2025 年 65 巻 4 号 p. 222-224
私は学部の卒業研究(東大理・生化)では好気性細菌の呼吸について研究し,とてもうまく行った.半分以上は眉唾的だが,今評判のmiRNAをすでに1968年に発見したことになったかもしれなかった.しかし教授とのゴタゴタで(指導教官は助教授)その研究室にはいられなくなり,大学院では,新任でウニ卵を使って細胞分裂を研究されていた酒井彦一・新助教授のお世話になった.それは私にとってはとてもいい変化だった.私は海岸生まれだったので海が好きで,しかもじっとしている細菌の研究では我慢できなかった.現在のテーマ「細胞質分裂の分子機構」はこの時に始まった.ちなみに酒井さんは学科のスタッフ+院生の全員の投票による人事で決まった人である.このような教授,助教授の選考方法は他では聞いたことがない.
私は米国に留学したくて,博士課程3年の時にめぼしい複数の研究室に手紙を書いたが採択されなかった.そのうち,東大駒場から助手のポストを紹介され,採用していただいた.東大駒場の生物教室は本郷の生物化学科より貧乏世帯の上,教育のduty(授業,実習)が圧倒的に多かったが,研究体制は本郷の学科より進んでいた.講座制でなく,いわゆる研究室制を取り,助手も独立していて,文部省(現,文部科学省)から配分された予算は教室内で助手から教授まで均等に分配され,高価な機器はもちろん,純水などは共同使用だった.私は教育以外は自由に研究し,外部研究費は自分で獲得し,論文は自分でどんどん発表できた.本郷で経験したようなゴタゴタは起こりようがなかった.私の研究者としての生き方は駒場で育ったと言って良い.このような「単独で研究を行う環境」にいたためか,自然に,そのような研究者の優れた研究に目が向くことになった.そんな中で強く感銘を受けた2人の研究者の研究について書かせていただく.
Raymond Rappaportは米国メイン州のMount Desert Island(MDI)の生物学研究所(BL)で研究していた.私は毎夏,Woods Hole臨海実験所(MBL)で実験していたのでその前にMDIに寄り,図々しくもRappaport夫妻の家に泊めていただいていた.MDIはボストンから小さなプロペラ機で1時間半ほど北にある.いつもMDIの飛行場にはRayが車で迎えにきてくれた.研究所構内には木造ロッジがバラバラと建っていて,その1つを彼が借りていた.ロッジの中はすなわち彼の研究室だったが,顕微鏡1台とmicromanipulator 1台だけが主な装置だった1),2).このロッジで,彼の創意に溢れた研究が生まれてきたのだと感動する.創意と工夫があれば研究はできる,という実感が湧いてくる.ここで彼は毎年一報くらいのペースで重要な論文を,ほとんどが単独著者として発表してきた.彼には弟子と呼ぶべき人,指導すべき学生も共同研究者もいなかったと言って良い.研究材料はウニの仲間のカシパンの卵である.MBLのように研究用生物を支給してくれる部署はなく,カシパンの採集は干潮時を狙って自作の柄の長い網で行ってきた.
私の訪問はRay夫妻にとってさほど迷惑ではなかったようだ(と思っている).私の訪問中の夕食は私が日中にロブスターを買いに行って,夜,Rayが茹でてくれるという分担の習慣ができた.そんなわけでRayとは好きなだけ研究の話ができた.彼の経歴で驚くべきことは,彼は専門の細胞分裂の研究に入る時期に,ほとんど独学で勉強し,他の細胞分裂研究者の誰とも会ったことがなかったということである.先達の論文は熟読していて,特に八津直秀博士,団勝磨さん,井上信也さんらの論文に影響を受けたようだ.MBLにいると世界中の研究者やコース参加の学生達がやってきて,賑やかな交流が行われるが,MDIBLには細胞運動の研究者はRay以外一人もおらず,彼はこの島で全く一人で研究していた.私はいつもMDIBL訪問の後,MBLに移動していたのでその落差を強く感じた.しかしRayは自分の専門ではない分子生物学も含めて広い知識を持ち,遺伝子工学の方法論についてさえ議論することができた.
1)1961年の論文3):分裂位置を決定するものは何か?
