アジア経済
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書評
書評:池田真也著『商人が絆(ほだ)す市場――インドネシアの流通革命に交わる伝統的な農産物流通――』
京都大学学術出版会 2022年 ⅲ+ 207ページ
内藤 耕
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2023 年 64 巻 2 号 p. 63-65

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すえたような匂いと澱んだ空気,そこにいるだけで数分と経たないうちに汗が滴り落ちてくる。伝統的市場(パサール)は行き交う客や商人の熱気に満ち溢れている。インドネシアの都市部でもスーパーマーケットやコンビニエンスストアがあたりまえの景観となっている。にもかかわらず,パサールはなかなかなくならない。それどころか2000年代まで増え続けてきたスーパーの一部は撤退し,出店数は頭打ち状態だという。大規模小売店が伸び悩む一方で,パサールは消費者の生活を支え続けている。他方,お世辞にもきれいとはいえないパサールで働く人々や客がスマホで情報をやりとりする様子はすっかり日常となってしまった。

「伝統から近代へ」という発展モデルに疑問が呈されてから久しい。とはいえ,そうした疑問はときに情緒的であって客観的検証に耐えうるような議論はあまり多くはなかったように思う。本書の問題意識はまさしく流通の近代化がインドネシアでは教科書通りに進んでいないことを示して,途上国のあらたな発展モデルを提供することにある。扱うのは農産物,なかでも野菜の流通である。

序章では,パサールが衰退し市場が卸売市場を軸として統合されていく流通の近代化モデルを相対化することが本書の目的として示されている。伝統的流通がしぶとく残り,なかなか進まない流通の近代化はややもすれば開発の遅れとして理解される。著者はこうしたいわば常識への挑戦を宣言する。おおざっぱにいえば流通の近代化はバザール経済から中央卸売市場を核とした市場統合へ,そして小売企業主導の契約栽培の導入といったプロセスをたどるものと理解されてきた。だが,本書はこうした「近代化」モデルが翳りをみせていて,むしろ小商人によって支えられている伝統的流通の「発展」にこそ注目すべきであるとする。しかもその「発展」は近代的流通に影響を受けたものであるという。序章に続く各章ではまず前半の3つの章で産地流通の実態が分析され,第4章以降で卸売市場の分析が行われる。

第1章では,産地流通取引が近年どのように変わってきているのかをあきらかにしている。ここでは流通革命のなかで契約栽培に移行できない農家が即座に市場から退出するわけではないことが示される。調査地を西ジャワ州チアンジュール県と東ジャワ州マラン県に定め商人と農家の取引関係を追っていく。ここで重要視されるのはトゥバサンという伝統的な収穫請負契約である。収穫前に販売契約を結び,商人が収穫および輸送を行う。これを担うのは伝統的流通の商人である。分析では,スーパーマーケットへの販売に特化した産地在住の卸売業者(以下,SS)がトゥバサンを利用するこれら商人から仕入れる傾向が指摘される。

第2章では,トゥバサンの取引特性が検討される。小規模経営農家は容易には契約栽培に切り替えられず,むしろトゥバサンを利用して変化しつつも生き残っていく。ここでトゥバサンが選好される要因としてとくに検証されるのは,農作物の品質評価にかかる費用である。もちろん前述の収穫費用や輸送費用が選好に影響を与えていることも示される。家計労働者も含めた収穫要員の確保が難しく,また輸送手段をもたない,比較的貧しい農家がトゥバサンを選択する。だが,極めて重要な指摘はトゥバサンを通して,農家側も評価機能を分担するという点である。近代的流通向けの野菜生産で得られる価格プレミアムは,通常,商人が吸収すると考えられる。それに対してトゥバサンでは農家側も価格プレミアムを享受できるというのである。この場合の評価は収穫前の契約交渉において行われ,野菜の品質情報を商人に提供することによって行われる。

