[末廣 2000b, 46]。そして1961年のサリット政権期における第一次国家経済開発計画の策定過程を取り上げ,タイ中央銀行や予算局,首相府内におかれた技術経済協力局や投資委員会事務所といった経済関連省庁の官僚や専門家が,世界銀行やアメリカ政府の派遣した専門家と協働しながら政策立案にあたったことを指摘する[末廣 2000b, 22-23]。そこで末廣は,サリットの開発政策がアメリカのケネディ政権による反共戦略としての経済援助に呼応して開始され,アメリカの反共政策実践のため警察力強化やインフラ整備,工業化に重点をおいていたとする定説に対し反駁し,タイの経済官僚が国軍やアメリカ政府から一定の自立性を有しつつ,マクロ経済の合理的運営を行っていた点を強調した(注8)

本稿が注目するのは,1970年代以降のタイの経済政策における制度と特定の個人,政策との関係を分野ごとに考察した末廣・東[2000b]が,経済外交や国外アクターとの関係を「財政金融」「産業」といった「経済政策」のなかで取り上げており,「経済外交」あるいは「国際経済政策」といった独立の章としては扱っていない点である[末廣・東 2000b, 第3章第5節1-2]。末廣やパースック・ベイカーらによるタイの経済発展にかんする研究は,国際経済と深く結びついたタイ経済の特徴を提示し,開発政策の対外的契機を示唆している。その一方で,経済的対外関係をめぐる国家間の関係調整としての経済外交については,あくまで経済政策の延長として扱う。こうした見方は,末廣・東[2000b]が示したように,タイ側で通商や投資,援助をめぐる国際交渉を担ったのが,財務省や国家経済社会開発事務所,技術経済協力局,投資委員会事務局などの経済官庁であり,外務省はほとんど役割を果たさなかったことに由来すると思われる(注9)

ただしこのことは,末廣らが対外経済政策の外交的契機を無視していることを意味しない。たとえば末廣[2000b, 第2章]は1988年7月に成立したチャートチャーイ政権がインドシナ諸国に対し貿易投資を通じて友好関係を構築しようとした政策を「経済外交」と表現している。また末廣[2001]は,チャートチャーイの「経済外交」構想浮上の背景に「タイ国家やタイ民族の自立と威光の拡大を構想した,元左翼グループ」である首相政策顧問団の「小覇権主義」や,ベトナムをはじめとするインドシナ諸国の経済開放政策,日本のインドシナ和平・復興過程への積極的関与といった国際政治からの影響があった可能性を示唆した[末廣 2001, 14]。

これらの研究の先に残されたのは,個々の対外経済政策の国家間関係調整としての側面を実証的に検証し,タイの政策担当者が経済外交を通じて相手国や国際機関,あるいは国際制度にどういう影響を及ぼそうとしたのかを,冷戦やインドシナ紛争といった安全保障課題と照らしあわせて考察する作業である。

 むすび

第二次世界大戦終結後のタイ外交とはどのようなもので,何をめざして,いかなる人々がそのために働いてきたのか。この問いを考察し戦後のタイ外交像を再構築する作業の出発点として,本稿では,先行研究の検討による論点整理と課題の提示を行った。

戦後タイ外交にかんする研究は,第二次世界大戦後の国際環境,すなわち冷戦とアメリカとの同盟,インドシナにおける動乱の影響を強く受け,国軍(と国軍出身の首相)と外務省による安全保障外交を主たる分析対象としてきた。そしてその成立と後退とを詳細に記述する一方,経済社会問題をめぐる外交については関心を払ってこなかった。他方で経済問題をめぐるタイの外交は,国内経済政策の延長としてしばしば開発や経済発展にかかわる研究によって取り上げられながら,経済を通じた国家間関係の調整という側面についての実証的考察は十分に行われてこなかった。

