オーストリア文学
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もう一つの演劇
エルフリーデ・イェリネク『光なし』における合唱隊
井上 百子
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2016 年 32 巻 p. 60-71

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抄録

エルフリーデ・イェリネクは今から四半世紀以上前に行われたインタビューで、主体と言語の不可分な関係を前提とする心理劇と自身の作品を異なるものと位置づけ、行いたいのは「もう一つの演劇」であると宣言した(1)。この発言の背景には、既存の演劇に更新を迫る彼女の急進さがなかなか理解され難かったという事情がある。彼女は、散文デビュー当初から心理を持った登場人物を描いてきたわけではない。ト書きを付し、役ごとに台詞の振られた戯曲であっても、配役名は抽象的で、特定の言説を担わされているに過ぎない。『雲。家。』(一九八八)以降は、ハイナー・ミュラーを彷彿させるような配役もト書きもない作品が発表されるようになる。演出家への挑戦状ともいえるような作品を解説するかのように、イェリネクは登場人物とは「発話からなるのであり、存在しているものからなるのではない」(2)と述べ、それ以後も「役者は発話することなのであり、発話するのではない」(3)と念を押している。「もう一つの演劇」 の中核をなすのは、言葉を発することだ。役者は発話を通じて生まれる。ここで通常、当たり前とみなされる役者の身体と発話の関係は切り離された(4)。作家による要請は観客にもおよんだ。「観客は聞こえることを舞台上に見るべきではない」(5)。これは調和のとれた知覚に対する批判的な見解だといえる。こうした「もう一つの演劇」との取り組みが現在のイェリネクの演劇テクストに脈々と受け継がれているならば、今日「もう一つの演劇」はいかなる様相をなして いるのだろうか。

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