核分裂の過程で形成される「分裂装置」は2つの中心体,それらを微小管で連結する紡錘体,染色体,中心体から放射状に伸びる星条体から成る.分裂溝は常に分裂装置の中央を通る面内の細胞表層に形成されるが,これらのどの部分が分裂位置を決定するかは不明だった.カシパンの受精卵の真ん中にガラス棒を突き立てる.カシパン卵は直径150 μm以下しかないので,実験は簡単ではない.しかも卵は1時間ほどで分裂してしまうのでのんびりはできない.この操作の結果,卵はドーナツ状になる.通常は中央付近にある細胞核はドーナツのどこかに押しやられ,そこで第1分裂の分裂装置が作られる(図1A).そして分裂装置の中央に近い表層に第一分裂溝が入り,ドーナツは馬蹄形になる.第2分裂の分裂装置は馬蹄の両側2箇所に形成され,それらの中央の位置(図1B, C)に分裂溝が形成された.ところが,もう1つ“余計な”分裂溝がドーナツの上部(図1D)にできたのだ.その位置には分裂装置はなく,第2分裂の2つの分裂装置の星状体から伸びる星糸だけが存在する.彼はこれらの結果から「分裂溝を誘導するものは2つの星状体」だと結論した.
2)1967年の論文4):分裂溝の形成を誘導する因子の伝播速度.
この因子の実体は何か?という問題は細胞分裂の大問題の1つだった.その問題に手がつけられる前にRayは,誘導因子の細胞内での伝播速度を求めた.目では見えない仮想物質の,しかも移動するかどうかもわからないのに,その速度を測るなんてどうやって思いついたのだろうか?
彼は,カシパンの受精卵をスライドグラス上で上から押して少し扁平にする.すると第1分裂の分裂装置の位置が中央からずれて,卵割期にはまず分裂装置に近い方の細胞表層Aに分裂溝が入る.ついで遠い方の卵表層Bに数分遅れて分裂溝ができる(図2,左から右へ分裂).A,Bと分裂装置の中央の距離の差とA,Bでの分裂溝形成の時間差をプロットすると,直線関係が得られた.この傾きから分裂シグナルの移動速度が推定できた.その速度は6-7 μm/minで,これは微小管の重合速度と同程度だった.つまり,誘導因子は星糸(星状体微小管)の伸長によって細胞質から細胞表層に運ばれると想像された.この素晴らしい結論は上の実験1の結果と合致する.この実験はちょっと手ほどきすれば小学生にもできるような易しい実験である.しかし,Ray以前には誰も思いつかなかった.

分裂溝誘導因子の伝播速度を求める.左:分裂中期のウニ卵.細胞内の少し下側に分裂装置がある.染色体は描いていない.中:分裂終期〜細胞質分裂.下側で星糸が分裂溝を誘導している.右:下側の分裂溝は進行.遅れて上側で星糸が分裂溝を誘導している.文献4のFig.1をイラスト化(三田真理恵,馬渕一誠).
繰り返すが,これらの研究はRayの研究室にあった顕微鏡とmicromanipulatorがあれば遂行可能だった.一方で,誰も思いつかなかった研究でもあった.なぜだろうか?私は,彼の執念はもちろんのこと,彼が細胞をよく眺めて中で何が起こっているかを考える豊かな想像力を持っていたためだと思う.
私は助手になりたてだった頃,細胞分裂のシグナル伝達物質の1つの可能性があるCaイオンに興味があった.そして筋肉のECカップリングに関するAshley & Ridgway5)の論文を読み,彼らの実験結果を表した美しいグラフに魅せられた.このグラフは私が動物学の授業にずっと使ってきたものである.論文には,Caイオンの測定にShimomuraによって得られたaequorinという,Ca結合により発光するタンパク質を使ったと書かれていた.そこで私は下村博士の論文6)を読み,自分でaequorinを調製しようと思って,Aequoreaというクラゲが日本でも瀬戸内海にいることを知り,岡山大の玉野臨海実験所に出かけた.このクラゲは現在,同属のクラゲをひっくるめてオワンクラゲと呼ばれているが,当時はヒトモシクラゲという美しい名で呼ばれていた.クラゲ採りに連れて行ってくれたのは技官の磯崎雅夫さんだった.彼は,何日の何時ごろに広い瀬戸内海のある地点で船を浮かべて待っていればそのクラゲが浮いてくるというようなことを言った.そしてそれは本当だった.香川県寄りの小島の近くで待っていたら,クラゲが次々に浮いてきた瞬間は今でも感動を持って想い出す.私は数百匹のクラゲを採集して傘のヘリを切り取り,硫安を加えて東京に持ち帰った.下村さんの実験法は私の学んだ生化学実験とは違う点もあり,なんとなく泥臭い(失礼!)感触を持ったが,詳細に記述してあったおかげでaequorinを得ることができた.下村さんとは交流がなかった私は,実験で不明な点があったとしても国際電話で聞くこともできず,当時はメールもなかったわけで,論文が「詳細に記述」されていたことが極めて重要だったのである.暗室でaequorin溶液にCaイオンを加えたところ,ぼっと(音はしなかったはずだが)試験管が青白く光ったのには感激した.このaequorinを東工大の浜口幸久君のところに持ち込み,ヒトデ卵に顕微注入して,受精時のCaイオンの増加を検出することができた.日本で初めてのaequorinを使った論文だった7).
