自分のキャリア形成に関連して記憶に残る言葉をいくつか手紙に似た形式で綴ります.若手研究者のキャリア形成の参考のために,自分のキャリアについて執筆するよう依頼を受けていたのですが,昔を振り返るうちに,懐かしい人達に心の中で話しかけてしまって,変なお手紙になってしまいました.
心に響く言葉をもらうことは,花束をもらうようだ,と思う最近です.死別を含め,人との別れはありますが,もらった言葉との別れはありません.覚えている限り一生一緒にいられます.
ここに記載できなかった分も含めて,言葉の花束で私を生かしてくれた人々に感謝を捧げます.私はキャリア形成を自分一人ではできなかった方で,結局多くの人に支えられてキャリアを歩んで来ました.つまり,キャリア形成は自分ひとりで歩む道・決める道でなく,人との相互作用の中で,けっこう受動的に決まっていくのではないかと言いたいのです.特に私の場合,言葉の花束を贈ってくれた人がいつもキャリアの助けになりました.多くの出会いの中から一生覚えていたい言葉をくれる人を探してください.それが道標だと思います.
才がある by S.S.先生
後に生物物理の理論・実験の学際的研究の代名詞のように言われる私ですが,学生当時は生物への興味は全く無く,生物とは無関係の非平衡統計力学の理論分野を専攻していました.その時から,現在もですが,研究者になりたいという気持ちはなく,ただ研究が好きでしたので続けたいと思い進学しました.進学したものの,私は勉強ができる方ではありませんでしたので,周囲でも評価は割れたでしょう.そんな中,指導教員であるあなた一人が私を認めてくれました.毎日5から8時間くらい圧倒的な時間をディスカッションに費やしましたね.鬼のように課題が多い毎日で,計算ができない時も許してもらえず,ストレスで机を叩いていました.後輩は皆ひいていたと思います.そんな過酷な状況でも研究者として尊敬するあなたの言葉があったから,私は研究者になることを一度も迷いませんでした.成功した後に言うのは簡単.何にもできなかった学生の時にあなたが私を発掘してくれて研究者として育ててくれました.
そんなの気づくよ by H.T.先生
他大学ですし単位取得とは無関係でしたが,指導教員の共同研究者であるあなたのお名前をよく聞いていたので,学生時に興味本位で熱力学と統計力学の授業に潜り込んでいました.授業をこっそり潜っても気がつかれないと思っていたのです.
秘密話を一つ.あれから時が経過して,東北大学工学部応用物理学コースの准教授になった私は統計力学の授業をしているのです.何と,あなたの講義ノートで!人の講義ノートをベースに授業するなんて呆れますよね.それでも,私にはこれが理想の授業なのです.
毎年,応用物理学コース3年生約40人は,あなたの講義ノートをベースに統計力学を学んでいます.培風館の教科書は磁性体分野で評判がいいので物性分野中心の応用物理学コースによく合います.私ではオリジナルの1/100も統計力学の面白さは伝えられないですが,でも,私の授業,分かりやすいってけっこう評判いいんですよ.出来が悪い方が上手に伝えられるのかもしれません.
単位取得と無関係の授業を真剣に聞く学生は少ないでしょう.しかしながら,その時何の役に立つか分からなくても,一生懸命やったことは必ず人生のどこかでひょっこり顔を出すもの.私もその時はまさか自分がこの授業をやる側だなんて想像してませんでしたから.
心意気が気に入った by H.N.先生
非平衡統計力学の理論分野での学位取得後に,学振の特別研究員になれたものの,出来の悪い私はすぐに行き詰まりました.この分野ではもう成長できない,無理だ,ということに自分で気がついてしまったのです.2000年代は,非平衡統計力学で発見された新しい理論が生体分子1分子の顕微鏡観察や光ピンセット実験で検証される理論・実験の融合研究の時代でした.その時代の雰囲気に留学で生物実験を勧められるままに,実験分野に転向しました.少しでも成長できて変化できる自分でありたかったのです.
帰国後に会った際,理論分野出身の私が自分で実験もやりたいという心意気を,あなたは評価してくれました.自分の方向性に悩み物理学会を辞めてしまって行き場のない私を,研究室に受け入れてくれました.置いてもらうために無理やり作ったような研究課題で,後に日本生物物理学会の若手奨励賞を受賞しましたね.必死でした.でも楽しかった.研究員としてたった二年くらいしかいなかったのに十年いたような居心地の良い夢のように楽しい研究室でした.
何も出来ない自分を信じてくれた2番目の研究者があなたです.私のキャリア形成は一人で歩こうとして,でも出来なくて,結局誰かに手に引かれて助けられてきました.
研究室は平和でいい by K.S.先生
学生の時に物理学会でお会いしてからずっと,あなたは笑顔で私の研究の話を聞き続けてくれました.実験研究室で研究員をしていた時分,もう物理学会はやめてしまったというのに私を覚えてくれていて,変わらない笑顔で「東北大学大学院工学研究科応用物理学専攻の助教として来ないか」と声をかけくださいました.私には立派すぎる職位でしょう.助教としてあなたの研究室に着任してすぐに東日本大震災があり,共に乗り越えてきました.私はいつも文句ばかりであなたを呆れさせてきたことと思います.学生の指導も研究もちっともうまく出来なかった.なのに,あなたも専攻の先生方も私を見放さず,理論なんだか実験なんだか中途半端でわけ分からない私の成長を辛抱強く見守ってくれました.分野転向と言えば格好よく聞こえるかもしれません.でもその実態は学位のやり直しですから,結果として十年,周りの人から遅れてしまいました.論文もそろわず,受賞も年齢が間に合わない.そんな状況で,AMEDとさきがけの採択が運良く続き,同専攻の准教授に昇進したのでした.
その後,あなたの退官に伴い准教授でありがながら実質研究室代表になった私はあなたが言い残した言葉を痛感しています.研究室の外,つまり専攻・工学部・大学について案外揉め事が多いですね.これまで全てあなたが無言で背負ってくださっていたのでしょう.教員会議が長引いて午後6時過ぎに研究室に戻ると時々学生が「コーヒー煎れましょうか」なんて言ってくれるんです.研究室は温かいですね.
最初に出た研究が by K.K.先生
エッセイから抜粋したこの言葉には続きがあります.
「洗練されていないのは当然で,たいがい,革命的な考えと未熟な部分が共存している」(カオスの紡ぐ夢の中で(ハヤカワ文庫)より引用).准教授になってからもう五年目.今年,応用物理学専攻大学院向けの授業で非平衡統計力学入門を開講するにあたり,学生時にやっていた勉強と周辺にいた研究者たちの資料を見直していました.このエッセイはその資料の1つです.今年になって,これまで取りこぼしてきたものを拾うこと,ちょっとでも気になることに十分時間をかけて立ち止まることを一番大事に考え,研究の優先順位を下げました.これまで取りこぼしてきたものの中にきっとこのエッセイも入るのでしょう.
ところで現在の私の悩みは,論文が通らないこと.非平衡統計力学に基づく新規の計測の提案は通したら最後皆が従わないといけないので分野全員に納得してもらわないといけません.でも,私は間違えを犯したかもしれない.修正がいるかもしれない.地下鉄の中で件のエッセイを流し読みしていたのはそんなモヤモヤしていた時でしたから,言葉が心に染みました.
林久美子(はやし くみこ)
東北大学大学院工学研究科准教授