早いもので,私がポスドクとして渡独してから,丸5年が過ぎました.苦労もありましたが,それを補って余りあるたくさんのことを学べた期間だったと思います.そんなドイツでの経験を,この場をお借りして少しだけ振り返らせて頂きます.
学部生から博士課程までの6年間を東京大学の濡木研究室にて過ごした私は,膜タンパク質のX線結晶構造解析で学位を取りました.当時は,折しもクライオ電子顕微鏡を用いての単粒子構造解析が飛躍的に発展したタイミングです.必然的に電子顕微鏡を用いての解析に興味が向かう中,私が惹かれたのが,サンプルを傾けて様々な角度から画像を撮りそこから3次元構造を再構成するクライオ電子線トモグラフィー(cryo-ET)と,それを用いての細胞内でのタンパク質構造の可視化でした.サンプルの精製なしで細胞内で構造解析ができるなんてすごい,という短絡的な考えに基づきこの技術を学べる所にポスドクとして行こうと決めた私は,運良く核膜孔複合体のcryo-ETによる構造解析で有名なMartin Beck labに採用して頂けることとなります.核膜孔複合体は私が博士課程で慣れ親しんでいた生物学的トピックとはかけ離れたものでしたが,同じ構造生物学分野だし行けばなんとかなるだろう,と高を括り,2018年9月,当時Beck labがあったドイツ,ハイデルベルグの欧州分子生物学研究所(EMBL)にてポスドク生活をスタートしました.
ドイツに渡って早々に認識したのは,「同じ構造生物学分野」などではない,全く異なる環境に自分が来た,という事実でした.ボスのMartinの興味は核膜孔複合体が関与する生命現象全般であり,用いる実験手法もcryo-ETに限らず質量分析,細胞やハエ発生のイメージングなど多岐に渡っています.博士課程で構造解析と生化学実験にしか触れてこなかった私にとって,これらの手法はいずれも馴染みがないものであり,自分の周囲にこういった手法を扱うメンバーが存在する,という環境自体が新鮮なものでした.彼らの実験の話を聞く度に,自分がこれまで注意を向けてこなかった手法や生物学分野の存在を認識し,自分の知識や興味がいかに狭い分野に向いていたか,に気づかされていきました.またBeck labでのcryo-ET解析の多くは細胞内で起こる現象と関連づけた形で進められており,これらの研究内容を理解し,また自らそのような研究を進めようと思うならば,個々の分子より上の階層の視点が不可欠でした.このように,博士課程の頃と比べて,必要とされる知識や考え方が大きく異なる場に身を置いたことで,私の視野は少しずつ広がり,自然に,構造生物学以外の知識を学ぶ必要性を感じるようになっていきました.
学ぶべきことがたくさんあった私にとって,EMBLでポスドク生活をスタートできたことはとても幸運なことでした.EMBLには構造生物学以外にも細胞生物学,発生生物学など様々な分野の研究グループが存在し,これらのグループが主催する何らかのセミナーがほぼ毎日行われています.EMBLのメンバーは自由にこれらを聴講できるため,様々な研究分野の話を聞く機会に恵まれました.こうして自分がこれまで触れてこなかった多様な研究分野を知ることで,知識や視野を広げ,少しずつラボメンバーとの話について行くことができるようになったと思います.もう一点,私が実験技術を学ぶ上で非常に重要だったのがEMBLのShared facilityの存在でした.EMBLでは,電子顕微鏡,光学顕微鏡,質量分析など各種技術に特化したShared facilityが,実験機器のメンテナンスのみならず技術の開発,ユーザーのトレーニング,技術を解説する講義の開催などを行っています.特に電子顕微鏡関連の技術をゼロから学ばなければならなかった私にとって,こういった講義や,マンツーマンでの電子顕微鏡操作のトレーニングは技術と知識を自分のものとして身につける上で不可欠なものでした.残念ながら2020年のコロナ禍に伴い対面でのトレーニングは大きく制限され,また直後にグループの引っ越しに伴い現所属に移動してしまったため,EMBLの環境をフルに活用できたとは言えません.それでも,EMBLでの2年で学んだものは現在自らのプロジェクトを進める上での基礎として大いに役立っています.

ラボリトリートで行ったスノーシューイングでの集合写真.
右から二番目がMartin.その左斜め前が筆者.
EMBLは特定の国に属さない欧州の研究機関であり,非常に国際色豊かかつ研究内容も多岐に渡っています.一方2021年から所属するMPI Biophysicsは純然たるドイツの研究機関であり,職員にドイツ語話者が多く,研究内容も構造生物学にかなり偏っていました.前述の共通設備もEMBL程は整備されておらず,各グループの研究が各グループ内で完結する,日本の研究環境に近い雰囲気で運営されています.このこぢんまりとした環境が私には合っていたようで,こちらに移動してからようやくポスドクらしい動きができるようになった気がします.EMBLで学んだ基礎をベースに自らのプロジェクトを進め,MPIで3年近く過ごすうちに,いつしか知識は増え,ラボ内の多様なメンバーとも一定程度議論ができるようになっていました.当初は苦労した英語でのコミュニケーションにも,研究内容の理解度が増し,ラボメンバーと話す機会が増える内に,自然と慣れてきた気がします.長く過ごせば何事も,そこそこなんとかなるものなようです.
こちらに来てよく聞くのが,「ポスドクでは手法か研究対象を変えるべき」という言葉です.実際私の周囲では,博士課程からポスドクに進む上でどちらかを変えているケースが多く,またそれが当然のこととして,むしろ推奨される雰囲気がありました.この環境だったからこそ,手法も研究対象も異なる分野から来た私の存在も好意的に受け入れてもらえた気がしますし,こうして新しい分野で時間をかけて一から色々なことを学ぶ機会が得られたのだと思います.また全く異なる分野に浸かったことで,自分が日本で身を置いていた研究分野の外側に広がっていた世界の広さに気づけた点は,ドイツで得たとても大きな学びでした.自分が知らないことの多さを痛感するのは時にしんどいことではありましたが,この経験を経て知識も視野も大きく広がったと思います.加えて,海外の研究環境に身を置くことで,日本にいては気づけなかった環境の差異,例えば博士課程の学生の待遇や,異なる分野間での人材の流動性の高さ,などを実感を伴って理解できた点も私にとっては収穫でした.
異なる環境,分野に実際に身を置くことで初めて得られる気づきはたくさんあり,海外に目を向ければそのような環境への門戸は意外と開かれています.自分が慣れ親しんだ分野を離れてみるのも悪くない,という一例として,私の経験談が少しでもどなたかの役に立てば幸いです.