戦後のタイ外交にかんする研究は,冷戦の文脈に強く影響されながら,国軍と外務省による安全保障外交に偏重して発展してきた。そして冷戦と冷戦下で成立した国内政治体制とを説明変数として,戦後のタイ外交を,冷戦の終焉と国軍の政治からの退場によって「安全保障外交」の時代から「対外経済政策」へ移行する変遷過程として描いてきた。しかし,これらの研究が1980年代末以降活発化したとする対外経済政策の担い手やその国際関係との関連については,それ以前の対外経済政策についての知見をふまえていないために,必ずしも明らかにされてこなかった。これらの研究は,冷戦の不在によって対外経済政策の隆盛を説明しようとしているのであり,その分析の限界を乗り越えるためには冷戦期の経済外交研究が必要である。

冷戦を説明変数としてその国の外交を説明する従来の戦後タイ外交研究は,それ自体が冷戦の産物である。冷戦研究については,近年冷戦終焉以降に旧共産圏などで開示された史料を用いた研究が進み,冷戦の中枢であった米ソから周辺へと研究対象の拡大が進んだ。さらに研究対象の拡大と並行し,脱植民地化や開発など,戦後の国際関係における社会経済的変化に対応する形で,軍事・政治的対立としての冷戦を相対化する動きが進みつつある[Westad 2010, 10-14]。欧州国際関係史を専門とする益田は,冷戦史の視点から「特定の冷戦理解に基づく研究アプローチではなく,総体としてのアプローチの多様性こそが,冷戦史研究の望ましい発展方向である」として「多元主義的な冷戦史研究」を唱えた[益田 2015, 15]。戦後タイの外交についてもまた,冷戦を軸とした従来の外交観を相対化し,経済や社会など多様な課題から再検討されなければならない。

タイにおける冷戦期外交研究については,タイ-米間のフルブライト協定による教育交流を視角に,アメリカにおけるタイ地域研究が冷戦に対し果たした役割を考察した小泉[2011b]や,冷戦期のタイ-中間で行われた中華系タイ人社会にかんする学術交流について分析したSitthithep[2017]など,軍事的対立から離れ学術の視点から冷戦期のタイの対外関係を分析した研究が現れつつある。またPavin[2005]は,タイのミャンマー外交の歴史的分析を通じ,「タイらしさ」(khwampenthai/thainess)というナショナリズムに訴える規範が外交政策を左右してきたという説を提示した。価値や規範といった問題も,前述した村嶋による「ナショナリズム」をめぐる対外関係研究と並び,安全保障という実利を中心的課題として扱ってきた既存研究を相対化し,新たな外交像を描くための視角となりえよう。

こうした最新の研究を参照しつつ,外務省と国軍を中心としたタイの安全保障外交を,ほぼ同時期に行われた東南アジアの近隣諸国をはじめとする途上国との協力や先進国との貿易交渉といった「豊かさ」をめぐる対外経済政策と照らしあわせて検証する作業が求められている。

かかる先行研究の動向をふまえ,本論は今後の戦後タイ外交研究の課題を,以下のように設定したい。まず第一に,これまで十分に論じられてこなかった経済をめぐる外交,とくに1980年代以前の政策を,脱植民地化などの国際政治と関連づけながら検証することが必要である。そして第二には,第一の課題への取り組みを通じ,外務省や国軍にとどまらず,経済官僚,民選政治家,企業など多様な主体が外交に関与した様子を実証的に描き出すことが課題である。そして第三には,上記の作業をふまえて外務省を中心とする「竹の外交」にかわる第二次世界大戦後タイ外交像を提示することが求められている。

外務省による「竹の外交」言説は,Ⅲでみたようにタイの安全保障外交を叙述する概念として用いられてきた。この概念は外務省が外交を一元的に統括,あるいは主導しているという前提にもとづいている。しかし,開発・経済発展研究が経済政策の分析で示したように,経済外交を主導するのが必ずしも外務省ではなく,国内の経済官庁であると考えた場合,その前提は大きく変わってくる。経済外交を含むタイの外交を説明するためには,単一の外交政策決定主体が全体の「バランス」をみながら外交を実施するという従来の説明ではなく,複数の政策決定主体がそれぞれの政策課題に従って,多元的に外交関係を構築しており,それが「タイ」という国の外交としてバランスがとれているようにみえる,という説明の方が説得的なように思われる。

