2024 年 64 巻 5 号 p. 272-274
我々の世代は,子供の頃将来の夢は「昆虫学者になること」という人が多かった.筆者ももちろんそうであった(実は,今の将来の夢も同じである).
昆虫の,そして生物の魅力は,その多様性とダイナミズムにあると思う.したがって,昆虫さらには生物の研究においては,様々なレベルで現れる非線形ダイナミクスの理解が本質的に重要な課題となる.
特に,神経細胞や脳が生物の多彩な行動やヒトの意識までをも生み出すことに,大きく貢献していると考えられるため,その非線形ダイナミクスはより一層魅力的な研究テーマとなる.本エッセイでは,この脳の非線形ダイナミクスとその数理構造をめぐって,筆者が影響を受けた論文や書籍をご紹介したい.
神経膜の非線形ダイナミクスを微分方程式(ホジキン-ハクスレイ方程式)で記述したA. L. HodgkinとA. F. Huxleyの論文1)は,脳や神経細胞の理論に興味のある読者にとって一度は読むべき論文だと思う.筆者は,東大工学部計数工学科の学部の論文輪講や20年近く担当した4年生の講義「生体情報論」で,この論文を解説したが,何度読んでも素晴らしい.生ものの神経膜のダイナミクスが,非線形の時変コンダクタンスを有する電気回路モデルを通して,微分方程式に結び付く.見事である.
1952年の論文なので,情報量規準などは十分には研究されていない時代だが,過度に複雑化せずに適切な程度の非線形性に留めるなど,数理モデル化のセンスのよさが感じられる.それでも生物の数理モデルなので,微分方程式自体は他分野の数理モデルと比べてとても複雑ではあるため,その数値計算は当時としてはたいへんだったと思われる.Huxleyが,手回し式計算機を使って3週間かけて活動電位の伝搬解を求めたという話が伝わっているが,友人のH. Robinson博士のケンブリッジ大学の研究室には,この計算機が大切に保存されている(図1).
活動電位を計算した手回し式計算機.
2012年6月に,彼らの論文出版60周年を記念する国際シンポジウムがケンブリッジ大学で開催されたが,その際,E. D. Adrianを含む3名のノーベル賞受賞者の研究業績を記念する石碑の除幕式も行われた(図2).彼らの業績の大きさから考えると実にささやかな記念碑なのだが,そこにはむしろ逆に学問の奥深さを感じさせる心地よさがある.筆者は,ホジキン-ハクスレイ方程式のカオス解を大学院生時代に発見することが出来たので,個人的にもとてもお世話になった数理モデルである.
Adrian,HodgkinとHuxleyの記念碑.
筆者は,これまでにお二人の恩師の先生方のご指導を受けながら,この分野の研究を行ってきた.実験面でご指導いただいたのが,松本元先生である2).松本先生のご研究に関しては,「神経興奮の現象と実体(上)」3)を読まれるのがいいと思う.
松本先生は,非線形非平衡物理学の観点から,神経膜が活動電位を生成する過程を,「外部入力によって誘起される,静止状態の平衡構造から発火状態の散逸構造への状態遷移」であると提案された3).生物は非線形非平衡システムの典型例であるが,脳の基本構成要素である神経細胞において情報を担うと考えられている活動電位の生成過程自体が非線形非平衡現象として理解出来るという独創的な考え方であった.
筆者は松本先生のご指導を受けながら,前章のホジキン-ハクスレイ方程式やその修正モデル,さらにはヤリイカ巨大軸索を用いて,この非線形非平衡な神経興奮過程の背景に,数学的にはサブクリティカルなホップ分岐があることを示した.この経験から,力学系の分岐理論が実現象の理解にとても有効であることを実感することが出来た.松本先生は持ち前の豪快なご性格で,多くの研究者を引き付けるオーラにあふれていた.当時ひげをはやしておられたので,松本先生に心酔していた筆者もまねをしてはやしてみたが(図3),これは家族に大不評ですぐに断念せざるを得なかった.
松本先生とHodgkin-Huxley方程式やヤリイカ巨大軸索のカオスを研究していた頃の筆者(左から2番目).
