生物物理
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海外だより
海外だより
~構造解析ソフトウェア開発の本場から~
山下 恵太郎
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2023 年 63 巻 5 号 p. 289-290

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はじめに

私は学部4年生のとき,タンパク質のX線結晶構造解析の研究室に配属されました.もともとプログラミングに興味があって物理と化学が比較的好きで,大学では生物も面白いと感じ始めていた私にとって,この分野はちょうどすべて揃っていました.生物学の謎に答えるために化学的に分子構造を解釈し,その構造決定には物理学的な手法とソフトウェアが必要だからです.私はX線回折パターンから構造に至るまでの過程に強く惹かれ,解析ソフトウェアの中身と使い方を熟知し自分でもソフトウェアを作るような研究者になりたいと思うようになりました.しかしながら,日本で(特にタンパク質の)結晶解析関係のソフトウェア開発を行う方はほとんどおらず,利用されているパッケージは欧米で開発されたものばかりです.多くの専門家や開発者たちと同じ環境で仕事がしてみたい,自分がそういった本場で活躍できるか試してみたいという思いから,欧米への留学を決めました.

ケンブリッジと構造生物学

ちょうど声もかけて頂いた英国ケンブリッジMRC-LMBのGarib Murshudovグループリーダーの研究室にポスドクとして留学することを決めました.GaribはCCP4(70年代に英国で始まった,結晶構造解析ソフトウェアの代表的なパッケージの一つ)の構造精密化プログラムREFMACの開発者として有名です.ちなみにモデリングソフトとして広く使われているCOOTの開発者もグループの一員です.英国と言えば結晶学と構造生物学発祥の地でもあり,中根さんの2014年の海外だよりを読んで頂くと雰囲気が分かると思います1).当時との違いとして,構造生物学のメインの技術は結晶学から電子顕微鏡による単粒子解析法(SPA)に取って代わられました.世界的にそういう傾向はありますが,LMBでは結晶解析を主とするところは完全に無くなりました.結晶化の施設は残ってはいるものの,所内セミナーなどはほとんど完全に電顕の話で,結晶は稀に部分的に使われる程度です.結晶学から始めた私にはショックですが,国内外では結晶をやっているところもあり開発要素も残っているので,両方に役立つ開発を続けて行きたいと思っています.

コロナ禍での渡航

渡英を決断したのは2020年3月のときでした.当時はちょうどイタリアが非常に深刻な状況になっており,退職を申し出た次の瞬間にあっという間に英国も危機的状況に陥りました.退職を少し延ばしてもらい,LMBには6月着任で話を進めます.ビザ取得に必要な英語テストIELTSは悩んでいたときからすでに受験を済ませておいたので,その点は良かったです.ただビザ申請は止まっており,6月渡航は不可能でした.幸い,私の仕事はコンピュータさえあれば可能なので,リモートワークでの開始となりました.日本の銀行口座への給与振込がうまく行かず,しかも先方はちゃんと送ったつもりになっていたりなど厄介なトラブルもありましたが,9月に無事渡英できました.ただ結局英国でもロックダウンが行われ,当グループは全員研究所での実験を必要としないため,しばらくはリモートワークでした.LMBに行けるようになったのは翌年の4月からのことです.その後もなかなか通常運転にならず,LMB名物クリスマスイベントも2022年にようやく再開しました.そこで上演されたパロディ劇は内輪ネタ満載で,本当に楽しかったです.2年連続でイベントが潰れてしまったことが残念でなりません.

研究所のクリスマス装飾.2体のペンギンは毎日移動しており,見つけるのを楽しみにしているのは私だけでは無いはず

英国での生活

ケンブリッジは家賃が高く,英国全体で物価や暖房費も高騰し続けています.MRCのような国の研究機関は給与が安すぎることもよく言われていますが,なかなか改善しません.ただそれで渡英を躊躇う人もいると聞いたので一応フォローしておきますが,毎日外食したいとかで無ければ実際に生活に困るようなレベルではありません.毎月欧州内旅行をしても赤字にはならないと思います(していませんが).1人暮らしする人も多くいますが,私は海外と言えばシェアハウスかなと思って3人で住んでいます.あまりの常識の違いに面食らうこともありますが,仲良く雑談できる人もいて励みになります.洗い物をしながら庭を眺めるとリスや野鳥たちが見えて癒やされます.研究所までは徒歩20分で,通勤経路ものどかで良いところです.かわりに中心街までは遠いので,あまりケンブリッジで生活している実感は持てません.