第3章は,契約栽培が導入された地域における伝統的流通の分析にあてられている。つまり近代的流通の視点から伝統的流通の動態が検討される。ジャワ島の流通革命はSSと農業企業の台頭によって特徴付けられていた。しかし,本章では生産者が農産物の等級分類を行うようになって,彼らが弱体化していったことが指摘されている。つまり,2019年までにSSや農業企業は一部を除いて市場から退出し,契約栽培を行わなくなった生産者は伝統的流通の卸売市場へと販売するようになった。生産者がグレードの低い野菜の販売先として伝統的流通を保持することによって近代的流通との交渉力を得たためである(ホールドアップ問題)。契約栽培を通して技術指導を受けた農家はSSと伝統的流通の双方を同等の選択肢として扱うようになる。また,買い手であるスーパー側は激しい競争にさらされていたため,価格は低下傾向にあった一方で,農家などによる伝統的流通への販売価格は上昇,両者の動向から契約栽培が行われなくなっていった。

第4章では,市場統合が扱われる。先行研究では,ジャワ島では中央卸売市場と産地市場の統合が不十分であることが指摘されてきた。本章では,西ジャワと東ジャワの比較を行い,後者では一部の野菜流通で市場の統合が確認されたものの,中央卸売市場を中心とした流通がより発達している西ジャワでは認められなかったとして,改善の余地を指摘する。だが,他方ではジャワ島西部最大の中央卸売市場であるジャカルタのクラマッ・ジャティ市場(K市場)から産地の出荷市場へ価格情報の伝達がみられたという。つまり,中央卸売市場で形成された価格が各地で参照され,前章でみた伝統的流通における野菜価格の上昇につながったことが示唆される。

第5章では,前章に引き続き中央卸売市場に焦点が当てられている。K市場は巨大ではあるが,相対取引が主流となっている。つまりバザール的な伝統的市場の様相を特徴としている。だとすれば,その価格形成機能はどのように評価できるのか。集分荷の効率性や代金決済および信用供与の実現などとともに分析される。結論としては,東ジャワの市場と比べるとK市場やバンドンの市場が十分競争的であり開かれていることが指摘される。この競争はバンダルと呼ばれる卸売業者とチュンテンと呼ばれる仲買人との間の競争的な値付けによって説明される。この卸売業者と仲買人の分業(BCシステム)は相対取引で生じる価格の偏在を解消し,価格情報を市場レベルで集約する。しかし,反面,K市場に搬入される野菜はその生産量がほぼ一定であるにもかかわらず減少している。卸売業者と仲買人を合わせたマージンが大きいことを嫌った産地商人が直接小売市場に出荷する中抜きが生じている可能性が指摘される。中央卸売市場を中心とした市場の統合は流通量においては後退しつつも,価格形成においては十分な役割を担っているという興味深い知見が示される。

第6章は,本書の結論をなしている。ジャワ島の流通の本質は伝統的流通にある。それは容易には近代的流通によってとってかわられることがない。むしろ伝統的流通は近代的流通から影響を得て発展している。スーパーマーケットの契約栽培を受け入れることによって農家が技術力を向上させたとするなら,その意義を伝統的流通の文脈で評価し直すことが求められる。また,パサールでの売買を基盤とした伝統的流通が卸売市場の機能を備えるようになってきたことが指摘される。こうして,しめくくりとして展望されるのは伝統的流通と近代的流通のより進歩的な共存体制である。

以上が,本書の概要である。開発経済学に不案内で計量的分析を不得手とする評者にはいささか手に余る内容ではあるが,感じたことをいくつか指摘してみたい。

まずもって評価したいのは,本書が文化人類学と開発経済学との架橋を試みた意欲的な作品となっている点である。単純な近代化論を退け,伝統的流通がしぶとく残るどころかそれ自体が近代的流通の影響を受けるなかで発展していくという結論は,非常に刺激的である。そして,一般的には衰退していくものととらえられてきた伝統的流通の発展を支えるのは,商人の自律性であるとの指摘に学ぶことは多い。浮かび上がってくるのはただ消え去るだけの弱い存在ではなく,伝統的流通のなかでしたたかに戦略を構築していく存在としての商人や農家である。

次に評価したいのは,その研究手法である。ジャワ島のなかでもジャカルタ首都圏の野菜供給地である西ジャワ州と東ジャワ州のスラバヤに近い地域を選んでいる点である。地域を語る場合,多くの著作がジャワ島のなかの極めて限定的な一地域を対象としてきた。逆にいえば複数地域を調査対象としていくことはそれだけむずかしいということでもある。ジャカルタ首都圏という大消費地の状況を素描するだけでも十分な価値があるとも考えられるところ,国内第2の都市スラバヤの近郊も対象とすることで,ジャワ島内における発展の違いが確認され生半可な理解が排除されている。