こうした「多元的外交」については,本稿で提示した課題の実証的分析をふまえて検証されるべきであろう。その作業は,今後の調査をふまえ行うこととしたい。

[付記]

本稿は,アジア経済研究所における「戦後日タイ関係における経済外交の展開 1948~1995年」(2020/2021年度)の成果の一部である。調査に際しては,文科省科学研究費助成事業基盤研究(B)「東アジア秩序再編と統合の進展における日中ASEAN」(2020/2024年度。代表:大庭三枝・神奈川大学法学部教授)の資金も利用させていただいた。そして今回の掲載にあたり,丁寧に拙稿を読み検討してくださった『アジア経済』の匿名査読者のお二人から,非常に的確で貴重なコメントをいただいた。この場を借りて,これらの方々へ心から感謝の意を表したい。

(アジア経済研究所地域研究センター,2022年3月23日受領,2023年2月10日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  本稿では,タイの慣習に倣いタイ人名をファーストネームで引用する。なお,タイ語・タイ人名のアルファベット表記は,すでにアルファベット表記で著者名が記載されている文献を除き,タイ学士院布告(1999年1月11日付)の表記法を原則として用いた(タイ国官報 lem116, ton thi 37 ngo, 1999年5月11日記載)。またタイの国名については,1939年に人民党政府が国名をシャム(Siam)からタイ(Thailand)に変更したことをふまえ,1939年以前の出来事についてはシャム,以後についてはタイと表記し,1939年をまたぐ場合はシャム/タイとしている。

(注2)  たとえば対外政策決定過程研究の古典として知られるAllisonの組織過程モデル,政治過程モデルは,国内外における多元的なアクター間での利害関係調整過程の結果として対外政策を説明する[Allison 1971]。またこうした対外政策決定過程分析の枠組みを使った日本語による草分け的研究として草野[1983]を参照。

(注3)  大庭によれば,1960年代に行われたECAFE経済協力の在り方をめぐる作業で,タイの経済省次官ルアン・タウィンが大来佐武郎らとともに途上国による経済協力構想を取りまとめるなど,タイは積極的に関与していた[大庭 1999. 116]。

(注4)  Prince Wan Waithayakonによるこのエッセイは,1943年にタイ文化を紹介する一般向けのシリーズのひとつとしてタイ語で刊行された。その後1991年にOffice of National Cultural Commissionが主催した同親王生誕100周年記念事業の一環として,外務省国際研究センター(International Studies Center)による英訳版が刊行されている。本研究では,1991年の英訳版を参照した。

(注5)  永井[1994]もまたLikhitと同様に,ラーマ4世期のシャムが英国との協力のもとで近代化を進めフランスに対抗したことを指摘する論文である。

(注6)  ただし,村嶋はこうした「脱植民地化」をめざしインドシナとの連帯を求める外交は,1949年の中華人民共和国成立,1950年の朝鮮戦争勃発を機に,「冷戦体制にタイが組み込まれたことで雲散霧消した」と結論づけている。

(注7)  タックの著作を引用するにあたり,本研究では,Thak[1979]の日本語訳であるタック[1989]を参照した。同書は日本語訳にあたり英文のThak[1979]をタイ語に翻訳した以下の書籍を底本としている。Phani Chatraphonrak and Prakaithong Siriruk, trans.1983. Kanmuang Rabop Phokhun Uppatham Baep Padetkan[独裁型後見的ポークンの政治]. Bangkok: Thammasat University Press.

(注8)  サリットの開発政策がアメリカのケネディ政権による反共戦略を実践するものであったとする言説の例として,Darling[1965. 184]を挙げておく。またタック[1989, 283; 299-313]は1960年のラオス危機から,パースック・ベイカー[2006, 410]は1965年の東北地方におけるタイ共産党武力闘争開始の前後から,政府の地方開発計画は共産主義勢力への対抗戦略へと変容したとしている。

(注9)  青木[2008; 2017]による1990年代以降のタイの対外援助政策や通商政策にかんする研究でも,政策過程は外務省よりも財務,商務,国家経済社会開発委員会事務所などの経済官庁のかかわるところが大きかったことを示している。

文献リスト
 
© 2023 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top