筆者の理論研究の恩師は,甘利俊一先生である(図4)4).今もお元気で研究をされていて,ご自身で新しい理論を構築し続けておられる.驚くべき才能である.
甘利先生(右)と筆者(左)(西オーストラリア大学にて).
甘利先生のご研究に触れるには,「神経回路網の数理」を読まれるのがいい5).この本には,甘利先生が開拓されてきた数理脳科学の基本的アイデアが満載である.さらに本書は,最近ちくま学芸文庫から文庫版として出版されたので,入手し易くなった.日本人の研究者にとってありがたいことに,本書は英語に翻訳されていないため,それだけでもこの分野の日本の研究者にとって大きなアドバンテージとなっている.筆者は本書をいつも持ち歩いていたので,母はこの本のタイトルだけは覚えてしまった.甘利先生はそのお人柄の明るさもあって,お会いするたびに今でも元気をいただける.ありがたいことである.
世界でもきちんと理解している研究者は少ないのだが,現在隆盛を極めているディープラーニングの源流のひとつは,1967年に出版された甘利先生の確率勾配降下法研究にある6).科学の独創的な基盤となるシーズ研究ではしばしばあることだが,論文が出版された時にはあまり注目されていなかった理論が50年経って花開いたのがディープラーニングなのである.本エッセイを読んでくださった若い研究者のみなさんには,この論文のように,出版時にはそれほど注目されなくても,長い年月を経た後にその驚くべき発見の意義があきらかになるような論文を,ぜひ書いていただくことを期待したい.
なんとなく不十分なエッセイになってしまったが,昔をなつかしく思い出しながら影響を受けた論文と書籍に関して書いてみた.影響を受ける論文や書籍との出会い,さらには恩師の先生方との出会いは偶然の要素も多い.その時に,その幸運を感じ取れるだけの直観と感性と学力を日々磨いておくことが,研究や人生にとって大切であるように思う.
…と本エッセイを一応書き終えてほっとしていたら,査読者から「やり残していること(次世代研究者に伝えたい,解けていない問い)」も可能なら書いて欲しいという貴重なコメントをいただいた.やり残していることはたくさんあってとても書ききれないのだが,本エッセイの内容に関係深い部分に関してのみ,簡単に加筆させていただくこととした.
どうしても避けられない論点は,4章の最後の話とも関係する昨今の生成AIの驚くべき進歩である.松本先生の下で垣間見させていただいた生ものの単一神経細胞の複雑さと,それとは比べようもない程に単純化された区分線形人工ニューロンから成る超大規模な複雑ネットワークが,膨大なデータと電力を使って甘利先生流の学習則で生み出す高性能な人工知能の対比.昔からある脳と人工知能の関係性をめぐる議論が新しいフェーズに入ったのは,間違いないであろう.複雑系が高次機能を発揮するために必要な,基本構成要素の複雑さと要素数を含めた構造の複雑さとの関連の問題であるとも言えよう.このような観点から,人工ニューロンにカオスダイナミクスを持たせて少し複雑にした基本構成要素から成るカオスニューラルネットワーク7)などを研究したりしてきたが,依然として面白くかつ難しい未解決問題として残っている.
筆者が現在主な研究活動の拠点としている東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(IRCN)には,優れた実験脳科学者や臨床脳科学者,さらには数理研究者がたくさん所属していて日常的に脳科学をめぐる多様な議論が出来るため,上記の問題を考えるにはとても適した場所である.IRCNでは,特に脳の発達過程に着目して,ヒト知性がどのように創り出されるのかを理解することを最終目的にした研究が活発に行われている.なんとか思考を続けて,この問題,さらにはおそらくその先にある,意識はなぜ創発するのか?人工知能はいつか意識を持つのか?という,大勢の研究者を長年引き付けて魅了し続けている未解決の超難問を,筆者なりの観点から考えてみたいと願っている.
ただ,虫も取りたいし,悩みは尽きない.
合原一幸(あいはら かずゆき)
東京大学特別教授/名誉教授