生物物理
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海外だより
海外だより
~ニールス・ボーア研究所から~
金子 邦彦
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2024 年 64 巻 3 号 p. 170-171

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1.  経緯

この海外だよりは若手研究者が海外で頑張る姿をみせて後進を刺激するページだと思っていた.こんな高齢者が書いてよいのか,はなはだ疑問であるけれども*1

2022年3月に日本で定年を迎え,ひょんなことから,その後,デンマーク,コペンハーゲン大のニールス・ボーア(Niels Bohr)研究所にポストを得ることになり,着任してまもなく2年になる.まず,その経緯を述べると:

こちらの研究所には生物複雑系(Biocomplexity)という,Sneppen教授,Jensen教授,御手洗准教授らを中心とした,生物物理の活発なグループがあり,私も折に触れ訪ねていた.2020年に,勤続三十数年で初めて半年サバティカルをいただけるということで,しばらく滞在してみようとしていたところ,日ごろの行いの悪さか,Covid-19のパンデミックで渡航もできなくなり,結局自宅にいる日々に.この無念を先方とやりとりしているうちに,それならば,このグラントに応募してもし通れば,定年後こちらに来られますが,という話になった.これは海外研究者がデンマークに研究室をたちあげて新しい流れを導入するためのもので.Novo Nordisk Foundation(NNF)という財団の研究費.製薬会社の財団なので,医薬に役立つと書いたほうが良いとも言われたけれど,結局,いつも通り,「普遍生物学」で基礎研究の直球で出した.なので,まあ通るまいと思っていたら,2021年春に採用という連絡が突然来てびっくり*2.こちらとしては日本定年後の予定もオファーもないし*3,1年くらいのどかに暮らせれば,というつもりが5年半の「普遍生物学」プロジェクトを主宰するに至ったという次第.

2.  異動

で2022年初頭には,三十数年務めた大学の研究室の片づけから慣れない退職手続きのもろもろで十分頭がパニックのところに,並行してデンマーク行きの手続きが始まる.コペンハーゲン大学雇用,ビザ取得に始まり,国民番号とその電子版をとるまでが一苦労.今更,修士修了証明書がいる?結婚証明書ってどこで?などなど.で,ここまでをクリアしないと,銀行口座が開かないので給料ももらえない*4.しかも,これらの手続きが全部電子化されていて,スマホのアプリでとか言われても,もともとガラケーで暮らし,ただでさえ事務手続きは不得手な高齢者にはもうパズルの世界.さらに,大学には宿舎がなく,コペンハーゲンは住宅探しが非常に難しい.それなのに国民番号をとるには住所がいり,アパートを探すにはデンマーク住民でないと難しい,といったダブルバインド状況.夏まではこうしたもろもろで困憊したけれど,なんとか新生活を始められた*5

3.  生活

始まれば,デンマークの春夏は快適この上ない*6.住んでいるところは森や海の近くの郊外で,その割には研究所にもバスで15分.週末は妻と近くの森や湖で散策,といったのどかな生活を始められた.

当初,フルに働くのはしんどそうだし,エフォート率80%くらいにしようかとも思ったのだけれど,こちらでは3週間の夏休みを含めて年6週間の休暇(土日は数えず42日)が義務なので,そのままでも日本の8割くらいの感じになる.研究所も朝は早いけれど夕方になると閑散としてくる.ただ,不思議なのは企業も含め,それで特に生産性が低いわけではない.さすが幸福度1,2位の高福祉薔薇色社会,と感じられる面もある一方で,時には何事にも光と陰があると感じることも(一つ一つ書き出すと長いので割愛).

もともと夫婦とも若いころ米国には暮らしたけれども欧州で長期暮らしたことはなかったので,その好奇心もあって,えいやっと決心した.たしかに様々な点で日本と両極端のことが多くて面白い.ただ若い時はこうした違いを全て楽しめたのだけれど,この年齢になると楽しむだけでなく,つい不満に思うことも.やはり若い時の方が,感性も瑞々しいし,刺激も多く受けられ,そしてその経験は将来に生きてくる.なので(仮に日本の方が暮らしやすくても)一度は飛び出ることがいいように思う(と,この欄の趣旨の若者向けメッセージも).