生活面で一番の不安はやはり医療でしょうか.英国は国民皆保険で医療は無料ですが,その医療体制は崩壊していてあてにできないとよく言われます.実際は何も問題無いと言う人もいますが,英国では鉄道・空港などに加えて病院のストライキもたびたび起きており,油断なりません.幸い,渡英後は2度軽くコロナに罹った以外は健康に過ごせています.健康診断も無いので問題に気づいてない可能性もありますが,日本より健康的な生活を送りやすいと感じています.

研究生活

より良い構造モデリングのための手法開発を行っています.やはりSPAのための手法が求められていることもあり,最初はSPAに絞って精密化プログラムやマップの改良方法などに取り組み,新しいプログラムServalcatを書きました.一年目の終わりに論文を出したことで,所内で興味を持った人たちが解析の相談に来てくれたりして,そこでまた開発のヒントを貰えたり,共同研究として構造モデリングを担当したりもしています.所内には構造生物学の研究を行っているグループがたくさんあり,グループ間の関係が良いことも本研究所の特徴かなと思います.Henderson博士が突然私の論文を握りしめながら使い方を教えてくれと言ってきてくれたのは,やはり外では得難い経験と思いました.引退した結晶解析ソフトウェア開発の先生方がたまに遊びに来てくれることもあって,そういう日はいっそうテンションが上ります.

ここに来た一番のモチベーションは,数学者であるボスから本格的な開発を学ぶことでした.私はこれまでどうしても動けば良い・便利なら良いという考えで開発することが多かったのですが,彼は意味のある数式に基づくことが重要という立場です.ただし,理路整然とした発想と式展開でうまく行くときもあれば,ときには大胆な発想を試し,うまく行けば理由を後から考えるというパターンのときもあります.当たり前のようなことではありますが,外から見ているとうまく行ったアイディアにしか触れることができないこともあり,やはり来た甲斐はあります.

グループは7人いて日本人は私だけですが,英国人も2人だけです.LMB全体も国際色豊かで,自分が外国人だという感じはあまりしません.同じ背景が共有されていないことが,逆に心地よく思っています.グループで朝にはコーヒーブレイク,午後にはティーブレイクがあります.多少余裕が無くても決まった時間に一緒に一息ついて話をするのは良い文化だと思いました.ブレイクと言いつつ研究の話をすることが多いですが,雑談でラテン語やギリシャ語の話になったり,各国政治事情や各宗教の神々の話になったりするのは,留学している感じがします.LMBは雑用の類は全くと言っていいほどありませんし,書類仕事もオンラインで簡単に行えます.計算機やネットワークの管理もサイエンティフィックコンピューティングのグループがあってすべて面倒を見てもらえます.普段使うコンピュータで管理者権限を持てないのは初めてですが,研究に集中できるのは有り難いことです.

おわりに

「将来あなたのグループで働くことはできますか」博士学生のとき,日本で行われたCCP4の講習会で現ボスに聞いたことがありました.9年越しでそれが叶い,すでに3年が経ちました.普段の研究生活に加えてオンラインの発表,英国内学会のセッション座長,講習会での講師,さらにはCCP4の開発者会議への参加や発表など,様々な機会に恵まれました.英国含め欧州では各地で構造解析ソフトウェア開発が研究テーマとして当たり前に存在していて,CCP4やCCP-EMといった枠組みで互いに協力する体制があることは非常に羨ましく思います.まもなく留学生活も終わりますが,そういった体制や文化を日本でも持つことができたら良いなと感じています.

文献
 
© 2023 by THE BIOPHYSICAL SOCIETY OF JAPAN
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