2023 Volume 63 Issue 1 Pages 49-50
大阪大学大学院生命機能研究科に入学してから,約10年間,分子モーターのin vitro 1分子計測に携わってきましたが,分子から生命システムの階層を上がっていきたいと考え,現在はスイス・チューリッヒ大学にある細胞生物学の研究室に所属しています.Lucas Pelkmans教授が主宰する現研究室は,細胞集団で現れる遺伝子発現の不均一性(確率性)が,細胞状態(細胞の大きさや細胞周期など)から予測可能であることを明らかにしました.つまり,1分子レベルでは確率的な生物学的過程も,細胞状態によって決定されているように見える.確率論的なものから決定論的なものを生み出すメカニズムの研究は,分子モーターの研究とも似ていて生き物らしさを感じたことが,今の研究につながっています.また,Crossing scalesは研究室の一つのキーワードになっていて,まさに生命システムの階層を上がっていきたい自分の動機とも重なりました.
現在こちらでは超解像イメージングを用いたトランスクリプトーム解析技術の開発を行っています.また,研究室の同僚たちは,ゲノムの3次元構造と細胞状態の相関を明らかにしようとしていたり,ゼブラフィッシュの胚やオルガノイドを扱っていたりと,実にバラエティに富み,そしてサイエンスの情熱に溢れたラボです.
スイスのイメージと言えば,銀行と製薬会社でしょうか.人口は日本の10分の1以下の小国でありながら,科学技術と経済に関しては強さと自信を感じます.ある新聞によると,直近のデータで人口あたりの論文数は,スイスは世界1位,日本は先進国最下位ということで,現在,科学においては日本よりよほど成功している国と言えるかもしれません.大学の授業は英語で,また博士学生に対する経済的な援助も充実しているため,ヨーロッパ中から優秀な人たちが集まっているようです.
住みやすさの世界ランキングでも上位にくるチューリッヒの生活はおおむね快適です.チューリッヒはドイツ語圏(スイスにはフランス語圏とイタリア語圏もあります)ですが,スーパーの店員でさえ英語が話せるため外国人が住みやすい街でもあります.治安が良く,日本人の友人がスマホを電車に落としたが,返ってきたことを聞きました.スイス最大の都市なのに緑が多く,自宅から自転車で5分も走れば,辺り一面の緑と,牛に囲まれた景色に出会えます.
スイスは,イタリア,フランス,ドイツに囲まれており,例えば,週末に国を跨いで観光に行くことも可能です.ヨーロッパの人は仕事とプライベートのメリハリがしっかりしていて,できるだけ効率的に働いて,長期休暇をとって旅行に行きます.毎日夜遅くまでラボにいるという人はいないにも関わらず,論文の生産性が高いのには驚きです.
スイスの物価は難点で,安くて美味しいレストランを見つけることは至難の技です.日本に行ったことがある同僚からは,日本はレストランが異常に安いのに,野菜や果物は比較的高い.レストランの従業員は無償で働いているのか,と言われました.確かにヨーロッパではスーパーマーケットで手に入るものはレストランの値段に比べてリーズナブルだと感じます.コンビニもないので,スイスでの生活は自炊能力が求められるかもしれません.新鮮な魚が手に入りにくいことも日本人には辛いことだと思います.個人的には,日本酒が恋しくなる時はありますが,ワインとビールの美味しさがそれを忘れさせてくれます.
来る前は現地で調べればなんとかなると準備をせずに来てしまいましたが,知っていれば困らなかったことはたくさんあったので,現地の日本人コミュニティーなど頼れるものは頼るという精神は大事だと思うようになりました.
海外の研究でいくつか苦労したことを書きたいと思います.まず,初めて海外で研究を始めるタイミングで研究分野を大きく変えたことは,得るものも大きかったと同時に大変でした.単純に文化の違いと研究分野の違いの両方に適応しなければいけないからです.文化が違うと「常識」が違います.例えば,多細胞レベルの現象を観察する時,多くの場合,1分子の挙動はあまり気にしません.生物学に還元主義的アプローチは有効ではないというのが彼らのコンセンサスのように見えます.彼らの「常識」を理解するのには時間がかかりましたが,一方で,「常識」のぶつかりは新しい「常識」が生まれるきっかけにもなるように感じています.
また,文化が違えば,当然ラボのシステムも日本とは違います.例えば,こちらではポスドクと学生など立場の違いによって発言の重みが違うということはありません.新しいラボメンバーの面接の際,学生を含めた全員が同様に評価に関わるのには驚きました.日本では立場を尊重するなどの暗黙の了解がありますが,科学の世界においては必要のないことかもしれません.ラボの運営方針はオープンかつ効率的で,研究に関する情報共有をSlackなどで素早く行っていることにも文化の違いを感じました.
こちらに来て英語でのコミュニケーション能力は重要だと感じています.こちらの人が無意識に身に付けている議論する習慣や研究の問題点を人に積極的に話す習慣は見習いたいと思っています.来る前は国際学会も頻繁に参加していたので,それなりに英語でコミュニケーションがとれるだろう,多少英語ができなくてもデータがあれば議論はできると根拠のない自信があったのですが,そう簡単にはいきません.蓋を開けてみると,同じアジアの留学生にさえ発表をフォローしてもらう始末です.大事な議論がなされているのにも関わらず,英語のせいでついていけなかったことも残念ながらありました.高度な英語の議論を通して得られるものは大きいと感じています.
最後に,日本人は職人気質だと言われますが,研究を進める上でそれが必ずしも利点にはならないことは,私の中で重要な気付きでした.今の研究室では,いくら高度な技術をアピールしても認めてもらえることはなく,そもそもそれは必要なのか,最終的に君はどのような生物学的疑問に答えたいのか,ということを常に問われます.1分子計測や超解像イメージング技術が簡単に試せるようになった今,計測の性能の向上だけに目を囚われていると,本当に挑戦したい疑問を見失うということは今後の研究にも活かせる教訓だと思っています.
この原稿の依頼を頂いてから締め切りまでに,約3年半のスイス生活の終わりが決まってしまいました.慣れない環境で仕事をするのは苦労の連続でしたが,自分の「常識」を再構築する経験は貴重なものとなりました.Lucasはもちろんのこと,同僚や学生たちのサイエンスに対する情熱と厳しさは,尊敬することや学ぶことがたくさんありました.一方で,今のラボは生物の決定論的な側面に焦点を当てていますが,日本では確率論的な側面を見ていた私には違和感を感じる場面もありました.将来を予測することは難しいですが,今後は自分なりの生き物らしさを考えながら,研究を続けたいと思っています.
Lucas(後列左から4番目)の家でのラボパーティー.筆者は前列左から1番目.
新鮮な卵や牛乳が買える自宅から徒歩10分の牧場.