4.  研究

ニールス・ボーア研究所はその名前通り,量子物理関係が大きな勢力である.それに比してBiocomplexityは小さいグループではあるけれど,皆活発に,独自の研究を展開している.小さいゆえに,風通しがよく,昼には集まって食事をし,楽しくわいわいとやっている.

私のグループは現在,院生2名,研究員1名の小世帯*7.寂しがっていると思われたのか日本から,もと院生や共同研究者が陸続と慰問(?)に訪れる.のみならず,海外派遣の院生やサバティカルで長期滞在される方も増えてきて,だいぶにぎやかになり研究所のこの一角は日本語が飛びかっている.

さてそろそろ研究内容を書かないといけないのだけども,よしなしごとを書き綴っているうちに余白がなくなってしまったのでさらっとだけ:

プロジェクトは,生命システムが満たすべき普遍的性質や法則を探ろうとする,日本発の「普遍生物学」1)を「輸出」し発展させるというもの.なので,研究テーマの自由度は高い.実際に,細胞・発生・進化生物学だけでなく,脳科学2),さらには板尾健司さん(現理研)とは「普遍人類学」の構築にも挑んでいる3).といっても主には,分子・細胞・多細胞生物・生態系の異なる階層間,そして異なる時間スケールの現象間でのマクロミクロ整合性を指導原理として,細胞複製系の創発,細胞の状態論,生態系-進化-発生対応の研究を進めている4),5).その一方で物理としては進化次元圧縮や進化揺動応答関係を明確に理論化しようとしている6).ただ,顧みるとこれらの多くは,東大在職時からの宿題7)であり,こちらに来て一から新しいことを始めるにはまだ至っていないのは少し心苦しい.

デンマークは人口600万弱の小国でありながらティコ・ブラーエ,エールステッド,ボーアと,力学,電磁気学,量子力学の形成において鍵となる役割を果たした研究者を生んだ地.できれば,生命の物理(普遍生物学)の形成に貢献し,当地と研究所のご厚意に答えたいのだけれどもあと3年半でどこまで行けるだろうか.

*1  とはいえ,高齢化社会の訪れで,以前は院生やPDの就活の場でもあった学会がいまや定年教授の再就職活動の場になっているという噂もあるくらいだし…

*2  NovoNordiskはDenmark屈指どころか欧州トップの企業にまでなっており,そういったケチなことは言わないのかもしれない.グラントはそこそこの額なので,日本の感覚では,通るまでにヒアリングとかあると思っていたのに,全くなく,ある日突然採択のメイル.

*3  大学教授定年後のパターンを考えると(1)大学初年度向け教育―少人数向けの後進育成は好きだけど多人数一般教育は不得手(2)管理職―学部長の経験もないうえ全く不向き(3)学会運営―学会活動にも熱心でなく(4)研究費配分の役割―そもそも,選択と集中は進化論的にも間違いではと思っている立場上,推進側にもなれず.一方,貧しい日本で若い人を押しのけて予算をとりにいく勇気もない.本稿は同様な悩みを抱える高齢者向け?

*4  多くのページは英語対応されているのだけど,突然デンマーク語のみになったりする.幸か不幸か専属通訳はいないので.

*5  収まりつつあったとはいえ,COVID-19の影響で簡単に往復もできないので,アパート探しに来ることもままならず,その上2月にはウクライナ-ロシア戦争が始まり,飛行機の便もなかなか定まらず.

*6  なお,日照が少ない冬は理由をつけてできるだけ日本に戻る予定なので,何かあればお誘いいただければ嬉しいです.

*7  もう1名雇用できる予算はあるので,希望者がいたらご一報ください.

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