関連して,緻密なデータを自ら歩いて収集していったことにも敬服せざるをえない。前述のように計量分析の門外漢にとっては研究方法の正当な評価など不可能であるが,収集されたデータが果たして検証に耐えうるだけの量であったかどうかは疑義を呈する向きもあるだろう。だが,インドネシアでは統計数字があてにならない。先進国であればあって当然の数字が入手不可能であったり,信用度の低い資料しか存在していないことに評者も幾度となく苦しめられてきた。確かなデータを求めようとしたら,自ら調査票を作り調べて回るしかない。だが,言うは易く行うは難し。相当数の量のデータをしかも2地点で収集する努力は容易なことではない。それだけに本書にまとめられたデータは,今後に続く研究にとって参照されるべき価値を十分含んでいるといえる。

以上のように問題設定と結論の先鋭さ,そして研究方法とその結果に表れた努力を高く評価した上で,若干の誤字,用語等の不統一の改善を求めること以外に,ないものねだりのそしりをおそれずに多少の希望を述べておきたい。いずれも著者自身が意識しているであろうことは確かなので,評者も含めた研究者全体の課題としても位置づけられる。

第1に,冒頭でふれた大規模小売り店舗の低迷は,本書でもなんどか指摘されているが,その原因については明らかにされていない。本書は供給側に視点をおいて容易には近代化されない農産物流通のおもしろさを指摘したものであるが,より消費側に近いアプローチをとることでみえてくるものもあるのではないか。たとえば都市部の渋滞が購買行動の制約のひとつとなっていて,都市下層では多少価格が高くとも路地裏の簡易な店舗での少量の購入が選好される。こうした伝統的店舗を経営する小売商人がパサールの卸売機能を支えているのではないか。インフォーマルな労働に従事する階層が分厚く正規労働との境目もはっきりしない社会システムは,流動的で,統合されない経済を常に再生産しているように思う。

第2に,著者は近代的流通を是とする常識をくつがえそうとするが,伝統と近代という二項対立を実態が超えつつあるということはないであろうか。流通革命や流通の近代化は,日本では半世紀以上前に喧伝された概念である。インドネシアの経済発展が雁行型モデルによって説明可能とするなら,依然として重要な課題であることは確かであろう。開発はいまだに政策のトップを譲らないし,行政はもちろんのこと市井の人びとの日常もまた線形的発展観に支えられてゆるぎない。しかし,著者自身も第6章の後半,コロナ禍でジャワ島の流通で広がったE-commerceの可能性を慎重を期しながらも論じているように,ことはそう簡単ではない。中国同様にインドネシアもまた急激なDXのなかにあって,リープフロッグ型発展モデルに近づこうとしている。著者は,E-commerceを生産者にとって近代的流通,伝統的流通に次ぐ第3の選択肢と評価するにとどめているが,そうした選択の広がりこそが伝統/近代の構図を超えたあらたな段階への移行としてとらえられないか。

最後に,本書の内容は著者が研究者として誠実であるがゆえに物足りないといったら言葉が過ぎるであろうか。著者も「開発経済学のディシプリンを軸にシンプルな絵で伝統的流通を切り抜くアプローチ」を選択したと言っている。しかし,調査が単に質問票の集計,分析にとどまらない分厚い記述に裏打ちされていたであろうことはいくつかのコラムを読めば嗅ぎ取ることができる。なによりも量的にはおそらく十分とは言い切れないデータにこれだけのことを語らせるには,フィールドを歩いて感じた膨大な経験値があるはずだ。結論に向けて一直線に突き進むなかで削ぎ落とさざるを得なかった内容をあらためてみせてもらえる機会があればと思う。そこにはおそらく著者が取り憑かれたであろう他の地域にはないインドネシアの魅力が潜んでいると思うからである。それも含めて,あえて書名を「絆(ほだ)す」とした著者の次の作品を期待したい。

 
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