下村さんご夫妻は長崎原爆の被爆者である8).下村さんは1948年,原爆で壊滅後に諫早に移転した長崎薬専に入学した.理系を目指した彼にとっては当時他の選択はあまりなかったのだろう.その時から彼は無機化学の世界に入り,長崎大学薬学部を経て名古屋大学理学部で有機化学,生化学を始め,世界に先駆けてウミホタルルシフェリンの結晶化を行った8),9).これが彼の生物発光研究のスタートである.
1960年にアメリカPrinceton大学に移り,そこで教授の勧めでオワンクラゲの発光物質の探索を始めた.教授はクラゲの発光もルシフェリンによるものだと信じていたそうだが,下村さんがいくら頑張ってもルシフェリンは得られなかった.下村さんはルシフェリン探しは諦めて,ともかく発光に関係する物質を探そうと教授に提案したが,教授は賛成せず,研究室は下村さんと教授グループに,実験室を区切ってまでして,2つに分かれてしまったそうだ.しかし結局下村さんは,Caイオンを結合すると青く発光するaequorinを発見する.この辺りのドラマチックな展開は彼の回想を読んでいただくと良い8),9).Aequorinは分子自身が発光する初めての発光タンパク質だった.彼はさらにaequorinの発光団セレンテラジンの構造を解明した.Aequorinは細胞内Caイオンの濃度測定に用いられ細胞生物学に大きな貢献をした.
ついで1981年,彼はWoods Hole MBLに移り,aequorin精製時の副産物として得られていた,紫外線を受けて緑の蛍光を発するタンパク質(Green fluorescent protein, GFP)を精製した6).GFPは驚いたことにその一次構造の中に発光部分を持っていた.そして生物に遺伝子導入した場合,細胞内で蛍光を発したのである.この恩恵は今,細胞を扱う皆さんが受けている通りである.
彼は実験に行き詰まった時は自分一人で徹底的に考え抜いて乗り越えた8).そのためかもしれないが性格的には厳しい方だった.私は毎夏MBLに行くと隣町に住んでおられた下村夫妻がいつも昼食に招待してくれるという,下村さんご夫妻には申し訳なくも贅沢な経験をさせていただいた.下村さんとは研究分野が異なる私だったが,下村さんの一言一言で研究に対する厳しい姿勢を十分に感じることができた(文献10に彼の口調と考えが再現されている).
Rayも下村さんも,独力で考え抜いて実験した.特に下村さんの研究の進捗は興味深い.彼はさまざまな困難を乗り越えているが,その都度偶然とも言える幸運に導かれている.このことを「光るクラゲ」9)を翻訳された滋賀陽子さんはあと書きにこう書かれている.『下村博士がウミホタルのルシフェリンの結晶化と,オワンクラゲのイクオリンの精製に成功した時,二度とも思いがけない幸運(セレンディピティー)に恵まれたと思われるかもしれない.しかしこれは「棚から牡丹餅」とは全く違う.労せずして巡り合った幸運ではなく,労したからこそ棚の下へ行きつけたのだ.実験の失敗を繰り返しながらも,常に考え続けているからこそ,ある時ハッと気がつき,突破口が見つかる.(一部略)セレンディピティーとは努力の賜物なのだ.』.名文である.研究者には当たり前のことかもしれないが,本拙文には極めて適切な締めくくりの言葉と考え,引用させていただいた.
馬渕一誠(まぶち いっせい)
東京大学理学部生物化学科,同大学院,理博.東京大学教養学部助手.Pennsylvania大学生物学研究員.Stanford大学医学部研究員.東京大学教養学部助教授.東京大学総合文化研究科教授.岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所教授(併任).東京大学名誉教授.学習院大学理学部教授.